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米原万里さんのこと [2007年01月31日(Wed)]




 ソ連の国旗。今でもじっと見ていると心が重くなることがある。




 あと4,5日で、「日露専門家対話」が始まる。1973年にわが師・末次一郎がはじめて、通算25回目となる。14人が来日し、激しい議論を展開することになるだろう。先方の団長は、スターリン時代の有名なモロトフ外相の孫ニコノフ民主政治基金総裁である。

 ロシアとの会議といえば思い出す一人が、米原万里さん。ロシア語通訳者としての万里さんである。2006年(昨年)5月25日に癌により56歳で亡くなった。遺作とも言うべき『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋社)が評判である。

 会議の通訳として何度もお世話になったが、特に思い出すのが、ソ連時代の末期に東京で開催された「全日本強制抑留者協議会」(斉藤六郎会長)主催の「シベリア抑留」に関するシンポジウムのとき。

 私は議長を務めた。会場いっぱいの抑留経験者たちは開会前から怒号だった。むりもない。帰国後、数十年ぶりでソ連人を見たという人たちがほとんどである。

 しかし、招かれたソ連人は、抑留問題の研究者、国際法学者、ソ連赤十字赤新月社の代表といった、この問題に真摯に取り組む人たちだ。ここは冷静に会議を行ない、必要な情報を得、今後の協力を約すべきであった。

 2日間の会議はその意味ではこの問題に対する相互理解を大いに促進する形になってとてもよかった。めったにほめられたことがなかった私だが、そのときだけは「名議長だったね」と、師匠にお褒めいただいた。

 1991年にゴルバチョフ・ソ連大統領がきたときに斉藤会長ほか「抑留3団体」の代表と会い、、94年にエリツィン大統領が来日したときには、少なくとも6回、口頭ではあったがシベリア抑留について謝罪した。その布石になったことは間違いない。

 終了後、楽屋で、斉藤会長から米原さんと私に「謝金」が出た。双方とも15万円だった。ありがたく頂戴して、しかるべく活用させていただいた。

 ところが、ソ連からの人たちへの謝金が、各100万円だった。会長がちょうど現金を数えているところだった。

「これは多すぎます。今後、来日する学者たちに他の団体もこんなに支払わなくてはならなくなります」と私。

「いままでいろんな会議に参加してきましたが、これでは今のロシア人にとってあまりに巨額であり、相場を不当に高くしてしまいます」と万里さん。

 すると突然、斉藤会長は号泣し、
「あなたたたち二人は、われわれの気持ちを一番わかってくれる人ではないか。この日をわれわれはどんなに待ったか考えてみてくれ。われわれの思いを始めて伝えられたんだ」。

 この金額の是非は今もってわからない。しかし、それでも斉藤会長には万里さんも私も終生かわいがられたことは確かだ。今は亡きお二人に合掌。

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