人は簡単には死ねない。
という思いがある。
その欲求を満たすために、
余分な買い物をする。
食べ過ぎ、飲み過ぎる。
ノウハウや情報を過剰にインプットする。
飽くなき所有欲と自己顕示欲に駆り立てられるのである。
そして、どこかの時点で我に返り、後悔する。
「どうして、こんなことをしてしまったんだ・・・」
「分かっているけど、またやってしまった・・・」
そんな言葉を繰り返す。
その一連の行為は、
「過剰」による死を経験することでもある。
簡単に死ねないので、
「過剰」による死を求める。
即物的な痛みと快楽は、
一度味わうとなかなかな手放せない。
以前、マレーシアの空港でステーキとフレンチフライを、
表現は悪いが、養豚場のブタのように食い荒らす欧米人がいた。
明らかに食べきれない量の食事を
「食糧」としてか見ていないのだろうか、
残った食事は、何の”尊厳”もなく捨て去られていた。
彼らにとって、それが「死」を経験する儀式のようでもあった。
一方で、私がホームステイしたフィリピンの家庭では、
家族全員が揃って、白米、魚、もう一品という質素な食事を毎回頂いた。
普段は滅多に食べないマンゴーやメロンを外国から来た
私のために惜しげもなく出してくれた。
客人のための「心からのおもてなしの一品」だったのかもしれない。
ホストファミリーのお母さんが、
「もっと食べなさい」と何度も私に言ってくれた。
その言葉にとても”愛おしさ”を感じた。
同じ食事でも、彼らは「生」を自然と感じる場なのだろう。
生きることは死ぬことでもあるし、
生きることは善く生きることでもある。
あなたは、どちらを選んで生きていますか?