山陽新聞夕刊・一日一題からC[2011年04月27日(Wed)]
地元山陽新聞夕刊の火曜日「一日一題」を4月、5月と担当しています。
昨日26日のコラムは次のようなものでした。
(以下、元原稿から引用)
一日一題 C 偏見と二次被害
福島からの避難者がホテルで宿泊拒否されたり、転校生が学校でいじめにあう事例が報道され、人権侵害防止に関して法務省人権擁護局が緊急声明を出した。江田五月法務大臣も「不安感や思いこみから差別が横行すると大変残念」と述べた。
こうした偏見や差別の事実を聞くと、とても悲しい。
しかし、人間の不安や恐怖に関する心理は、被災者や患者を自分の領域から遠ざけようとし、自分を守るためには他者を容赦なく分離、差別してきたことは、ハンセン病の歴史を含め、過去幾多の悲しい歴史が物語っている。
犯罪被害についても同様だ。誰しも犯罪に巻き込まれたくないし、新聞やテレビの中だけの出来事であってほしいと思っている。見たくなければ新聞をたたみ、テレビのスイツチを切れば、他人事となり自分は安全な場所で安心できる。そして、忘れることができる。
さらに安心を得ようとすると、他人事とするだけでなく、「被害に遭うには何か理由があったのではないか」、「なぜ逃げなかったのか」、「なぜ抵抗しなかったのか」と被害者の落ち度を詮索し、被害に遭った理由づけをし、「自分は違う」と安心しようとする。通り魔事件を例にせずとも、いずれも根拠のない「神話」にすぎない。しかし神話は容易に偏見や差別をうみ、被害者は二重に傷つけられていく。
事件後、被害者が転居し、被害者の家族が離散することは少なくない。事件後、地域で偏見や差別の中を生き抜いていくことは大変なことだ。
犯罪の被害に遭った人たちは、新聞をたたんでも、スイツチを切っても、事件から逃れることはできない。事件「後」の時間は一生つづき、忘れることはできない。
私たちは、何か具体的な支援ができなくても、こうした誤解や偏見を一つずつ身近なところから取り除いていくことは誰にでもできる。関心をもって、理解しようとする一人ひとりの気持ちが、被害者や被災者を孤立させない社会をつくるということを忘れたくない。