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「唐桑」は誰が継ぐ (シリーズ「春よ来い」@) [2014年04月16日(Wed)]

ようやく三寒四温が、二寒五温くらいになり、
桜のつぼみがぽつりぽつりと東北の春を待ちきれず開き始めた。

年度末にあった印象的な出来事をつづる、シリーズ「春よ来い」。
第一弾は、以下2月24日の日記からの抜粋。
(カッコ内:補足)
---

一昨日、千葉貫二先生が亡くなった。
あまりに急でただただ驚く。
文化人として、また地域づくりの第一人者の一人として、唐桑の一時代をつくってきた人だと認識している。
貫二先生の意向を気にして(NHK「東北発☆未来塾〜デザインの力〜」企画以降)大唐桑茶のデザインうんぬんで足踏みしていた自分を思い出す。

やはり上の人に逆らわないのが、田舎での生きる術だ、と。

しかし、どうだ。
人はある日呆気なくいなくなる。なんなんだ、これは。

弟さんの貫三さんもお歳だ。じゃあ「貫三リンゴ」は誰が受け継ぐ?
夕市のばあさまたちも10年後にはほとんどいないかもしれない。じゃあ、あのこじんまりとして、えまが愛してやまなかった直販所は誰が引き継ぐ?
一丸さんがいなくなったら?

全てがそうだ。後継者不足。少子化。
「唐桑」は誰が継ぐというのだ。
何が「唐桑」として残っていくのだ。

「人はいつ死ぬと思う?」(マンガ)ワンピースのDr.ヒルルクの珠玉の名言。
じゃあ一体、まちはいつ死ぬのか。

その土地が育んできた固有の風習が急速に失われ、日本が均一化されていく。
ここ100年で一気にだ。いや、ここ50年かもしれない。
これがグローバル化、近代化の答えだと言うなら、それをすんなり受け入れるほど私は利口ではない。

私には時間がある。「生きる時」だ。
だったら、私たちがやらなければならない。
今の偉い方々にはないものをもっている。偉くない私たちがもっている。
上の世代(の価値観)を単に引き継ぐことではない。古き良きの上に築く「創造」だ。
吉本師匠曰く「伝統とは革新」。
斉吉さん曰く「(生き続けるための)変化」。

地方に暮らす我々若者は、もっともっと挑まなければならない。
そう確信した一日だった。

(以上抜粋)
---

唐桑に「よそもの」として関わる覚悟を決めたのに、最近専ら守りに入ってしまった自分。
事を荒立てないように、「郷に入れば、なんちゃらでしょう」という言葉を盾に、保守的な自分と怠け者の自分がぬっと顔を出していた。

でも、唐桑で生きていくために「自分」を守って、
気付いたときにはもう時すでに遅し。海も畑も御殿も風習も言葉も残ってませんでした、ちゃんちゃん。
そんなのやんた。

やろう。

貫二先生の存在は大きかった。中区は寂しくなる。
改めてご冥福を祈りつつ、自分に鞭を入れた日だった。
入籍のご報告 [2014年04月12日(Sat)]

4月9日に入籍しました。

お相手は、学生時代一緒に中国で活動した仲間のひとりで、
19のときから5年と5ヶ月お付き合いした人です。

東京から東北に呼び寄せる形になりまして、
住居は引き続き気仙沼市唐桑町に置きます。
何分未熟な二人ですが、
まだまだ復興途上の唐桑にやっかいになります。
みなさまにはこれまで以上にお世話になりたいと思いますので、
どうぞ宜しくお願いいたします。

2014.04.09 加藤拓馬

写真 (4).JPG

(デザイナー歩さんに頂いたプレゼント)

あつしサンと遊歩道にて [2014年04月08日(Tue)]

本当に久々に、松圃地区のあつしサンと御崎・欠浜間遊歩道を歩いた。
一昨年の春〜初夏KECKARA#2を発行するころに、遊歩道を案内してもらった以来のはずだから、1年振りどころではない。去年、御崎から津波石までなら歩いたか。

あつしサンは、70代の遠洋マグロ船漁師のOB。
しっかりとした足取りでとっとことっとこ山道を進む。
おじいさん、というイメージはない。肌はこんがり黒くて背は小柄。眼はくりくりしていて、眉は黒く太い。笑うと眼と口の周りにしわがぐっと刻まれる、力強い海の男だ。
右手には遊歩道散策用の竹の杖。カモシカ出現時には護身用になるとか。あとは白髪の坊主頭にキャップ。今日は「密猟監視」と書かれてあるキャップだった。

