障がい者とは何か[2026年06月29日(Mon)]
先日、「障がい者とは何か」という問いを、あらためて胸に刻む出来事がありました。
きっかけは、ごく日常の一場面でした。
妻が、職場での出来事について話してくれたのです。
その中で、特定の同僚の方が「仕事が極端に苦手である」との話題がありました。
その特徴を聞くうちに、私はふと、“この方は、もしかすると何らかの特性や 障がいがあるのかもしれない” という思いがよぎりました。
そのことを妻に伝えると、しばらく考えたあと、こう言いました。
「そう聞いたら少しは納得できるけど、正直それは関係なくない?
同じ社員で、私より給料ももらっているんやし」
この言葉には、現場で働く一人としての率直な実感があり、私は決して否定できませんでした。
同時に、心のどこかで、静かな違和感も残りました。
もし、その方が 「障がい者」 として働いていたら――
周囲の接し方は、今とは少し違っていたかもしれません。
「苦手さ」や「できなさ」に対し、理解や配慮が前提となり、評価や期待の基準も、変わっていたかもしれません。
しかし 現実には、「障がい者」として働く道を選ぶことは、必ずしも容易なものではありません。
むしろ、正社員としての就労の機会が狭まる可能性さえあります。
京都フォーライフで働く従業員(利用者)の方々を思い浮かべると、作業能力という点だけで見れば、先述の方以上の力を発揮できる方も、決して少なくはありません。
それでもなお、「障がい者」として生きるかどうかは、その人の人生に大きな意味を持つ選択となります。
「障がい者」として定義されること――
そこには、支援や配慮といった大きな意味がある一方で、就労機会や評価の面でのハードルが伴うという現実もあります。
つまり、それは決して一面的なものではなく、メリットとデメリットの両方を内包した、極めて繊細なテーマなのだと、あらためて感じさせられました。
これまで私は、「障がいに対する知識や理解が広がることで、社会はより優しく、より生きやすいものになる」と信じてきました。
しかし今回の出来事を通して、その想いは少しだけ形を変えました。
知識が広がることで、本来は「障がい者」と見なされなかった方が、新たに「障がい者」として位置付けられてしまうこともあります。
誤った理解や過度な自己認識によって、自らを必要以上に制限してしまうことや、本来の力を発揮する機会を失ってしまうこともあり得るでしょう。
「理解」は、ときに人を支え、同時に、ときに人を縛ることもある――
そのことに、私は初めて真正面から向き合いました。
だからこそ、私たちの役割は、「障がい者であるかどうか」を線引きすることではなく、目の前にいる一人ひとりが、その人らしく、尊厳をもって働き、「自信」と「誇り」を感じながら日々を重ねていけるよう支えることなのだと、強く感じています。
「障がい」という言葉に縛られるのではなく、その人の可能性に目を向けること。
「できないこと」を数えるのではなく、「できること」を見つめ続けること。
そして何より、その人自身が、自分の価値を信じられる環境をつくること。
今回の気づきを通して、私たちの支援のあり方を、もう一度見つめ直す機会をいただいたことに、感謝しています。
これからも、誰もが「自信」と「誇り」をもって働ける社会を目指して、一歩一歩、歩み続けていきたいと思います。
きっかけは、ごく日常の一場面でした。
妻が、職場での出来事について話してくれたのです。
その中で、特定の同僚の方が「仕事が極端に苦手である」との話題がありました。
その特徴を聞くうちに、私はふと、“この方は、もしかすると何らかの特性や 障がいがあるのかもしれない” という思いがよぎりました。
そのことを妻に伝えると、しばらく考えたあと、こう言いました。
「そう聞いたら少しは納得できるけど、正直それは関係なくない?
同じ社員で、私より給料ももらっているんやし」
この言葉には、現場で働く一人としての率直な実感があり、私は決して否定できませんでした。
同時に、心のどこかで、静かな違和感も残りました。
もし、その方が 「障がい者」 として働いていたら――
周囲の接し方は、今とは少し違っていたかもしれません。
「苦手さ」や「できなさ」に対し、理解や配慮が前提となり、評価や期待の基準も、変わっていたかもしれません。
しかし 現実には、「障がい者」として働く道を選ぶことは、必ずしも容易なものではありません。
むしろ、正社員としての就労の機会が狭まる可能性さえあります。
京都フォーライフで働く従業員(利用者)の方々を思い浮かべると、作業能力という点だけで見れば、先述の方以上の力を発揮できる方も、決して少なくはありません。
それでもなお、「障がい者」として生きるかどうかは、その人の人生に大きな意味を持つ選択となります。
「障がい者」として定義されること――
そこには、支援や配慮といった大きな意味がある一方で、就労機会や評価の面でのハードルが伴うという現実もあります。
つまり、それは決して一面的なものではなく、メリットとデメリットの両方を内包した、極めて繊細なテーマなのだと、あらためて感じさせられました。
これまで私は、「障がいに対する知識や理解が広がることで、社会はより優しく、より生きやすいものになる」と信じてきました。
しかし今回の出来事を通して、その想いは少しだけ形を変えました。
知識が広がることで、本来は「障がい者」と見なされなかった方が、新たに「障がい者」として位置付けられてしまうこともあります。
誤った理解や過度な自己認識によって、自らを必要以上に制限してしまうことや、本来の力を発揮する機会を失ってしまうこともあり得るでしょう。
「理解」は、ときに人を支え、同時に、ときに人を縛ることもある――
そのことに、私は初めて真正面から向き合いました。
だからこそ、私たちの役割は、「障がい者であるかどうか」を線引きすることではなく、目の前にいる一人ひとりが、その人らしく、尊厳をもって働き、「自信」と「誇り」を感じながら日々を重ねていけるよう支えることなのだと、強く感じています。
「障がい」という言葉に縛られるのではなく、その人の可能性に目を向けること。
「できないこと」を数えるのではなく、「できること」を見つめ続けること。
そして何より、その人自身が、自分の価値を信じられる環境をつくること。
今回の気づきを通して、私たちの支援のあり方を、もう一度見つめ直す機会をいただいたことに、感謝しています。
これからも、誰もが「自信」と「誇り」をもって働ける社会を目指して、一歩一歩、歩み続けていきたいと思います。



