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エッセイ 水木亜希 [2018年03月23日(Fri)]
エッセイ 水木亜希

 エッセイ 水木亜希

  空気は読まない
                   水 木 亜 希

 このところ毎日電車を利用する用事があってその日も小田急線に乗っていた時だった。ラッシュアワーを過ぎて空席もいくつかある。殆どの人はスマートフォンに目をやっている。
 そこへ途中駅から乗ってきた若い女性が斜め前に座った。しばらくすると化粧を始めたのだった。化粧ケースを膝に、ブラシやペンシルを鮮やかな手さばきで駆使し、少しのためらいもなく手鏡の中の顔を造っていく。画家だってカンバスに向かったら少し考えながら描くだろうにと思いつつ見とれてしまった。
 車内での化粧は以前から問題視されているし確かに上品なこととは言えないだろう。ただマナーの是非は相対的なことなので、それはおいておいて、羨ましいと思うのは、どこにいても自分だけの世界にさっと入りこめてしまうことだ。
 残念なことに鏡の中の作品が完成しないうちに下車駅に着いてしまった。ホームを歩きながら「そうだ、これは、あれだ」という思いが浮かんできた。
 数年前、韓国の温泉に行った時のことだ。その温泉の雰囲気が、白い湯気のようにもやっと頭の片すみに残っていたのだ。それが「あれ」だった。
 韓国の「道高(トゴ)ホテルパラダイス」の温泉はホテルとは別棟にある大浴場で、宿泊客だけでなく外部からの利用も可能になっていた。
 ホテルで入湯券をもらい受付に出す。受付には若い子が三人、立ったり座ったりして賑やかに話をしていたが何とその中のひとりは何も服を着ていない。周りの人たちは奇異に思うでもなく接していて、入湯券を受け取る時もカップラーメンのようなものを啜りながら楽しそうに話をやめない。それでこれは驚くことではなく、ここでは普通のことなのだと考えることにした。韓国語ができれば「何でハダカなの?」ときいてみたかったけれど。
 その後、別の女性の案内によって「ここがロッカー、鍵はゴム付きで手首に、ここを曲りあちらに直進すると入り口がある」ということが推測される。全部説明は韓国語なので実際には全く違うことを言っていたにしても判りはしない。
 とにかく迷子になりそうなほどの多くのロッカーの間をぬって無事に浴場についた。
 中央に、円形の大きな浴槽があり、その周囲の広い洗い場で大勢の人が身体を洗っている。お風呂なのでそれは当然で疑問を持つ方がおかしいのだけれど「何か違う」感に圧倒されてしまった。その動作が、まるで仕事をするように熱心で脇目もふらず洗うことに集中しているのだ。
 それは正しいことだ、きっちり生活されていることが窺える。のほほんとお湯に浸かったりしていない。誰のことも見ていない。周りに関心がない。会話もない。それぞれが、あの、自分だけの思いの中にいる境地。
 日本のゆったりした温泉という思いこみがあったためか、ひとり取り残された気分におそわれる。
 それが違和感として忘れられなかったので車内化粧の女性と重なったのだった。
 他人を気にしないでものごとに集中できるのはひとつの才能だ。芸術家って、もしかしたらこの女性のような人がなれそうな気がする。と、言ったら「いや、あれはただの非常識だよ」と芸術家には怒られるだろうか。



