テロ [2007年10月12日(Fri)]
きょう、10月12日は 日本社会党委員長だった 浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、1898年〜1960年)が、 日比谷公会堂の壇上で刺殺された日。 日付はすっかり忘れていたところ、 江田五月参院議長が教えてくれた。 私はその現場をほとんど最前列で目撃したのだった。 ほとんどというのは、 その前にカメラマンが林立していたということだ。 浅沼委員長は、 全国津々浦々を極めて精力的に遊説し、 「演説百姓」「人間機関車」と呼ばれた。 私は日米安保条約の改定には賛成だったから、 政治的に共鳴することはなかったが、 その飾らない人柄は多くの人々に愛され、 安保改定を阻止することはできなかったが、 個人的な人気は絶頂にあった。 この日、同公会堂では、 自民、社会、民社3党の党首による立会演説会が 行われた。 会場は超満員。秋田から出てきたばかりの私は不慣れで、 開場と開演を間違えたため1時間前に到着した。 大日本愛国党の赤尾敏総裁らが先着していて、 同総裁は私の両肩を掴み、 「キミはいい面構えをしておる。どこから来た? 秋田?! うんうん、 日本の将来はキミたち青年の双肩にかかっている。 今の代議士どもはみんな堕落している。 キミもしっかり勉強して将来の日本を背負いたまえ」。 開場後、警備の警察官の指示で、 最前列の真ん中に座ることになった。 西尾末広民社党委員長が最初に演説した。 私は生まれたばかりの民社党に希望を託していたので、 大いに共感し、拍手を送った。 ついで浅沼社会党委員長、そして最後が、 池田勇人自民党総裁(首相)の順で登壇し 演説することになっていた。 浅沼委員長が演説を始めるや 会場内の野次がにわかに激しくなり、 中身が聞こえないほどの騒然さとなった。 司会の小林利光アナウンサー(NHK)がいくら 「ご静粛に」と自制を求めたが騒ぎはやまず、 逆に、ビラが撒かれたり、 後部席の人が前に出てきて 罵声を浴びせたりということで、 場内は騒然となった。 記録によると、浅沼委員長が 「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、 全部捨てておいて、選挙で多数を占むると…」と 発言した3時5分ころ、 突然、刃渡り33cmの短刀を持ち、 学生服の上にジャンパーを着た若者が、 上手から壇上に駆け昇り、 浅沼委員長の左胸下を突き刺した。 一度、抜いた。 委員長の黒縁の眼鏡がずりおち、 腰をかがめ、両手で胸を押さえた。 もう一度刺した。 警察官が男を取り押さえ、 何人かの人で委員長の巨体を抱えて下手に運び去った。 壇上には、誰のかわからないが、指先が2つ、 落ちていた。きつかった。 左右の席の人と顔を見合わせ、 「酷いことをする」 「でも、よかったですね、心臓を外れて」などと 語り合った。 しかし、一撃目の刺し傷は深さ30cm以上に達しており、 出血多量でほぼ即死状態だったという。 すぐ近くの日比谷病院に収容された3時40分には すでに亡くなっていたそうだ。 凶漢は17歳の少年・山口二矢(おとや)という17歳の少年。 同じ十代の者として私のショックは大きかった。 直前まで大日本愛国党の本部メンバーであったという。 少年は3週間後、東京少年鑑別所で自決した。 「七生報国 天皇陛下万才」と 監房の壁に書き残してあったという。 自殺させてしまったことについては 看守に責任があるのかもしれないが、 私はそれより、当日の警備が甘すぎたと思う。 制服・私服合わせて 場内の4人に一人くらいが警察官だったように思う。 やじりも拍手もしないから変な人たちだなと思ったが、 やがて隣の席の人が教えてくれた。 それだけいて、何もできななかった。 私はそのことについては、 朝日新聞に投書した。 投書特集が2頁分組まれ、 私の投書が5段見出しで トップに掲載された。 その後も、この事件については、 公安関係者、メディアの多くの人から詰問されたり、 取材されたりした。 自分でも不思議に思うのは、 手に2,3冊の本を持っていたのを、 なぜ投げつけなかったのか、 なぜ、浅沼委員長に「危ない!」と 大声で注意しなかったのかということだ。 これについては多くの人から非難を受けた。 当然である。反省もしている。心がさいなまれることもあった。 しかし、あえて言わせていただくなら、 私はあの時「固まっていた」のである。 ところで、このとき、 私の目の前にいた毎日新聞の長尾靖カメラマンは、 浅沼委員長を刺そうとする瞬間を撮影し、 日本人初のピューリッツァー賞を授与された。 事件から、5年ほどたって 長尾さんと親しく話をする機会があった。 「ボクも大勢の人に言われたんだよ。 あれだけピントを合わせて写真を撮ることができたなら、 なぜ、そのカメラ(スピグラ)を 犯人に投げつけなかったのかって」。 長尾さんも随分、滅入った様子だった。 職業として撮影している人に そのことを求めるべきかどうか、賛否はあろう。 「オマエはどうなんだ」という声がきこえる。 今の私なら きっと本を投げつけることができるだろうとは思う。 そのくらいの人生経験は積んだつもりだ。 しかし、あの時は本を握り締めたまま何もできなかった。 これは厳然たる事実なのだ。 37年前のきょうのことだ。 わが人生の1つの辛くて苦い思い出である。 |