• もっと見る

« 2012年03月 | Main | 2012年05月»
検索
検索語句
<< 2012年04月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
最新記事
カテゴリアーカイブ
タグ
月別アーカイブ
リンク集
プロフィール

加藤拓馬さんの画像
最新コメント
https://blog.canpan.info/entoki/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/entoki/index2_0.xml
リアス唐桑食と地域の絆づくり協議会HP [2012年04月17日(Tue)]

「リアス唐桑食と地域の絆づくり協議会」のHPが新設されました。
私も最近知った組織です。

どうぞご覧ください。
「リアス唐桑食と地域の絆づくり協議会」
http://ww2.tiki.ne.jp/~riaskizuna/
宿の今 [2012年04月17日(Tue)]

宿(しゅく)地区は、唐桑の心臓部。
役所、消防、漁協、商工会などなどがあり、スーパー、コンビニもろもろお買い物にも必須。
外海(太平洋側・広田湾側)と内海(気仙沼湾側)と両方に面しており、震災時は砂子浜(外海)と宿浦海岸(内海)から地区を挟むように津波が押し寄せた。前者は馬場の郵便局まで達し、後者は宿浦の旧唐桑小跡地のすぐ下まで達した。

数日前から被災してそのままだった交番の撤去が始まり、今日見るとキレイになくなっていた。
これにて、馬場で被災してそのままの家屋・施設がとうとうなくなった。

ローソンは再開した。(参照記事:「8月6日オープン」)黄色い車が屋根に載ったコメリはセブンイレブンになった。ホーマック進出のウワサもあったが、まさかの唐桑第二のコンビニが、ローソンの目の前にできた。
(ちなみに、その直後ローソンは大沢でもオープンして、今は唐桑にコンビニが3つある。「ここらは真っ暗になっておっかなかったから、ローソンができてよかったのよ」と大沢の在宅の人は話す。)

砂子浜のかわむらとヤマカの二大加工場は、震災後早くに再建された。
セブンの隣には、夕市の小屋が建設された。
ローソンの隣の鈴木オートは再開、その隣の薬局は解体。その隣の山本スタンド(JOMO)は、唐桑商会の創業とともに昭和シェルになった。そのお隣の国昭さん宅は解体。
向かいのお菓子の花子は再開、隣の車屋も再開。向かいの小松屋さん自宅は新築された。自宅の再建は、ここらで一番早かった。隣のフードセンターは震災直後から営業再開している。
ちなみに、役所前の通りには、キッチンひがしやまが開業した。唐桑で唯一中華料理が食べられるお店。

そして、ローソンの前に信号機が新設されたことも震災後の大きな変化。小学生の通学路なのでその点安心なのだが、まさか馬場で信号待ちの車の列を見るとは想像してなかった。
馬場は夜も明るくなった。未だにあの真っ暗な馬場をときどき思い出す。
そして、最後にローソン隣の交番が解体。

今、津波を思わせるのは小学校下まで打ち上げられた砂子の船くらいか。そうなると貴重な存在に思える。
宿にはまだまだ使われていない土地が多く、今後の発展に期待がかかる。夕市を発展させて、立派な産地直売所でもできれば、地元経済も観光客も喜ぶのになぁ、と想像してみる。
海の幸、家庭菜園野菜、果物、地元のおばちゃんたち自慢のお惣菜、お土産グッズなどが並び、人の出入りが絶えないお店。唐桑の観光を満喫した後に気軽に寄れるスペースにもなる。新たな雇用も生まれる。

宿の活用法は是非町民をあげて考えていきたい問題だ。わくわくすること間違いなしだ。
蟷螂か蜘蛛 [2012年04月15日(Sun)]

活動記録である遠東記を整理していると、未公開のままのこんな記事が見つかった。
9月に書いたものだった。
全ての活動が、真逆の2つの結果を両立させる。「矛盾」による葛藤。炊き出し、物資、イベント、仮設住宅支援、高台移転、そしてまちづくり自体も。
そんな気がして悶々としていた頃だ。

---

夏の終わりを感じさせる夜。

ぶおっと何か宙を舞い、クモの巣にかかる。大きめのカマキリだった。
カマキリがもがく。
とっさにカマキリを助けようと、なんとなく手をのばす。巣の主がさーっと逃げる。
…なんとなく手をとめる。

カマキリを助けると、カマキリは助かる。当たり前だ。カマキリに感謝されるかもしれない。
ただ、クモには「こんちくしょー」と言われるだろう。
いやそれ以上に、クモにとっては久々の獲物かもしれない。最近、エサがとれなくて死にそうな状態かもしれない。念願のメシ。それを、オレがぱぱっと取ってしまっていいものか。
一方、カマキリにも今死ねない事情があるかもしれない。これから出産かもしれない。

「あぁカマキリが可哀想」という薄っぺらい気持ちで、手を出すのは簡単だ。ただ、両者ともに生死に関わることだ。
そもそも、クモは気持ち悪い見た目?だから、「悪役」という偏見がそこに働いている。

しばらく、そこで悩み込む。

どちらかに肩入れすれば、どちらかのひんしゅくを買う。どちらかの正義は、どちらかの悪になる。逆も然り。
何かが絶対的に正しい、なんてことは絶対にない。

これは、私がこの半年ここ被災地で学んだことだった。
Webマガジンに出ました [2012年04月08日(Sun)]

Webマガジンgreenz.jpにKECKARAが取り上げられました。
どうぞご覧ください!コメント待ってます。

「greenz.jp」
http://greenz.jp/2012/04/07/keckara/


KECKARA#1をネットで読むには、こちらからどうぞ!
http://hiraku-project.net/product.php

1年経って [2012年04月05日(Thu)]

2011年4月5日。
真っ暗の284を走り、そのまま「からくわ」がどこかも分からず、市街地に迷い込んだ。
なんとか唐桑町馬場に辿り着き、空き地のようなところに車を停める。
何かが始まる予感でいっぱいだった。
車を降りると、満天の星空…という言葉では言い尽くせないほどの星に迎えられた。
思わず声が漏れる。馬場の電気が復旧したのが4月6日だったから、星々はなんの人工の光にも邪魔されることなく輝いていた。

2012年4月5日。
朝から、拠点のプレハブでKECKARAの会計の整理をしていた。
あの日車を停めた場所辺りにプレハブを建てたので、つまりこの今座っている場所が、ちょうどあの日車から降りた場所だ。
あの日、1年後を想像することは絶対無理だった。夏ごろには東京に帰るつもりでいたのだから。
先が読める人生もいいが、1年先すら読めない人生も悪くない。まぁまだ若いからね、と自分で言い聞かす。

今日、住民票をこちらのアパートに移した。
総合支所の受付をしてくれた方は、ガレキ撤去の作業で知り合った小原木の方だった。
「えぇ!本当にですか?」と口を覆う。
住民票を移して、こんなに驚かれることももう人生でないかもしれない。
東京で免許を取りたかったから、実家から東京に移しただけの住民票なので、住んでいない東京に置いておいても仕方ない。

という訳で、「期間限定気仙沼人」となった。

---

唐桑の方々へ

この1年間、ボランティアとは名ばかりで、数えきれない唐桑の方に激励を受けながら、活動を続けてきました。続けることができました。

ありがとうございました。

これからは、先の見えない「まちづくり」。
誇れるまちをつくっていきましょう。

私は1年後、どこで何をしているのでしょうか。
今はなんとなく見えます。きっと、ここらへんで相変わらず唐桑の人と呑んでいるのでしょう。
よろしくお願いします。