3月25日、事故の2日後から仲間内でちょこちょこと連絡をとって集まり始めた。
りょうすけさんを囲んで今後どうするか話し合うカンジ。
いちよさんとはしばらく会えなかったから、気持ちの準備と整理みたいな意味合いもあったんだと思う。
メッセンジャーのスレッド名「つなかんをつなぐ件」とした。
4月8日、工場の大掃除をみんなで手伝った。
6年前同じ場所でガレキの撤去をする光景がフラッシュバックする。
このあたりから意外な展開に。
つなかんを早々に再開する!といちよさんが言い始めたという。
つなかんの継続を進言するつもりだった私たちは、一転「時期尚早ですよ〜」と止めるのに必死になった。
4月17日、いちよさんがFacebookに投稿する。
「なかなか上手く言葉にできないのですが、嫁に来た時にじーちゃんが言っていた「与えられた運命を愛せよ」という言葉を胸に、もう一度ラストスパート頑張ってみようと思います。
そうして、「こんなに頑張ってきたよ」ってドヤ顔で3人の元にいけたら本当に幸せです。
まだまだ皆さんのお力をお借りしたいです。また皆様と笑顔でお会いしたいです。」(Facebookより一部引用)
私はまるオフィスの合宿で仙台に来ていたのだが、夜中これを読んで泣く。
「一代のドヤ顔」がまた見たい、そう思った。
一方、4月末りょうすけさんが東京に帰る宣言。
自分の無力さと他人任せだったことを猛省する。
5月1日、お葬式。
これを区切りに、ホワイトボードを持参してちょくちょくいちよさん宅を訪れるようにする。
5月14日、糸井さん夫妻が訪問。キーマンが誕生。
5月20日「裏作戦会議」で1階部分の活用についていちよさんにある提案をする決意をする。
次に、さちをとばっぱの台所を訪れる。かずえさんに会うため。
6月1日&6日「ばっぱの勉強会」開催。
このあたりから動きが加速し出す。
まり財務大臣(もしくは首相)を中心に具体的な準備が始まった。
(6月7日 つなかんの1階にて)
私はというと、この日からちょこちょこつなかん1階に顔を出すようになる。
6月12日、気仙沼界隈の有識者!!によるNewつなかんごはん試食会。
6月15日、ひとまず広報のお手伝いをすることに。Instagram再開。
6月22日、つなかん再開のお知らせがアップ。ここにもいろんな方のお手伝いが。
26日からいよいよ再開。
新しいキャッチコピーは「唐桑に嫁いだ、いちよが始めた民宿です。」
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みなさん、「唐桑御殿つなかん」が再開しますよ。
嬉しいなぁ。
合言葉は「#やっぱりつなかん」。
やっぱりつなかんは、いろんな人に愛されてるんだなぁと感じた3ヶ月でした。
やっぱりつなかんがなかったら、Gakuvoの受け入れもできてなかったし、「KECKARAけっから。」も生まれてなかったし、結局、今の私たちはありません。
そしてやっぱりつなかんは、波を乗り越えるいちよさんといちよさんの家族の笑顔ではじまるんだと思います。
(愛用してるほぼ日手帳。糸井さんの言葉。この言葉がここにあってよかった。)
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いちよさんが不意に言う。
「人と人とがつながる場だよ。ねぇ、今の時代に必要なことだと思うんだよね。
つなかんってさ、つながざるをえないところでしょう?」
天国の3人のため、時代のため。
「ねぇ、たくま、私には夢ができた!」思い起こさせるように、頭ん中で6年前のいちよさんが元気よく声を張る。
そうそう、まだまだ夢の途中だもんね。
2011年に書いた記事を読み返してみた。
「ツナカン物語」2011.09
鮪立に「唐桑のマドンナ」がいる。
カキ養殖業の奥さんで、とてもエネルギッシュだ。
3階建ての立派なお宅は、3階まで波を被った。
(中略)
みな、マドンナのパワーに圧倒され、マドンナのトークに爆笑し、力をもらった。
徐々に家がキレイになるにつれ、マドンナが言う。
「この家は一度はもう取り壊そうかと思ったけれど、みんなにキレイにしてもらって、取り壊すのがもったいなくなってきた」
3階まで波を被ろうと、家の基礎や柱に問題はなかった。すごい家だ。
「私には夢ができた!いつか将来、ここを改装して、手伝ってくれたボランティアさんたちが帰ってこれるようにするの。そのときは、私がカキなり何なりを御馳走するわ。泊まってもいいし、休憩でもいいし」
ボランティアに恩返しする場所にしたい。帰ってこれる場所にしたい。みんなが集まれる家にしたい。
「それ、絶対やりましょう!みんな、唐桑に帰ってきますよ」
(中略)
それから1ヶ月は経っただろうか。夏休み目前。マドンナに相談しに行く。
「この夏は、学生はじめたくさんのボランティアが来ます。この3階建てで、寝泊まりできるようしませんか」
旦那さんやマドンナは快諾してくれた。
これで、唐桑ボランティア団事務局として、短期団体を受け入れやすくなる。
マドンナの夢の一歩にもなってくれたら。
マドンナは、それから空いている時間を見つけて、せっせと拭き掃除をしてくれていた。
ボランティアがやるからいいですよ!と言っても、オレらがいない間に掃除を進めている。
(中略)
わいわいと仲間内でこの新たな拠点のニックネーム、屋号を考える。
ホワイトボードに候補が挙げられる。
「キャンプ○○」だとか、「ホテル○○」とか、「スナック○○」とか…
「鮪立(しびたち)の基地だから、“ツナ(鮪)スタンディング(立)”ってどうよ。横文字でいこうや。ツナスタ!」
マドンナは菅野氏なので、「かんの」は入れたいよねぇ。
すると、地元の高校生がポツリと、
「ツナカンは?」
「…ツナ缶?…あぁ〜なるほど!」
鮪立の菅野家で、ツナ(鮪)カン(菅)。
(中略)
8月10日夜、Gakuvoの学生が到着。
ツナカン、オープン!
「皆さん、ツナカンへようこそ!」
真っ暗な鮪立の海岸沿いに、若者の笑い声と灯りが咲いた。
(後略)
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引用記事
「ツナカン物語」
https://blog.canpan.info/entoki/archive/70「続・ツナカン物語」
https://blog.canpan.info/entoki/archive/71--------------------
(つなかんと出会った日。天井をはがすワーク。2011年6月16日)
(Gakuvoの緑のビブスだ。2011年6月26日)
(まだ痛々しいつなかん。2011年7月22日)
(みんなでBBQ。2011年9月26日)