昨日の
「ほぼ日」に「仕事のかたち」について面白いことが書いてありました。
糸井さんの「今日のダーリン」から一部抜粋です。
『しかし、それにしても、
誰も彼も、なにもかも、みんな会社員になってしまった。
長い間フリーランサーで仕事をしていたぼくも、
チームプレイをやろうとして会社にしてしまいました。
そういうぼくが言うのも、口幅ったいのですが、
生きる術が会社員以外ないかのような社会は、
やっぱり、ずいぶんおかしいと思うんです。
「職業につく」ということと、
「企業に就職する」こととはイコールじゃないはずです。
「会社員」だから収入が安定しているとか、
「会社員」だから信用されるとか、
「会社員」だから、生活設計ができるとか、
いろいろよさそうなことを言われてきましたけれど、
そうともかぎらないということも、わかってきました。
日本中、「会社員」ばかりというのが、
そもそも、ずいぶん不思議なことだという気がします。
「会社員」じゃない生き方をすると、
「会社員」に比べて、どんだけ不利なのでしょうね。
なんか、これはいまのぼくの直感なんですが、
「会社員」じゃない人たちが生みだすものが、
これからの豊かさをつくっていくんじゃないかな。
職人、主婦、無職、商店主、手伝い、老人‥‥
こういう人たちにできること、
こういう人たちが必要とされることって、
ほんとは、もっとたくさんあると思うんですよね。』
とても共感できます。
自分の身分を「会社員」と表現した瞬間に、個々人の特長や資質が薄められ、
大多数の中での保護色になってしまうのかもしれません。
個性が弱められてしまう。でも、安心感がある。
だから、「いい企業に就職する」ことが、「働く」ことに
なってしまうのかもしれません。
大きな見方をすれば、今まで日本は、過度な自前主義と依存関係が
成立する企業構造(社会構造)を形成してきました。
そうすると企業内、企業間でもガチガチの組織・権力の不均衡な力関係が出来てきて、
その力関係から見動きが取れなくなってしまいました。
働きながらも社会とつながりを求めていきたいという流れは出てきていますが、
まだまだ、自分が働く「会社」で「会社員」でいることで落ち着いてしまっている気もします。
そんな中、企業の中で、「経済性」と「社会性」の両立を図るのはまだまだ難しいと思いますのでプロボノやボランティア活動などを通して、「働くこと」と「生きること」をつなぐ「社会性」という
要素を充足させているのでしょうか。
多様な「仕事のかたち」があって、主婦も老人も商店主も職人も胸を張って仕事ができ、
共存できる社会になってほしいなと思います。