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難民を助ける会の沿革 [2007年04月10日(Tue)]




 相馬雪香会長近影





 明日、4月11日午後7時から、大井町の「きゅりあん」で、難民を助ける会(相馬雪香会長)の高崎紀子スーダン派遣代表の報告会がある。スーダンについては国旗のこと以外、ほとんどまったく知識ないが、我が家の近くでもあることだし、久々に私も出てみようとは思っている。

 そうした中で東洋英和女学院大学大学院の新しい院生から、創立について話を聞かせてほしいといってきたので、とりあえず、3年ほど前に同会に送ったもの(現在、同会のHPに掲載)しているものの誤字脱字を直すなど若干の補筆をして、小欄に掲載したい。

 同会には創立以前から2001年まで、役員として深く関わってきたので、これは私の務めだと思う。なお、同会の最近5年間のことは、HPでご覧いただくか、直接、問い合わせるかしていただきたい。

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■平和と戦争のインドシナ

 私が初めてカンボジアを訪ねたのは1968年のことだった。シアヌーク国家元首の最盛期だった。"東洋のパリ""プチ・パリ"と呼ばれた首都プノンペンはあくまで美しく、火炎樹が咲き誇っていた。

 爾来、この町を数回、訪れる機会があった。

 70年3月、シアヌークが外国滞在中に、アメリカの支援を受けたロン・ノル将軍らによるクーデターが発生、5万といわれたベトナム人達が殺されたり、拘束されたりということが頻発していた。「メコンが赤く染まった」と言われた。他方、ポル・ポト、イエン・サリを指導者とするクメール・ルージュ(カンボジア共産党)が各地で武力蜂起し、日本人など海外からのジャーナリストが逮捕、処刑されるという事件が連発した。私の親しい友人だった中島照男くんもその一人だった。

 6月、アジア孤児福祉教育財団(現・アジア福祉教育財団)の調査団員としてプノンペンを訪れたとき、「虐殺から保護するため」ということで公共施設に隔離されたベトナム人たちに、故国への帰還を訴えられた。

 この時、南ベトナム南部のミト周辺の戦略村でYMCAの宮崎幸雄氏が懸命に国内難民の世話に当っている姿を拝見し、多くを学んだ。それ以来、今もご厚誼をいただいている。

 1973年、私は国際赤十字のインドシナ駐在代表となり、インドシナ各地で捕虜や戦争犠牲者などの世話にあたった。来越した衞藤瀋吉、神谷不二、三浦朱門、曾根綾子、司馬遼太郎、開高健など多くの著名人の懇切なるご指導いただいた。

 中でも、当時『朝日新聞』の井川一久サイゴン支局長や『読売新聞』の山田寛同特派員とは眤懇にしていただき、交友は今に及び、井川氏には難民を助ける会の理事としてご尽力いただいている。嘉悦大学教授となられた山田寛氏には、東京財団の関連プロジェクトのリーダーになっていただき、今月は難民受け入れに関するすばらしい報告書をまとめていただいた(お問い合わせは、6229−5502 東京財団研究部)。

 ところが、在留邦人が「ベトナムの軽井沢」とよんだダラトで休暇を取っている時、私は肝炎を発病した。深夜の通行は未だ心配されていた時だったが、ベトナム共和国赤十字のラ・タン・トゥルン社長は自ら運転して、200キロ離れたサイゴンの病院に運んでくれた。この人への感謝の気持ちがその後、ベトナムと一層深く関わるようになった一因であるような気がする。

■「難民に冷たい日本人」

 1975年4月、カンボジアではポル・ポト軍(クメール・ルージュ)が首都プノンペンを制圧し、ロン・ノル政権が崩壊した。次いで、月末にはベトナムでサイゴンが陥落し、長らく続いたベトナム戦争は終結した。5月9日、最初の"ボートピープル"が日本に到着したが、その時から3年間、日本は一切の難民の定住を認めず、腫物にさわるようにして、アメリカなど第三国に送還していた。

 本社に戻った山田記者は日赤の近衞忠W現副社長や私などと組んで、人道的見地から難民の受入れをと論陣を張ったが、「外国人忌避症」的単一民族論の前に事態は改善されなかった。そうこうしている内に、国際世論の動きもあって、政府はカリタス、天理教、立正佼成会に依頼して、一時滞在難民を各地の関連施設で預かることにした。私も山中湖畔のカトリック教会に、ベトナムからの一時滞在難民を訪問し、実情を伺ったりした。

 このころ、カンボジアでは、ロン・ノル政権を倒したポル・ポト政権が都市住民を農村に追いやり強制労働を課し、通貨や学校を廃止するなど、社会は大混乱に陥った。しかも、栄養不足、医療の欠如等の悪条件に加えて、知識層の反発を極度に警戒した同政権の異常な弾圧と処断によって200万とも言われる人々が命を失った。

 78年後半になるとヘン・サムリンや若きフン・セン(現首相)らを傀儡にして押し立て、ベトナムが強大な軍事力でカンボジア領内に攻め入り、79年1月、ポル・ポト勢力をタイとの国境地帯であるパイリンの周辺に駆逐した。

 大勢のカンボジア人がタイとの国境への脱出を図り、世界の目がタイ/カンボジア国境に寄せられた。映画「キリング・フィールド」の描くところであるが、当時の体験者たちはこの映画はポル・ポト時代の過酷さを十分には描かれていないという。

 数十年にわたりさまざまな国際的活動に献身してこられた相馬雪香会長に、このころ、インドシナ情勢に精通している外国の友人から次々に手紙が寄せられた。曰く、「カンボジアの難民キャンプには日本人は全く見当たらない」「救援物資の多くが日本製であり、その運搬に当っているのは日本製の自動車である」「苦境にあるこうした難民を日本が受入れないのはなぜか」「ベトナムからの"ボートピープル"は数々の危険にさらされているのに日本の船は容易には救助しない」「日本人は難民に冷たいではないか」・・・。

 そこで相馬会長は「日本人の心には古来、脈々として善意が伝わっている。今こそこれを世界に示さなくては世界の信頼を失うことになる」と発奮、同年5月、友人や知人に難民救援活動・支援のための会の創立と参加を呼びかけられた。

 当時、ことの重大さと日本でのNGO活動の難しさをいささか知る私ではあったが、新しい組織を結成しようという勇気と実力に決定的に欠けていた。

 少なくとも、その点においてだけでも、私は生涯、相馬会長に頭が上がらない。爾来28年、一貫して会長の任にある相馬雪香は95歳となり、なお、毎年数回、海外を訪問し、続く者を指導してくださっている。ワシントンのポトマック河畔にご尊父・尾崎行雄(憲政の神様)が贈られたサクラの関係の仕事で、この4月にも同地を訪れている。  (つづく)


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