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捕虜第1号 E [2007年10月29日(Mon)]






 広島県江田島の海上自衛隊幹部学校に展示されている
特殊潜航艇(二人乗り)。米側から返還されたもの。








 真珠湾攻撃で捕虜になった酒巻和男氏へのインタビューの記録を連載している。

 注が多く、読みづらい点は勘弁してほしい。


    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★


インタニーの世話になる

―― ドゥリットル中佐らの空母「ホーネット」発艦直前にこれを発見した監視船「長渡丸」の5人がくる(これらの人々については吉村昭の『背中の勲章』に詳しい)まで、酒巻さんは唯一人で捕虜生活を送られたわけですね。ジュネーブからの通知にはインタニー(日系人被収容者)数十人と羅列して名前が出てますが・・・・・・。

酒巻 ホノルル郊外のキャンプに私一人いたんです。別個の区画に一人いて、その周囲に日系人が収容されていました。本土に行ってからも、寝泊りは別でしたが、昼間は番兵つきで・・・・・・、私には番兵がたえず尾行しているわけです。それでも自由に往き来できるようにしてくれました。


―― 品物の授受とか食事はどうなさいましたか。

酒巻 品物もいろいろ貰いましたし、弁当の買出しを一緒にしてくれましたが、食事は別です。別々といっても中味は同じものです。結局、インタニーの人たちが作ったものを持って来てくれるわけです。私がお世話になった訳です。だから食事は一緒にした場合もございます。


〔注〕(酒巻少尉は)無論全然他と交通を絶たれ、食事なども事務局主任のS少尉自身がガードと共に三度とも運んでゐた。後には酒巻少尉の為に、我等の間より従卒1名を募り、裏オアフの重国愛輔氏が志願して之に応じたが、談話は一切許されなかったのである。――時折り、日本軍の素晴しい戦果が、遅れ馳せながら、新来のインタニーなどから伝はって来る。それを酒巻少尉に知らせたいのは山々であるが、どうする手蔓も無い。柵外への奉仕勤労に赴く連中のうちに、その通り道にある酒巻少尉の小舎の前で、わざと軍歌を歌う風で、戦報の大略を放送したやうな勇敢なものも居て、私達を冷々さしたやうなこともあった。
 酒巻少尉の時は何もなかったが、後に来た捕虜に対しては、当局が種々仕事を言ひ付けやうとすると、ガード等に反抗して手古ずらせたり、夕刻の国旗引き降ろしの際、直立不動の姿勢を執っているのが嫌さに、喇叭を吹き初めるとすぐ、打ち連れてバラックの中へ、駆け込むやうなことは、幾度もあった。

<相賀(そうが)渓芳(安太郎、ハワイでインタニー)『鉄柵生活』(1946年1月から7月まで「布哇(ハワイ)タイムズ」に掲載したものをまとめたもの)、54頁>



―― 米軍の兵隊や将校と同じものを食べたというよりも、日本的なものを食べたということになりますね。
酒巻 私のあと半年ぐらいして、(ミッドウェーの捕虜である)萬代(久男、海軍少尉、空母『飛龍』機関科員、ミッドウェー海戦後漂流15日で捕わる。戦後は、海上自衛隊に入り、江田島幹部学校長などを歴任、将補で退任)君らが来てからも、私らは自分たちで材料を受け取って食事を作りました。


――材料といいましてもあの時代のアメリカですから醤油なんかはなかったですね。
酒巻 もちろんそんなものはありませんでした。ただ、ハワイはもちろん米本土でも日本人や中国系の人がたくさんいたわけですから、醤油は生産されており、私らがひとつの作業をやって金が入った時など、その給与で買うのです。また、アメリカ赤十字から緑茶が配られたこともありました。