 若林信男 記
エッセイ 水木亜希 [2016年08月23日(Tue)]
エッセイ 水木亜希


     不意の音
                             水 木 亜 希
 ピーピーと音が鳴るたびにびっくりして飛び上がってしまう。もちろん心の中でだけれども。
 音の正体はご飯が炊きあがったという炊飯器の合図である。冷蔵庫のドアがきちんと閉まっていないときに知らせる電子音と同じようなのだが、それは警告なのだからしかたがないとして、ご飯が炊けたのは単なるお知らせにすぎないとすれば、もっと優しい音でいいのではないか。それにしてももう二ヶ月、いいかげんに慣れても良さそうなのに、何も考えていないときに、あるいは別のことに気をとられているときに、けたたましく鳴る音には驚かされるのだ。
 この炊飯器が我が家にやってきたのは昨年の年の暮れ、十二月二十九日のことで、それまでながいこと使っていた炊飯器がその前日にばったり機能しなくなったためだ。少し前からスイッチを入れても灯りがつかなかったり、いやいやついたりでダメになる徴候はしばしばあった。それがついに何をしても反応しなくなり夕ご飯はお鍋で炊くはめになった。
 「はじめチョロチョロ、中パッバ、赤児泣いても蓋とるな」という昔の言い伝えを思い出して試してみる。チョロチョロというのは弱火のような表現だけれども、沸騰するまでは強火の短時間がいいようだ。少し焦げ目がついたもののまあまあのできだった。
 これで、普通ならしばらくお鍋で炊いてもいいかな、と思うところが、今回は普通ではない。翌三十日には夫の友人がお二方旅行の途中でお昼に立ち寄られることになっていたのだ。ずっと前からの予定なのに「昨日お釜がこわれまして」と言って近くのレストランとかに案内するとしたら、とても嘘っぽいとしか思えないにちがいない。それに料理がまったく苦手な私には、せめておいしいご飯だけがたよりなのだった。
 という訳で急いで炊飯器を買いに出かけた。一店目では気に入ったものがなく大型量販店に行ってみる。こわれなければ関心もない電化製品なので、久しぶりに行って並んでいる炊飯器の種類の多さに驚いてしまう。同時に、こんな年の暮れに炊飯器を買うひとなんていないだろう、という思い込みが見事にくつがえされて、なんと買い物客がたくさんいるではないか。中高年のご夫婦らしき方達二組、若い男性や中年の男性、若い女性たち。みんな昨日炊飯器がこわれたとも思えない。新年に向けて新しい物にしょうとか、男性はもしかして単身赴任になったのかしらとか、よけいなことを考えながら製品を見てまわる。
 価格は数千円から十万円以上の物まである。それなりの機能を持つのだろうけれど十万円もする炊飯器をお使いになる方はどんな食生活をされていられるのか想像もつかない。そういうお宅をちょっと覗いてみたい気もする。
 とにかく身分相応の手ごろな価格、毎日使うものだからあきないデザインがいい、と選んだのは結局今までのと似た四角く白いシンプルなものだった。持ち帰ってさっそくご飯を炊いてみると、さっくりほかほかとおいしくできあがった。
 それからピーピーという音がはじまることになる。

 考えて見ると、他にも音に驚かされることはいくらもある。お風呂は「あと五分でお風呂に入れます」という音声の前に突然音楽を鳴らす。洗濯機も洗い終えると音で知らせる。テレビのドラマの中で電話が鳴ると「えっ、うちの?」と電話機のほうを見てしまったりする。
 ひとつ、どこの家庭でもあるのか普通の電子レンジが五年ほど前から我が家にはないので「チン」という音はきこえない。電子レンジがこわれてから、どれを買おうか迷いながら過ごしているうちに、無くても良いことに気がついたのだった。
 便利なものを使用していると、それが無くなったときにおろおろしてしまいそうだ。ひとは便利さにはたちまち慣れるけれど、不便さににもゆっくり慣れていくものらしい。
 あとで炊飯器の説明書を読んでみるとピーっという音は止めることもできると書かれている。が、びっくりさせてもらうこともひとつの刺激にになっていいかも、とそのままにしておくことにした。
 そのうち慣れることだろうし。


