• もっと見る
«与那国島の花 @ | Main | NGOを通じてのODA»
<< 2014年04月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
エリツィン元大統領逝去 [2007年04月24日(Tue)]




 1993年1月、モスクワで行なわれたSTARTU調印式でのエリツィン。政治的にも健康的にも全盛期だった頃。





  ロシア大統領府が23日に発表したところによれば、ロシアのボリス・エリツィン前大統領が23日午後3時45分(日本時間同8時45分)、心血管不全症のためモスクワの病院で死亡した。享年76歳。

  エリツィンが行ったことをざっと列挙してみよう。

@ 91年7月に新生ロシアの初代大統領に就任し、同年8月の騒擾事件にあたっては勇気を持って対応し、果敢に民主派と世論を結集してクーデターを未遂に終わらせた。
A 同年12月のソ連解体を主導し、独立国家共同体(CIS)創設を決めた。
その後、ロシアの民主化と市場経済化を推進、国際社会で「大国ロシア」の地位再興に努めた。
B 93年10月、保守派が占める議会と対立、議会ビルに立てこもった国会議員らを武力鎮圧砲して同ビルから追い出した。
C その直後に来日し、細川首相との間で「東京宣言」を発表、北方四島の問題を3原則で解決することを約束した。
D 97年11月に橋本龍太郎首相(当時)とクラスノヤルスクで会談し、「2000年までの平和条約調印に全力を尽くす」ことで合意。日露関係改善の流れを作った。
E 98年4月には川奈で橋本首相と、同年11月には小渕首相とモスクワでと首脳会談を続けたが、2000年までにとした、国境画定問題は解決できなかった。
F 後継者にプーチン現大統領を指名した。

  しかし、東京宣言直後の12月に行なわれた国家院(下院)選挙で与党は力を失い、また自らの心臓病がもとで、エロツィン大統領は95年7月と10月に入院。96年11月には心臓バイパス手術を受けた。その後も肺炎や胃潰瘍などで入退院を繰り返し、内政や外交活動に支障が出た。

  急速な日露関係の進展が期待され、期限内の平和条約締結に向けて双方がさまざまな努力を重ねたが、同大統領の健康問題もあり、「四島返還」が実現し、「日露平和条約」の締結に至ることができなかった。

 1999年12月31日、エリツィン大統領は突然辞任した。

  フランスのシラク大統領は23日、エリツィン前ロシア大統領の死去に関し、「ロシアを民主主義に向けて導き、自由を勝ち取ったその勇気と一貫性、政治感覚が忘れられることはないだろう」とするエリツィン氏のナイナ夫人あての追悼書簡を出したとのことだが、この点については、世界共通の評価であろう。
コメントする
コメント