遊歩道について。
遊歩道といっても、小綺麗な小道ではない。基本は、獣道のような山道だ。しかし、その山道の要所要所に設けられた展望台からは、リアスの雄々しい断崖絶壁、そしてアメリカ大陸まで邪魔するもののない太平洋が眼に飛び込んでくる。マイナスイオンが充満しているイメージ。
今日の水平線は少し霞んでいた。少し北に目を向けると広田半島が見える。「広田半島も椿島も霞んでいる。春だなぁ」とあつしサン。
ルートとしては、滝浜から御崎(半島の先っちょ)まで唐桑半島の東海岸を断崖沿いに走る。
本当なら北は巨釜(おおがま)まで続いているのだが、巨釜・半造間の前田浜付近、半造・笹浜間、笹浜・滝浜間がそれぞれ通行止めもしくは危険な区域があり、オススメできない。
いつか整備が進み再び開通すれば、唐桑の景勝二大スポットである巨釜の折石と御崎が一本の山道でつながる。
ちなみに、北の景勝地大理石海岸にも素敵な遊歩道があるのだが、そちらも同じく通行止め。なんとももったいない状況が続く。気仙沼の観光、リアス式海岸の体験を考えるなら、外せない2本の遊歩道なのだが。
話がそれた。

あつしサンは定期的にこの遊歩道を歩いている。
市の調査員でもあり、倒木で道がふさがれていると写真を撮って後日役場に報告に行く。

先日、市役所で今年度事業計画に行き詰まった頭をほぐすため、ぷらっと立ち寄ったのがあつしサンのお宅で、たまたま今週また歩くというので同行を願い出た。
NPO法人底上げのなるサンも同行することになった。

---

あつしサンの話はいつ聞いてもどの話もおもしろい。
「わたしらのときはね、中井小学校は1学年100人規模だったから」
は〜そんなにいたんですねェ。
「中学校いくと、宿※のヤツら(唐桑小学校)と一緒になるでしょう?」
(※宿(しゅく)地区:旧唐桑町の中心街。唐桑小学校や町役場がある。唐桑小学校と中井小学校が一緒になって唐桑中学校に進学する。)

あらら、じゃあ全面戦争じゃないっすか!と、なるサンが横やりを入れる。
「そぉさ、全面戦争よ。石投げあってねェ。
昔はね、中井小は唐桑小学校の分校だったのね。それで、ブンクソ(分校の糞)ブンクソって語られてねェ。唐桑小は宿にあったから、スークソ(宿の糞)スークソって言い返してたのさ」

その中井小も今や1学年10人規模。近い将来、唐桑小と合併することとなる。

---

椿が咲く季節。
「この花びらも食べれるんだよ。懐かしいねェ」
と、あつしサンの子ども時代のやんちゃ話が始まる。
「雨の日の後ね、椿の木に登ってね、椿の枝をおっとめて(引き寄せて)ストローでね、ストローって言っても今みたいなプラスチックのものはないからね、竹さ。竹の細いヤツ、穴っこ空いてるのでね、花っこの真ん中にこう入れて吸うのっさ。水が溜まってるんだけど、それが美味くてね!花粉で顔を黄色くしてね」

まるで虫じゃないですか…!

うぐいすが鳴く。
ホッ、ホケキョ!とまだ上手く鳴けない若いうぐいすのようだ。春の声。
「お!まだ少し下手だな。ホゲヂョ!ってね。これから上手くなるんだ。練習してるんだねェ。
すべからくして習い事は大切ということだ」わはは、と歩みを進める。

あつしサンも春を待ち望んだ一人だ。

---

歩きながら話は漁師時代の思い出話へ。
「国家試験の講習のときね、先生によく言われたから忘れはしない。
『いいか、(人に物事を説明するときは)兎糞(とふん)じゃなく、魚糞のようにつながりをもって説明しろ!お前ら、幼稚園からやり直せェ!』ってね」

トフン?ギョフン?
「兎の糞はポロポロあちこちに落ちるだろ。そんな(論理的じゃない)説明の仕方じゃダメだってことだ」
今日、クソの話ばっかりじゃないですか。

船の話はおもしろい。
「わたしぁ、なんにもせん長でした」
船長のことは「何にもせん長」と揶揄し、機関長のことは「言うこと聞かん長」と揶揄するそうだ。これには笑った。

さらに話の舞台は海外へ。
去年じゅんちゃんたちと歩いたときは、海外で銃撃戦に出くわした話をしてもらって、驚いた記憶がある。なんせこの人たちは尋常じゃない世界を見てきている。世界中の海を渡ってきたのだ。
「これはハワイの話だが…」
と、すべらない話が始まった。
「ハワイでのお土産と言えば、ハチミツだった。こんな大きい容れ物に入ったものでねェ。お土産に買って帰るんだ。
それでね、ある友人がハチミツを買おうと店に来たんだが、英語ができなくてね。
仕方ないからジェスチャーで…」

