「本質」にたどり着く[2011年09月10日(Sat)]
熟練した技術と経験を要する日本古来のものづくりは、同じ「型」を何百回、何千回と繰り返すことで「本質」にたどり着くものだったと思います。
フレームワークや誰にでも理解できる事細かなマニュアルなどは存在せず、一人一人の修行によって、教える側と教えられる側の心の通った人間的な交流があって、はじめて、他者にはまねできないレベルの優れた製品やサービスが生まれていたのだと思います。
時代が変わり、商品開発のスピードが求められるようになると、効率や能率が重要視されるようになりました。そうすると、機能や性能、デザインなど、他社にまねされやすい「形態」に意識が集中し、結果、
目に見えやすい、傍目には分かりやすい、でもどこか表面的な論点にだけ話が集中してしまう
ということになっているのだと思います。
私もコンサル時代に社内で、社外で様々な議論に参加しましたが、
「ある結論」に至るためのフレームワークや考え方は素晴らしいのですが、
その「ある結論」はどこか他で見聞きしたものだったり、直感的にワクワクするものではない、
といった経験がありました。
細部、深部まで物事を突き詰めようとすれば、自分の中でも、自分と他人との間でも、
『あいまいでな要素』は出てくるわけで、そのあいまいさを、具体的で分かりやすいものに
していく過程は、マニュアルやフレームワークなどの方法論のみで省略してしまうと、
「一見すばらしい、でも何か足りない結論」
にいつもたどり着く気がします。
最近ふと思ったことをつらつらと書きましたが、
キャリアポートレートコンサルティングの村山昇さんが、同じようなことをより詳しく、面白く書いています。
また、。「あなたは、物事の本質が分かっていない!」というように、よく使われる「本質」という言葉。
でも、私自身、あいまいな意味しか分かっていなくて、ちょっと調べてみたところ、奥深いです。
哲学や思想にも関わり、使う人によって、あるいは使われる文脈によって、異なる意味を持つからでしょう。
大辞泉から引用すると、
1 物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿。「―に迫る」「―を見きわめる」
2 哲学で、存在するものの基底・本性をなすもの。
@偶有性に対立し、事物に内属する不変の性質。
A実存に対立し、そのもののなんであるかを規定し、その本性を構成するもの。
Wikipediaから引用すると、
「本質(ほんしつ)とは、あるものがそのものであると云いうるために最低限持たなければいけない性質をいう。
もしくはそうした性質からなる理念的な実体をいう場合もある。或る存在を必然的にその存在として規定する内実がその本質である。
伝統的には、「それは何であるか」という問いに対する答え(「何性」)として与えられるもの。
それに対して、ものに付け加わったり失われたりして、そのものが、そのものであることには関わらない(必然性のない)付帯的な性質を、偶有(性)という。
一般的には広義の使われ方として、「見せかけ」や「表面上の事柄」に対する概念としての「正体」や「真髄」など「ものの奥底にある表面的でない、中心的な、本当の「性質」の意味で使われる」
大辞泉の1の定義では、
ペンの「字を書くことができる」、時計の「時間を正確に伝える」という「性質」だったりします。
大辞泉の2-@の定義ですが、
例えば、「美しい」とか「正しい」という形容詞は、いろんな使われ方をします。美しい女性、美しい景色、あの人は正しい、こうすることが正しい、などなど。
形容する事物が異なっても、「美しい」や「正しい」には、何か”共通点”があって、その共通点をとらえて「美しい」とか「正しい」という言葉を使っています。目に見えない、でもみんなが「美であることの本質」「正しいことの本質」を見出しているのです。
大辞泉の2-Aの定義は、
「それがなんであるか」を問うものが「本質」
「それがあるか」を問うものが「実存」
ということのようです。
ものごとが「ある」ということは、「それがなんであるか」と「それがあるかどうか」という2つの観点から問題にすることができる、と考えられるようになっているようです。
「本質」にたどり着くにはまだまだ相当の時間がかかりそうです・・・
フレームワークや誰にでも理解できる事細かなマニュアルなどは存在せず、一人一人の修行によって、教える側と教えられる側の心の通った人間的な交流があって、はじめて、他者にはまねできないレベルの優れた製品やサービスが生まれていたのだと思います。
時代が変わり、商品開発のスピードが求められるようになると、効率や能率が重要視されるようになりました。そうすると、機能や性能、デザインなど、他社にまねされやすい「形態」に意識が集中し、結果、
目に見えやすい、傍目には分かりやすい、でもどこか表面的な論点にだけ話が集中してしまう
ということになっているのだと思います。
私もコンサル時代に社内で、社外で様々な議論に参加しましたが、
「ある結論」に至るためのフレームワークや考え方は素晴らしいのですが、
その「ある結論」はどこか他で見聞きしたものだったり、直感的にワクワクするものではない、
といった経験がありました。
細部、深部まで物事を突き詰めようとすれば、自分の中でも、自分と他人との間でも、
『あいまいでな要素』は出てくるわけで、そのあいまいさを、具体的で分かりやすいものに
していく過程は、マニュアルやフレームワークなどの方法論のみで省略してしまうと、
「一見すばらしい、でも何か足りない結論」
にいつもたどり着く気がします。
最近ふと思ったことをつらつらと書きましたが、
キャリアポートレートコンサルティングの村山昇さんが、同じようなことをより詳しく、面白く書いています。
また、。「あなたは、物事の本質が分かっていない!」というように、よく使われる「本質」という言葉。
でも、私自身、あいまいな意味しか分かっていなくて、ちょっと調べてみたところ、奥深いです。
哲学や思想にも関わり、使う人によって、あるいは使われる文脈によって、異なる意味を持つからでしょう。
大辞泉から引用すると、
1 物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿。「―に迫る」「―を見きわめる」
2 哲学で、存在するものの基底・本性をなすもの。
@偶有性に対立し、事物に内属する不変の性質。
A実存に対立し、そのもののなんであるかを規定し、その本性を構成するもの。
Wikipediaから引用すると、
「本質(ほんしつ)とは、あるものがそのものであると云いうるために最低限持たなければいけない性質をいう。
もしくはそうした性質からなる理念的な実体をいう場合もある。或る存在を必然的にその存在として規定する内実がその本質である。
伝統的には、「それは何であるか」という問いに対する答え(「何性」)として与えられるもの。
それに対して、ものに付け加わったり失われたりして、そのものが、そのものであることには関わらない(必然性のない)付帯的な性質を、偶有(性)という。
一般的には広義の使われ方として、「見せかけ」や「表面上の事柄」に対する概念としての「正体」や「真髄」など「ものの奥底にある表面的でない、中心的な、本当の「性質」の意味で使われる」
大辞泉の1の定義では、
ペンの「字を書くことができる」、時計の「時間を正確に伝える」という「性質」だったりします。
大辞泉の2-@の定義ですが、
例えば、「美しい」とか「正しい」という形容詞は、いろんな使われ方をします。美しい女性、美しい景色、あの人は正しい、こうすることが正しい、などなど。
形容する事物が異なっても、「美しい」や「正しい」には、何か”共通点”があって、その共通点をとらえて「美しい」とか「正しい」という言葉を使っています。目に見えない、でもみんなが「美であることの本質」「正しいことの本質」を見出しているのです。
大辞泉の2-Aの定義は、
「それがなんであるか」を問うものが「本質」
「それがあるか」を問うものが「実存」
ということのようです。
ものごとが「ある」ということは、「それがなんであるか」と「それがあるかどうか」という2つの観点から問題にすることができる、と考えられるようになっているようです。
「本質」にたどり着くにはまだまだ相当の時間がかかりそうです・・・