4月26日 チェルノブイリ原発事故から29年、福島第一原発事故から4年
スタッフの吉田です。
2015年3月30日〜4月6日、FoE Japanは、福島から人見やよいさん、宇野朗子さん、八島千尋さん、そして元インターンで英国留学中の深草亜悠美さんとともに、ベラルーシ・ミンスクを訪問し、ドイツ・ベラルーシのグループとともに視察・交流を行いました。
放射線測定の独立研究機関「ベルラド研究所」や国営保養施設「希望21(Nadeshda) 訪問のほか、ホームステイや民謡鑑賞も含め、ベラルーシの人々の現在の日常にも、様々な角度から少し触れることができました。
チェルノブイリ原発事故は決して終わらない、
影響・被害は明らかに続いている。
しかし一方で、日常生活の中では、あえて意識しなされないように意図されている。現在の日本とある意味でよく似た状況を目の当たりにしました。
例えば・・
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◆原発事故被災者と事故処理作業員への支援などを定めた「チェルノブイリ法(1990年制定)」は、2008年に改訂され、現在では、特別の支援はなくなり、通常の障がい者(病気も含む)への支援と一体化されている。
◆保養への予算も、2016年までは決まっているが、それ以降は減る方向だろうと推測している(保養施設担当者)。
◆国は5キュリー(185k万Bq)/km2 以上(=推定実効線量1mSv以上)の場所を「汚染地」と定義しているが、その範囲は5年ごとに見直され、どんどん小さくなっている。
◆ルカシェンコ大統領による独裁体制(1994年〜)のなかで、政権批判的な活動は大きく制限されている。例えば、国土の北西部(リトアニアとの国境付近)にベラルーシ最初の原発が建設着工しています(まだ初期段階)が、反対活動は極めて難しい状況。
◆昨年から「チェルノブイリ」という名称の使用が禁止され、私たちのホストの財団「チェルノブイリの子どもたちのために」も名称を変更せざるを得ず、現在は「子どもたちに喜びを」として活動している。
◆チェルノブイリ原発事故に関する「ベラルーシ政府報告書」(2011年)では、子どもの甲状腺がんをはじめとした健康被害についても書かれているが、現在は復興に向かっていることが強調されている。
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チェルノブイリ事故被害への対応については、多くの人が、国には期待できないと口にします。ゴメリ州の強制移住区域出身のおばあさんたちは、当時の、何度も村を移動させられた混乱状況を語ります。20代の若者たちの間では、子どもの頃に甲状腺などの病気を持っていた、もしくは今も持っている人が、特に汚染地域で多いといいます。国内外での保養に参加した若者は、心身ともに元気になった、と語ります。
日本と比べた場合に、チェルノブイリ法により、賠償や健康管理への最低限の補償がある、また1ミリシーベルト以上の地域の「避難の権利」が書かれています。
しかしその適用については、少なくとも人々の話を聞く限り、大きな課題がありそうです。
さらに、多くの人が話していたのが、一般市民の経済的生活の苦しさです。
学校の先生や医者、大学教授などの公務員の平均月収は200〜400ドルほど(2万円強〜5万円程度)、しかしミンスク市内の賃貸住宅の家賃は決して安くなく(ホームステイさせてもらった中心部・2DKのマンションで500ドルほど!)、食品や衣料品の価格も、日本より少し安い程度です。
生活が成り立たないので、多くの人が、アルバイトなどの仕事を掛け持ちしたり、両親を頼ったり、郊外の菜園や農地で週末に農業をして食べ物を自給したりしているとのこと。さらに、通貨切り上げによるインフレが激しく、1月1日に物価が突然10倍以上になることも何度もあったとのこと。
ミンスク近郊にはベラルーシの人口の約4分の1近く(200万人以上)が集まっていますが、地方に行けば状況はさらに悪化します。若い人が職につく場がなく、高学歴の人ほどロシアなど海外へ出て行く。モスクワなどに出稼ぎに行く人も非常に多いとのこと。
ちなみに、ベラルーシでの食事は、じゃがいもが主食。きのこのクリームソースやスープもよく食卓にのぼりました。春にはイチゴやベリー類・・・つまり、放射性物質を蓄えやすい食材が、食生活のベースにあります。自分の庭で収穫したものを食べている人が、今よりさらに多かったでしょう。事故当時、汚染された地域でも同様に、このような食事が続けられていたかと思うと・・・少し恐ろしくなりました。
言葉がなくなるような状況の中で、私たちを迎えてくれたみなさんのあたたかさと、市民の草の根の活動の様子には、救われ勇気づけられました。
−つづくー
(吉田 明子)