東京オリンピックから42年 [2006年10月11日(Wed)]
東京オリンピック開会式で、電光掲示板上に掲揚される「日の丸」「五輪旗」「東京都旗」。3×4.5mのサイズだ。 開会を告げるファンファーレは26本の特製トランペットで吹奏された。やがて聖火ふが入ってくる。 1964(昭和39)年10月10日は、まるでここ数日のように晴れ上がった。 私たち組織委員会のスタッフは、前夜までの雨と電光掲示板の故障で、お先真っ暗という気持ちでいた。気象庁からは明日はなんとか天気は持つとの予報だったが、あのころは、当たらないことの代名詞が天気予報だった時代だ。 結果は、「秋晴れ」「日本晴れ」、最高の天気だった。電光掲示板の故障は永田さんという技師を中心に、関係者が徹夜で修理に当たり、開会式直前に復帰した。コンピューターがまだ、信頼性の低い「魔物」か「巨大なおもちゃ」だった時代によくぞ、滞りなく活用できたと、今になって振り返っている。 信じられない人も多いかと思うが、開会式で活躍した1つが手旗信号。坂井君という早稲田のランナーが聖火を持って国立競技場に入ってくるのは、聖火台からもよく見えるが、いよいよ点火というときが一番難しい。ハンドトーキーも使用したが、これも今の携帯電話より信頼性が低い。 結局は、メインスタンドの式典指揮司令部で手旗信号を送るのを聖火台のすぐ下にいる職員が双眼鏡を見て、「ガス放出はじめ。バルブ全開! 点火!」と叫ぶのである。アナログ時代の最たるものだ。 私は、予行演習では畏れ多くも昭和天皇の代役をしたりしていたが、本番ではひたすら国旗ばかりを見て間違いがないかと点検、再点検、再々点検をしていただけだが、式典課の他の職員たちは、いかにも日本らしく、予定より何秒早いかを測定し、場外に指示したり、航空自衛隊に連絡したり、それはそれは大変でした。 東京五輪の開会式は、規模といい、意義といい、戦後、最大のイベントの一つではなかっただろうか。 戦後19年、あの五輪の成功が、沖縄・小笠原・北方領土の返還をのこしてはいたものの、「戦後は終わった」という実感、日本人としての誇りの回復に大きく貢献できたことは確かだったと思う。 そして東京オリンピックのちょうど中日に、中国は初の原爆実験を行なったのだ。当時はそれを讃えて、「中ソの原爆は平和のため、米英の原爆は帝国主義的侵略のため」と大真面目に言う人が少なくなかった。 |