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ばかっ!このヘタクソ! [2015年07月27日(Mon)]

6月19日。夫婦でお見舞いに来た。
ぼっぽら(いきなり)現れた私たちに、病室のベッドで寝たきりになったばあちゃんは驚く。
お花を持ってきたが、すでに置くところがない。とても喜んでくれる。
ところで子どもはできたのか?とばあちゃんが首を起こす。

このところ唐桑のじいちゃんばあちゃんに会うたびに聞かれるセリフ。
「早くヨメごもらえ」「早くムコとれ」「早く子どもつくれ」
の3つは、唐桑の年頃の若者が浴びるように言われる言葉。都会の方でセクハラだなんだと騒がれる事件と同じにしちゃいけない。もはや地域の先輩から地域の若輩への挨拶みたいなものだ。

まだだぁ〜と私が答えると、ばあちゃんは声を張った。
「ばかっ!いつまで遊んであるいてるつもりだ!」
私を覗き見て吐き捨てるように付け加える。
「このヘタクソ!」

私たちはおもわず苦笑というより爆笑だ。
「あれれ、ばあちゃん、それだけ口が動けばまだまだ大丈夫だな」
私はベッドの手すりに寄りかかる。
口は動いても体はもう思うようには動かない。
カキ・ホタテの養殖漁業を家業としてきたばあちゃんにとって、ずっと寝ているのはさぞもどかしいことだろう。
「おれがいなきゃダメなんだぁ」
ばあちゃんがつぶやく。
浜辺の作業小屋で黙々と、カキ殻をカチャカチャと鳴らすばあちゃんが思い浮かぶ。

菖蒲の葉がベッドの脇に立てかけてあった。
「あぁ、今日はご節句か」
今日は旧暦の「端午の節句」。菖蒲の葉は魔除けの意味をもつ。
家族が持ってきてくれたそうだ。
「買ってきたんだと。ほんっとエラいねぇ。
おらいの井戸の脇に生えてるの知らねぇんだぁ」
皮肉をきかせて、はっはっはっと笑う。
まだまだおれがいなきゃダメなんだ、と笑う。

---

それから1ヶ月。ばあちゃんは動かなくなって唐桑に帰ってきた。
えまとお家に伺う。
「ばあちゃん、たくまとえまが来たよ」
目を真っ赤にしたお母さんが話しかける。
水を含ませた綿棒で、紅を引いた唇をとんとんと湿らす。
生まれたばかりのひ孫と初顔合わせを果たした日に逝ったという。きっと赤ん坊を抱いて安心したのだろう。
逝く命と来る命。

「ばかっ!このヘタクソ!」
ばあちゃんの嬉々とした叱咤の声が心の中でリピートされる。

お通夜で、ばあちゃんのひ孫を抱っこさせてもらう。
この家のひとつの時代が終わり、ひとつの時代が始まる。

時代は命のリレーだ。
地域は命がリレーを繰り返すトラックのようなものだ。

そのトラックの存続が危ぶまれる時代に入った訳だが。
このままの流れに身を委ねる気はない。
ばあちゃん、あとは任せなよ。天国から見てな。
胸をぐいと張って会場を後にする。
なぜ反対しなかったの [2015年07月14日(Tue)]

本日の河北新報「戦後70年 戦災震災」に、福島の方の印象的な言葉が載っていた。

「私は子どもの時、親に『なぜ戦争に反対しなかったの』と聞きました。
 その私が今の子どもたちに『なぜ原発に反対しなかったの』と問われるでしょう」

(『戦後70年 戦災震災 C満州引き揚げと原発事故 2度の棄民 気力奪う』より)

原発だけじゃない。
再び戦争然り。

明日の採決はさてどうなるのだろう。未だ他人事の私がいる。
続・嬉しかったことと、学んだことと、その他ちょっとした報告 [2015年07月07日(Tue)]

つづき

次に学んだこと2つ。
ひとつ。GW前後にドキュメンタリー番組の密着取材的なものを初めて受けた。1週間。
なかなか大変なものだったが、貴重な経験をさせてもらった。
詳細は後日書こうかな。

ふたつ。6月の中旬、東京にて初めてETIC.のセミナーなるものに参加した。
オチを言えば、2泊3日の缶詰でぼっこぼこにされた。
自分は一体気仙沼・唐桑で何をしたいのか。とことん問われる。
脳ミソを切開して膿みを出す。

「肥大したモンスターの頭を
 隠し持った散弾銃で仕留める(略)
 あいつの正体は虚栄心?
 失敗を恐れる恐怖心?
 持ち上げられ浮き足立って膨れ上がった自尊心?」