 若林信男 記
エッセイ 岡桜子 [2016年08月06日(Sat)]
エッセイ 岡桜子



     おかしな夫婦
                           岡  桜 子

 期待と不安を抱えながら始まった団地生活も、早いもので一年三カ月が過ぎた。心配していた階段にも慣れて、住み心地は、今のところ申し分なしである。
 長年暮らしていた借家は古い木造だったので、台風の夜など、大袈裟だが屋根が吹き飛ばされはしないかと思うほど、家中がガタガタ悲鳴を上げた。それに比べて、ここは鉄とコンクリートでしっかり守られている。嵐の夜でもそれと気づかないほど静かな夜を過ごすことができている。
 小田急線に善行駅ができたのは昭和三六年。そして善行団地の入居が始まったのは、その三年後の昭和三九年である。その後住宅棟の建設が進み、私たちが住んでいる住宅は、平成二年に入居が始まった住宅棟にある。
 実際に暮らしてみると、両隣と上の階のどちらの住宅からもほとんど音が聞こえてこない。入居している人たちが静かに暮らしているのか、あるいは騒音を通しにくい壁や床にしてあるのかよくわからないが。周囲の騒音はある程度覚悟していたのだが、意外にも静かな毎日でほっとしている。
 ところで当たり前のことながら、賃貸の公団住宅なのだから特別便利な設備が備わっているけではないが、これはいいと喜んでるものがある。リモコン付きの給湯システムである。引っ越すまではお風呂の操作は全て手動でやっていた。だからちょっと油断するとお湯を多く出しすぎたり、沸かしすぎたりと思うようにいかないことがよくあった。
 それに比べて今はボタン一つでさまざまなことができる。例えば、自動運転でお風呂を沸かそうと思えば、お湯の量(水位)とその温度を設定しておけばいい。やがて設定通りのお湯が設定通りの水位まで溜まるとお知らせのメロディがなり、「お風呂が沸きました」とお風呂場と台所の両方のリモコンで知らせてくれる。さらにこの後三十分ほどは保温機能が働く。要するに、ボタンを押す以外は放っておけばいいのである。その他あれこれ便利な機能がついている。このようなお風呂の給湯リモコンが一般家庭に普及して久しいのであろう。その恩恵をようやく受けることになって喜んでいるのだから、時代遅れも甚だしいと笑われそうである。欲を言えば、浴槽の掃除も自動でしてくれる機能が追加されたらもう言うことなしである、などと虫のいいことを思っている。
 引っ越して間もない頃、「お風呂が沸きました」というリモコンの声に「ありがと、ありがと」と真顔で答えている主人がいた。この様子を目にした時、ちょっとおかしい、ボケはじめたのではとひやりとした。ところが主人は「リモコンの女性の声があまりに穏やかで優しいきれいな声だったので、ついお礼を言いたくなった」とすましているではないか。便利な給湯システムに対するお礼というよりは、お風呂が沸いたと知らせるている女性の声に魅せられたようである。毎日きつい調子のしわがれ声を聞かされ続けている主人の耳には、そのリモコンの声が、格別穏やかで優しいきれいな声に聞こえたのであろう。そしてリモコンの声であるうときれいなものはきれいと心情を吐露したくなり、私にはあまり言ってくれない「ありがと、ありがと」が口をついて出たということか。こんなとき、いつもの私なら嫌みの一つも言っているのだが……。
 ちょうどその頃、私は引越しの準備中に圧迫骨折を起こして安静を求められ、引越しの一切を主人に頼るほかなかった。さらに買物、食事、台所の後片付け、ゴミ出しなどなどほとんどを主人が引き受けてくれた。あの時は強い腰の痛みで、嫌みをいう気力もなかったのである。でもリモコンの声ごときで嫌みを言わなくてよかったと今は思う。主人は相変わらず買い物からゴミ出し、食事の後片付けなどいろいろ手伝ってくれ、リモコンの声には「ありがと、ありがと」を繰り返している。
 ところでリモコンの声はどのように作られるのだろうか。声のきれいな女性が発する音声を使っているのか。それとも、聞く人に好印象を与える音声を求めて、いろいろコンピュータで操作して人工的に作り上げてのであろうか。悪声の持ち主としてはちょっと気になるところである。

                            二○一六年六月

 エッセイなぎさ会のメンバー岡桜子さんの原稿を掲載しました。


 若林信男 記
エッセイ  孫娘への手紙 [2011年12月13日(Tue)]
  エッセイ

   孫娘への手紙

                                         大日方 星宇

 山崎豊子さんの小説「沈まぬ太陽」を熱心に読んでいる孫娘のU子さんを目にして、一通の手紙を書こうと思いました。

 この本の章を読み進むうちに、日本航空の大事故のあたりにくると、おそらく驚いたり、悲しんだりするでしょう。
 とにかくたいへんな事故でした。この事故で「坂本九」さんという、たいそう有名な歌手が犠牲者の一人になられました。この人は、現在で思うと、マイケル・ジャクソンや野球のイチローさんのように、日本中いや世界中に名前の知られた人でした。