〔注〕交換船で故国から日本茶と理研のビタミン錠が送られてきた。抑留邦人宛に送られたものであったが、米国赤十字社の方で其の一部を我々の方にも頒けて送って来たものである。皆母国の人々に感謝した。茶は祖国を偲ぶ飲物として有難いものだった。戦傷者用として、又変態的生活をしている我々にとっても、ビタミンは渇求の物であった。実によく解った贈物として総員感謝していただいた。
<酒巻『俘虜生活4ヶ年の回顧』46頁>


 相賀氏の前掲書にも、サンタ・フエのキャンプ・ボリチックの1,900幾人かのインタニーに対し、1943年12月7日(開戦記念日)に、日赤からのインタニーへの慰問品である「緑茶」が全員に配られ、さらに、同27日には、日赤から慰問品として、醤油3,294樽(キッコーマンの大樽)、味噌158樽、薬品23箱、楽器5箱、邦文書籍5箱が着き、正月を前に全員に配布されたとある。米国赤十字社は人道的見地に立ってこうしたインタニー宛の物を捕虜にも回したようだし、インタニーの方でも配布された物からさらに捕虜に分与したようである。

 当時、日赤副社長だった島津忠承現同社名誉社長の話「いろいろ研究して、まず緑茶を送ることにした。日赤としては軍の手前、いきなり日本人捕虜に送ると公言するわけにはいかなかったが、米赤(アメリカ赤十字社)ならきっとそのくらいのことはするだろうという気がしないでもなかったのです。品物を何にするかは慎重に知慧を出して考えたことで、救援物資を連合軍の赤十字と交渉し、昭和18年には私自身、こうした物資やアメリカやオーストラリア軍の捕虜あての家族などからの手紙を持ってシンガポールまで行きました。お茶は気持を鎮め、故国を偲ぶよすがとして本当に喜ばれたようですよ」


〔注〕NHKの連続テレビ「山河燃ゆ」では、日本と米国の2つの祖国を持つ在留邦人の苦難の歴史が浮彫りにされ、多くの人々に多大の感銘を与えた。これら敵性国民として、僻地の収容所に入れられていた在留邦人が、捕虜の日本の兵隊さんへと、米、味噌、書籍、それに衣類などを度々送ってくれたのである。日系人から贈られた貴重な食糧は、祝祭日などに懐かしい祖国の味、寿司やおはぎとなって我々を喜ばせた。
<横山一吉(飛曹長、緒戦で英戦艦「レパルス」を撃沈、海軍中攻機機長として第5次ブーゲンビル沖航空戦中、乗機被弾、着水、漂流中捕わる)「忘れ得ぬ人々(最終回)」『続・大空の絆』所載、自費出版、112頁>


〔注〕米国がドイツに在る俘虜に送る物資の豊富なことに驚いたし、1週間に1個宛与えられるボール箱の中の煙草、下着類から歯磨、楊子にいたるまで羨しいほどであったが、それにも増して感心したのはフランスが送る救恤品であった。フランス人は満足に食べていないのである。それにもかかわらず、異郷で労働に服している家族の身の上を気遣って、莫大なものを赤十字を通じて送っているのである。衣服類は粗末なスフ入りのものである。菓子も昔のチョコレートではない。しかしこの一つのボール箱を受けたフランス人は、どんなに故郷を懐しく偲ぶであろうかと思うと眼に熱いものが感じられた。主任の説明によると、ドイツも俘虜には充分尽くしているそうである。ドイツの分はジュネーブを通らずに直接マルセイユに蓄積され、捌かれて行くのであるが、物資の不足なのにかかわらず、なかなか豊富なものを送っているとのことであった。日本ならば慰問袋というところであるが、外国のは兵隊は給与だけで充分足りるので、むしろ俘虜に慰問袋が行くのである。

<与謝野秀(与謝野氏は戦争中、外交官として主としてスイスに在勤し、国際赤十字との交渉を担当した。戦後は、イタリア大使、東京オリンピック組織委事務総長など。自民党所属衆議院議員与謝野馨氏の父。)『一外交官の思い出』筑摩書房、115頁>
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