最近知った歌詞にこんな一節がある。(Mr.Children『Starting Over』)
そうそう、こんな感じ。
私含め30人の参加者は、最終的にこのモンスターと闘っていた。
荒療治と並行して、久々にすごくいい出逢いがあった3日間でもあった。この世界の扉を開いてくれた私にとっての黒船・小林峻に感謝。

このセミナーを機に(4月に立ち上げたばかりの)事業の見直しが始まった。
あれから3週間、思考は一進一退を繰り返すが、モレスキンノートだけはすごい勢いで消費されていく。いい加減精神が疲弊してきた。
ときどきアウトプットして、仲間にあーだのこーだの言ってもらうと楽になる。
そろそろ終わりにしなきゃ。
いつまでも理念うんぬん、ビジョンうんぬんと言っていては、事業が進まない。

---

その他、ちょっとした報告をいくつか。
市役所に地域支援員として勤め始めて丸2年。「ぬま大学」という新企画がスタートした。
地域の若者の企画力を鍛え、ネットワークづくりもできちゃう半年間の地域づくり実践塾。

新たな支援員のスタッフである、小林峻(東京出身移住者)と小町香織(富山出身移住者)と日々格闘中。

あ、あと、この6月は人生で一番移動した月だった。
活動の備忘録として−−
6日、からくわワークキャンプの説明会を開くため東京へ(1泊)
11日、立教大学の授業でゲスト講師(1泊)→12日〜ETIC.のセミナー(2泊)
21日、プライベートで東京(西尾先生の祝賀会)(1泊)
→22日、からくわワークキャンプの説明会を開くため広島へ(1泊)
7月3日、NHKの収録で東京へ(1泊)

この4年間滅多に気仙沼・唐桑から出ない私だったが、
この春から徐々に仙台行きが増えてきて、ついに毎週上京するハメに。

移動が好きな方ではないので、もうこんなことはこれっきりであることを願う。
嬉しかったことと、学んだことと、その他ちょっとした報告 [2015年07月02日(Thu)]

新年度も早3ヶ月が経過し、そろそろ毎年恒例「夏の陣」が始まる。
地域のイベント連発、大学生の受入れ、飲み会(…これは年中か)などなどで多忙を極める夏。
という訳で、2015年の春の近況を報告。

まず嬉しかったこと2つ。
ひとつ。地方創生の波を受けて気仙沼も戦略会議を発足したのだが、
その「けせんぬま創生戦略会議委員」に選んでいただいた。
秋の発表会に向けて人口減少対策の事業を練る。

ふたつ。新生唐桑中学校との連携。
この春に合併を経て新たなスタートを切った唐桑中学校。
唐桑地域に唯一の中学校となった。
そしてなんと、1月の原田燎太郎氏のハンセン病に関する講演を機に、中学2学年が総合学習で「鈴木重雄氏」という人間を軸に地域の福祉を考えることとなった。
「こんな素晴らしい先輩(教材)が地域にいらっしゃったとは」と先生がこぼす。
信じられない。40年の月日を経て、だ。
「蒔いた種」がつながった。
思わず岡山の矢部顕さんに電話する。「すごいことじゃないか…」矢部さんが目頭を熱くする、それが電話越しでも伝わった。

そこで、6月4日「鈴木重雄氏」をテーマに唐桑中学校で講義を依頼される。
この大先輩がどういう人生を送り、どう地域の福祉の貢献したのか語る。中学生に分かりやすいようあくまで簡単に、だが。
驚いたことはやはり小原木中学校の子たちがいたことだ。本当に合併したんだ、と実感。
しかも彼らは、小6のときにじゅんちゃんとワークショップをしにいった顔見知りの子たちじゃないか。(彼らの小原木小学校卒業式には来賓として参加させてもらった。)
中学生は食い入るように聞いてくれる。
思えば、自身の活動や人生以外のテーマで人前で話すのはこれが初めてだ。特に他人(重雄氏)の人生を私が勝手に咀嚼して語るのだから、襲われる緊張感の種類が違う。
康彦さんにまたひとつ恩返しができた気がした。

流れは一度生まれると、しばらく続くものだ。
5月23日 唐桑総合型地域クラブ「カラット」理事に
6月15日 「唐桑地区青少年育成協議会」委員に

そして次は、中学1年生の総合学習の協力依頼を受ける。
テーマは、小原木中学校から引き継ぐこととなった「海抜表示プロジェクト」。津波からの避難道に「海抜〇m」という看板を設置し、3.11の教訓を遺していく、という防災プログラムだ。
当プログラムの実地視察(まち歩き)に関するコーディネーター役を仰せつかったからくわ丸は、7月2日、唐桑・中井地区6ヶ所の被災集落で同時フィールドワークをセッティング。
中学生はグループに分かれ、各集落の案内人(地元の大人)に案内されながらまち歩きをして、防災への想いを聞く。
梅雨時期には珍しく快晴となり、まぁ〜とにかく焼けた。

つづく