  ・上を向いて 歩こう
  ・しあわせなら 手をたたこう

という明るい歌声と、懐つこい風貌で愛されていたのです。人柄は庶民的。私生活も穏やかで、日本中の人々に敬愛されていました。二十五年前の出来事です。
 おばあちゃまは世田谷区駒沢に住み、テニスを趣味にしていました。ある朝のこと。レスキュー隊で働いておられたSさんからテニスに誘われ、用賀にあるテニス・クラブに出かけました。早朝のテニス・クラブには人影は少なく、二人で乱打練習をしていました。
 Sさんは東北出身の有能なレスキュー隊員で、羽田沖の日航機事故で立派なお仕事をした方です。特別な勤務の方で、空き時間をご自分の体調管理とストレス解消にテニスをしておられるという、礼儀正しい好青年です。
 一組の男女が私達のコートに近づいて来られました。その方達が、どなたか直ぐに判りました。日本中が存じ上げていると言っても言い過ぎではない、あの「九ちゃん」でした。ニコニコ顔で、
 「坂本です」
と、きちんと自己紹介されました。
 「妻の由紀子です」
と、これまた、ごく普通の社会人と同じ態度で、挨拶されました。
 横で、なこやかに微笑んでる女性は、これまた誰でも知っている女優の柏木さんなのです。
 それまでテニス・クラブで名前の売れている芸能人の幾人かを目にしていました。大半の人は偉そうに、自分は別格だと言わんばかりで、取り巻きに囲まれているのを見ていたのです。ですから、坂本夫妻のご挨拶には心が洗われました。
 私達二組は、ミックス、ダブルスを幾ゲームか楽しみました。私のパートナーのSさんは、変化球のサーヴィスを持ち球にしていましたが、由紀子さんサイドには、取りやすいオーソドックスなボールを送っていました。このテニス・クラブはハードコートですので、男性の力ずくの変化球の処理は、女性には難しいのです。「九ちゃん」も女性サイドへのサーヴィス・ボールは、受けやすい種類のものを下さいました。
 クラブ・ハウス内での会話では、終わったゲームの勝負には、いっさい触れられません。アマチュア・スポーツの真髄を心得ていることを感じました。ジェントルマンそのものでした。
 「子供を学校に送り出した後、家内とテニスに来るのが楽しみです」
 「梅雨の晴れ間に、体を動かせてうれしい!」と、呟かれたのが強く心に残りました。奥さまは傍らで、にこやかに話をお聞きになるだけで、ほとんど口を挟まれません。
 なに気ない調子で言われた「九ちゃん」の言葉は、五十日後の「御巣鷹山」を夢想だにされていなかったことでしょう。
 日航機事故が報じられ、その中に「九ちゃん」のお名前を見た時には、
 「何故、何故、どうして」
と、気が転倒してしまいました。
 才能のある方、日本中から愛されている方が、どうして、どうして……。
 早朝のテニスの思い出が胸に迫りました。一般の人として、慎ましく礼儀正しい家庭的な一男性の坂本さんが、私には強く残っていました。飛行機が「御巣鷹山」に激突する瞬間、「九ちゃん」は、この恐ろしい場面は僕一人でよかった。由紀子や娘が一緒でなくて……、と思われたでしょうか。
 普通のお父様、ご主人様方も同じだったでしょうか。

 U子さんは、この先多くの人々と出会い影響を受け、人生を歩まれるでしょう。周囲の方の本質をしっかり感じ取ってくた下さい。
 有名人やお金持ちなどの、それぞれの生き方を見たり感じたりするでしょう。お仕事と忠実に向き合っている方、家族を大切に思ってこよなく愛している方。こんな人は、心配りのある本当の強さ、うそのない優しさを持ち合わせておられると思います。
 率直で思慮深い女性になってくださいね。この事故から今年で、二十五年を迎えたのですよ。

  U子さんへ
                                   祖母より

 二〇一〇年八月


 平成二十三年七月二十三日発行の『エッセイなぎさ会 文集第十四集』から転載しました。

                                            若林信男 記
エッセイ 私の青森駅 [2011年10月25日(Tue)]
 エッセイ

    私の青森駅

                               相 良 秀 夫
                                 (エッセイなぎさ会 会長)

 昭和三十九年、待望の東京オリンピックがまもなく開催されようとしていた時、私にとって初めての北海道行きがかなった。
 旅への期待に胸ふくらませつつ、列車に長時間ゆられてようやく青森駅に着いた。すると驚いたことに、降りた乗客が一斉に走り出した。青函連絡船に乗り継ぐ長い長いホームを、荷物を抱えたたくさんの人が我先にと走っていくのである。それはまるで何かに憑かれた集団の大移動を思わせる光景であった。船室の中で気に入った場所を早く確保するためであったことは後で知ったが、それは私にとって妙な懐かしさを覚えるのであった。
 父は会津若松市を振り出しに転勤生活を続けていた。五所川原、青森の次はーーー。私が四歳の時であった。積もった雪を掘り削って作った雪の回廊を走りまわったこと、家族と一緒に青森駅を発った時の様子など、青森での記憶は数少ないが鮮明だ。
 父の会社や近隣の方々だったのであろうか、たくさんの人が見送りに来てくれていた。夜汽車に乗る私は、姉のおさがりであったのかピンクの糸が織り込まれたオーバーを着せられた恥ずかしさもあった。また、大人達の別れの挨拶は、子供の私には当時退屈そのものであったに違いない。私はそこを逃げ出しホームの柱の陰に幾度となく隠れ、両方のポケットに入れた夜食用の固いコッペパンをちぎっては食べていた。そのかたわらを、その時も荷物を持ったたくさんの人が駆けぬけていったような気がする。
 次からの北海道行きは、青森を経由しない飛行機の旅となった。もう一度あの連絡船のドラの音をと思いつつも、それはついにかなわなかった。
 青函連絡船の駅「あおもり」は、ひとつの大きな役割を果たし、そして終えていった。しかし、人生の句読点となるであろう思い出を残したあの青森駅の風景は、多くの人々の心にそして私の心にいつまでも生き続けるに違いない。
 あのドラの音がーーー。あれからもう五十年が終わろうとしている。

 『エッセイなぎさ会 文集第十四号』が転載しました。


                                            若林信男 記