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大濱早稲田総長と沖縄730 [2007年04月21日(Sat)]





 大濱信泉元早稲田大学総長





 石垣島の大濱信泉記念館は大濱が尽力した沖縄の本土復帰の象徴ともなった通行帯の逆転を記念する「730交差点」のすぐ近くにある。







  大濱信泉記念館に入るとすぐ左に、復帰運動の同志であったわが師・末次一郎の書が掲額されていた。




  沖縄は那覇市を中心とする本島とその周辺の島々、宮古島市を中心とする地域、さらに先島地域から成っている。

  先島では石垣島があらゆる意味で中心だ。ここまでは羽田から直行便がある。そしてそこから、有人最南端の波照間島、西表(いりおもて)島、竹富島、最西端の与那国島などに飛行機や船で行く。

  その石垣市の出身者で最も著名な人が、早稲田大学の総長をはじめ多くの要職を務められた大濱信泉(のぶもと)とボクシングの世界チャンピオン具志堅用高であろう。

  大濱はわが師・末次とともにたびたび訪米して、故郷の日本復帰を訴え、また、二人で佐藤栄作首相(当時)の沖縄政策に決定的な影響を与え、関与した。具志堅はWBA世界ライトフライ級のチャンピオンであり、その王座を13度防衛した。この13度にわたる防衛は現在も日本国内最多記録として燦然と輝いている。

  飛行機乗り継ぎの待ち時間を使って、「730交差点」に近い「大濱信泉記念館」を訪問した。

  筆者が早稲田大学に入学してから大学院をおえるまで、大濱は総長の地位にあった。

  とここまで書いて、「730」から今年は30年、若い人たちはご存じない話だとふと気がついた。

「730」というのは、1972年5月に沖縄が日本に復帰してから6年あまりを経た、1978年7月30日の出来事だ。この日の午前6時を期して、それまで自動車が右側通行していたのを左側通行に変更になった。

  戦後は沖縄はアメリカの統治下に置かれ、自動車は右側通行に変更されていた。日本復帰にともない、ジュネーブ交通条約(1949年)の「一国一交通制度」により、沖縄県内全域で左側通行に変更されることになった。

  これはいうほど簡単なことではない。沖縄の祖国復帰を象徴する一大プロジェクトであった。

  まず、前夜10時に自動車の通行が全面禁止となり、その間に道路標識や道路標示をいっせいに変更し、30日午前6時をもって自動車は左側通行となった。

  実際には、主要道路ではあらかじめ左側通行用の標識や信号を設置し、それにカバーをかけておき、通行禁止の間に右側通行用のものを取り外した。

「730キャンペーン」には全国から応援にかけつけた警察官の支援も大きな役割を果たし、また、周到な準備とメディアによる徹底した啓発による協力があった。PRには具志堅用高も出演した。

  左右の通行が反対になるにあたって、一番困った車種がバスだった。乗降口の変更は容易なことではなく、沖縄全体で1000台以上が国や県の補助金で新規に導入された。右側に乗降口のあるバスは中国や東南アジア諸国に輸出されるなどした。石垣市には、これにちなんで命名された「730交差点(ななさんまるこうさてん)」があり、当地に記念碑もある。

  それにしても世界で通行帯が異なるのはややこしいし、危険である。英連邦諸国のほとんどが日本と同じ車両左側通行。英国のEU加盟でカーフェリーを使って欧州大陸と行き来する自動車が増えたが、互いの場所で交通事故が多発している。

  私たちも世界でレンタカーを借りたりして運転するとき、なにが怖いと言ってもこの通行区分の違いへの不適応が一番危険だ。「左大回り、右小回り」と口に出していいながら、ハンドルを動かすほかないと、文字通り、懸命に頑張ってみる。




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