新年明けましておめでとうございます。
心を新たに、また1年間という限られた時間と大切に向き合いたいと思います。
2010年年末が忘却の彼方に消えてしまう前に断片を記録します。
年末、地元に帰って、自習室(と勝手に呼んでいる)へ。時を忘れて本を読める喜びを噛み締める!!!今年、建築界のノーベル賞プリツカー賞を受賞されたSANAAの西沢立衛氏の「美術館をめぐる対話」を読み進めながら、眠りつつあった、消せない私自身が蘇ってくるようで、久しぶりに生きた心地がしました。やっぱり美術館と建築(都市計画含む)は好きなのです。これはどうしようもないらしい。
とはいえ、最近美術館に行く頻度は下がり、休めるときは誰かに会う、必要なものを買いに行く、インプットに徹する・・・等で、基本的に家で落ち着くようなこともなく過ごしています。アートと対面すると結構消耗するから、社会人になってからは、美術館は私にとって、「元気な日か余裕がある日に行くところ」になったのだなぁと気づきました。美術館がいかに集客をするかという点で、一般に提供される余暇の選択肢の中で競争に勝たないとならない実態を認識する必要があることを、時間のある学生時代を終えた今、ようやく腑に落ちて理解し始めています。でも、アートは必ずしも私を癒さない、それでいいのです。アートは癒しだけのために存在していないのだから当然だし、そうあるべきだし、いつでもそうあってほしい。
私の2010年を締めくくった本からメモ:
◆12〜13ページ:僕の印象では、優れたアートというものはしばしば、「アートとは何か」ということを鋭く問いかけてくるような気すらします。
◆15ページ:機能に合わせて建築をつくることが、本当に使える建築を生むことになるのか
◆15ページ:改修モノは、建物がある程度の古さを保存しているから、新品のアート作品の魅力を鮮やかに感じることができるのだと思います。
◆26ページ:キュレーターの個性、思想によって美術館のあり方は大きく変わる
◆19〜30ページ:(青木淳)建築はモノとして建つものだから、それを見たり体験する人が、結果的にそこから意味を受けとるのは当然のことです。でも、その意味は人それぞれで違っているのが理想だと思うから、どうやって象徴性を消すかということを考えます。特に、美術館は、そこで思わぬことが起きる場所のはずでしょうから、象徴性というところから最も遠い施設なんじゃないかな、と思います。
◆34ページ:人々が集まって音楽を聞いたり、絵を見たりというのは、もっと単純な、例えば神社で村祭りをやるような感じでいいんじゃないかという、そうした発想が僕らにはどこかにあると思いますね。
◆55〜56ページ:美術館には、民間であっても公立であっても、ある公共性というものがあって、それはまさに町の一部で、町の人々が共有する財産です。それは道路とか公園が公共物であるのと同じで、経営的に成功しないからといって道路や公園を廃止しないのと同じで、町の財産としての美術館も、お金をつくる目的で存在するのではなくて、僕らの生活を豊かにするためのものですから、経営や商業とは違う角度での評価も必要ですね。
◆100ページ:「開く」ということは、物を失っていくというだけでなくて、物をつくっていく、ある豊かさを生み出していくことでもある
◆142ページ:(南條史生)その町の文化と認めてもらうには、そこがつくり出した文化と文化装置がなければならない。つくり出すというのは、アーティストをつくれという意味ではなくて、独自の美術館の活動やコンセプトがあるということです。
◆155ページ:(オラファー・エリアソン)成功している美術館とは、自身のあり方について常に懐疑的でありつつ、同時に来館者にも健やかな批評の精神を呼び起こさせるものなのです。
◆210ページ:公共とか集団というものは、考えてみれば、帰属するひとりひとりの主体性や個性、独創性とかが重要だと思うんですね。集まることのメリットを考えると、似たような人が集まるより、個々が違う力をもった人々が集まるほうがいい。集合するということは、個々に個性や主体性があることが前提になっていると思うのです。
西沢氏が携わった金沢21世紀美術館も十和田市現代美術館もどっちも好きだったので、この本に記されているアイディアは、ビシビシ伝わってくるし同意できる部分が多く・・・とはいえ、当たり前なことも多かったものの・・・これまで学んだ沢山のことを少しずつ忘れていくような実感が少しあって少々怖くなりました。自身を前進させるパワーは自身で創るしかないのですな!(随分な乱文ですが、まとめる時間を取ろうとすると更新することすら忘れてしまいそうなので、更新します。)
早速今度は『ザハ・ハディットは語る』を購入!あああ、読むのが今から楽しみで仕方ないー☆