あつしサンは人差し指を出し、宙を泳がせ始める。

「ブウゥゥ〜ン。ブゥ〜ン

…チクッ」

っと口で言いながら指で宙を鋭く突き、そのまま下唇にあてて

「ペロッ」

と指をなめる。

「ってやったの!
するとね、向こうの店員さんが日本語で『ハチミツのことですカ?』って言ったんだってよ!わははは!」

爆笑。
昔もハワイではよく日本語が通じたんですね。


しょうもない話。
世界の海を見てきた男たちの笑い話。
これから先は聞けなくなる話。
今、なんとなく聞いておきたい話。

全部。

---

津波石にたどり着いた。
こんなにパワースポットという名がぴったりの場所はない。
海底から津波によって打ち上げられ、肌が真っ白になっている巨石。
古来より、津波石は海神サマとして神聖視されている例が多いとか。
写真 (1).JPG

ここに来るたびに思う。
ここは何とかしなければ。このままじゃもったいない。唐桑再興に活用できる。

改めて唐桑のポテンシャルを感じた半日。
自然。そして人。

忘れないよう記した次第である。
2014年4月5日〜3周年記念日 [2014年04月05日(Sat)]

またこの日がやってきた。
三度振り返る。

2011年4月5日−星の降る真っ暗な唐桑に到着。
後にtkmと呼ばれる倉庫スペースの前で、じいじとみっぽが待っていた。4月5日はFIWC第2陣と第3陣が入れ替わる日。2陣のゆきと兄らには会いたかったが入れ違いで会えなかった。みっぽは第3陣まで残留だった。がーがーっと発電機が唸る中、自己紹介をした。
この翌日、かじさんと初めて出逢うことになる。

2012年4月5日−ホーム(プレハブ)で事務作業。
この1ヶ月後に、からくわ丸を立ち上げることとなる。
記事「1年絶って』https://blog.canpan.info/entoki/archive/114

2013年4月5日−市役所で仕事。
就職したばかり。夜はホームで飲む。
記事「2013年4月5日2周年〜新年度ご挨拶〜」https://blog.canpan.info/entoki/archive/137

そして、
2014年4月5日−…家具の搬入。
新しい生活を目の前にして、その準備の1日になった。じゅんちゃんにだいぶ世話になった。
アパートの部屋にいたので、ホームには行ってない。

この一連の「4月5日シリーズ」。
テーマがあるとすれば、それは「変わるもの・変わらないもの」。
毎年書いている。「1年先が読めないもんだ」と。
事実、FIWCとして入って唐桑ボランティア団、「KECKARAけっから。」、からくわ丸、そして市地域支援員、と毎年何かしらの立場は変えている。

余談だが、先日とある企業の方々にインタビューを受け、この3年間の移り変わりをこう評していただいた。
「状況の再定義や自己の役割の再定義を頻繁に実施していることで、彼の場合はボランティアから次々とステージを変えていっている。俯瞰的に見て再定義し、実践的に行動することの実例を彼の言動に見ることができる。」
いやいや「結局3年間フラフラしてる」という事実を、こうも格好よく表していただけるのだがら、有り難い。

今年の4月5日も、1年前には全く予測できない状況となった。

一方で「変わらないもの」がこの3年間で生まれてきた。
それはここ唐桑。
1年後どういう立場になっているのかは分からない。でも、やっぱり唐桑町馬場で唐桑の人と相も変わらず呑んでいるということは変わらないだろう、と確信に変わってくる訳で。

---

私の唐桑での生活もいよいよ4年目に入る。
従来の生活・活動もいよいよ次なるステージへの過渡期に入る。
「ホームからの卒業」が待っている。

何が変わりゆくもので、何が変わらざるものなのか。
そろそろしっかりこの3年間を振り返って言語化しなければ。
来月・再来月と都内で講演が待っている。

…とりあえず一番の「変わったもの」は、今日をもって私の部屋が禁煙になったことでしょうか。

−2015年4月5日につづく
平成26年4月1日の挨拶 [2014年04月01日(Tue)]

おはようございます。
平成26年度が始まりましたねェ。

私は引き続き―
気仙沼市 震災復興・企画部 地域づくり推進課
地域支援員 担い手育成支援事業担当
として気仙沼・唐桑の地域づくりに邁進します。先ほど辞令を頂きました。

また、昨年度1年間非常勤として勤めました「気仙沼まちづくり支援センター」を退職致しまして、
今年度から再び「からくわ丸」の事務局活動を強化していきます。

相変わらず何足もわらじを履いているのですが、
新しい試みにも取り組んでいく1年になります。
どうぞ活動の行く末をお楽しみに。…しつつ、見守ってくださいね。
よろしくお願いいたします。

姫路の家を出て、7年が経ちました。節目の春がやってきます。