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夢の夏祭り(追伸) [2011年09月29日(Thu)]

つづき

お盆祭りは続く。
唐桑のボランティア団体総出で参加。
15日、中井地区お盆祭り。サポート役はFIWC。
15・16日、小原木夏祭り。サポート役は、SVA・RQら。
16日、崎浜地区お盆祭り。サポート役は、ひのきしん。
16日、鮪立地区灯流会。サポート役は、T-ACTら。

8月で撤退が決まっている花堂監督らT-ACT。宮崎県民が中心である。
この16日が、彼らの最後の大舞台である。宮崎から応援が駆け付ける。

鮪立が薄暗くなってきた。漁港付近のガレキのど真ん中には、あのピラミッド型のキャンドル台が据えられていた。
鮪立地区で例年行われるお盆の灯篭流しは、今年はやむなく中止。それを知った花堂監督は、代替イベントとしてキャンドルアートを提案した。そして地元の人とその企画を進めた。

海岸沿いの堤防には、無数のペットボトルキャンドルが、ずらーっと並ぶ。
ガレキと化した町中の到る所にも、キャンドルが並ぶ。
夕方から夜にかけて満潮を迎える鮪立は、地盤沈下のせいで町中が冠水する。
(参照記事「地盤沈下」)
故に、散りばめられたキャンドルは水に浮いているように見える。

陽が沈むころにFIWCやRQも駆け付けた。

---

イベントが始まり、遺族による献花が行われ、黙祷。その黙祷の間に点火。
小さな小さな光が、鮪立に広がった。





町中に設置された灯りは、町を侵す海水に反射し、上にも下にも広がる。
宮崎から来た精鋭チームは、廃墟と化した区画、冠水する区画、電気のない区画を逆手にとり、アートに変えたのだ。
その試みや最早あっぱれ。

---

私はこれらの夏祭りを通して、二人のバカな男に出会った。
歌手リオと花堂映画監督。
二人とも共通してアーティストだから似ているのだろうか。まず、夢を描き、それを語る。おおよそ実現しなさそうな話だ。それ故、「夢」と表現したくなるのかも。

「唐桑中を巻き込む祭りで、花火を上げたい。皆で歌いたい」
「町中を鎮魂のキャンドルでいっぱいにしたい」

彼らは、自ら語る夢を誰よりも頑なに信じ、頑なに突っ走る。
その際、ひとりで突っ走るのではなく、周りをぐいぐい引っ張るのだ。
そのコツは、その夢が何よりも魅力的なこと。当人がもちろん率先して走り回ること。そして、誰よりも当人がピュアであること。
それ以外にもあるだろうが、私はこの3つのコツを学んだ。

「当日が近くなってから、“キャンドル台をつくってほしい”と監督から連絡があったときは、さすがに“この人は直前に何を言い出したんだ”と思ったよ」
T-ACTのメンバーたちが、西郷を思わせるような九州弁で苦笑いしながら話す。
当の監督は大笑い。
「監督は大バカやね」
この一連の祭りの打ち上げで酒を交わしながら、私は監督に言う。

そのピュアさを、勝手に私は「バカ」と称して尊敬している。

---

「結局できませんでした」は通用しない。失敗が称賛されるのは学生時代の特権だ。
かつて、気仙沼高校ダンス部の引退イベントを打ったときに、進さんに怒鳴られたことがある。
イベント準備に追われ、潰れかけそうになっていたときだ。

「人助けなんてものは簡単じゃない。
その人の役に立ちたいと言って、赤点とるようじゃやらない方がマシだ。
ボランティアは100点が当たり前なんだ!
だったら200点目指してやれ」

ボランティアこそプロであるべきなんだ、とその時改めて思い知った。
無給だからアマ扱いになると思ったら大間違いだ。とんでもない迷惑ボランティアになる。

「その人のためになりたい」。
その想い・行動は、金銭関係を超え、ときにその人の人生に関わる。
その一大事に、当の本人はボランティア=アマ気分じゃ吊り合うものも吊り合わない。

中国のハンセン病快復者支援、然り。

だから、多少企画規模の縮小拡大はあろうと、そのプロジェクトを最後の最後までやり抜くボランティアは、なかなかいないし、スゴイ。
最早「ボランティア」とは呼びたくない。この言葉はやっぱり好きじゃない。

---

長かった「夢の夏祭り」シリーズは、ここで終わりです。
リオ、監督、そして皆さん、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。
夢の夏祭り(後編) [2011年09月28日(Wed)]

つづき

こちらはテント裏。陽も落ちた頃。
「唐桑ボランティア団を代表して、最後閉会の挨拶することになった」
とちぎVネットのキミピーに話す。
「うん、じゃあたくま一人よりボラ団の皆ステージに上げた方がいいんじゃない?」
こうして、急遽秘密裏に“閉会式でボランティア全員ステージに上げるプロジェクト”が始動した。
キミピーがすぐに各団体のブースを回って、呼びかけをしてくれる。
いよいよ大事になってきた。
珍しく原稿を書く。

---

リオの歌が終わるとともに、FIWCのメンバーがぞろぞろとステージに上がる。
ソーラン節だ。
かつて、私とFIWCという団体を繋いだのは、中国キャンプのソーラン節だった。
今回、中国で一緒にソーランを踊った仲間たちも来てくれた。ゆうたと二人、ステージ上のセンターに並ぶ。
みなみはステージ下の先頭に立った。

リオの「構え!」の合図でソーラン節が始まった。
このイントロを聞くといろいろ思い出す。中国でワークキャンプをする度にソーラン節を踊った。
中国の村人は、この日本の踊りが何よりも好きだった。そんな私はこいつを踊る時間が誰よりも好きだった。高揚していくソーラン節は、人をつないでいく。
満場の拍手に包まれた。

---

来場者の足が海の方を向く。
私たちも息がまだ上がった状態で海が見えるところまで、急ぐ。
ドーンっと、校舎の裏から音がする。足はさらに速くなる。

唐桑の砂子浜に花火が上がった。

「75発までなら無許可で上げられる」
この情報により、地元の人の協力で花火が実現した。
大勢の人が校門付近から、砂子浜の夜空を見上げる。

「…ホンマに上げよったわ」思わず顔がほころぶ。

---

閉会式となった。花火を見終わった人たちがステージの前へ徐々に戻ってくる。
予想外だ。花火を見て、そのまま閉会式なんて見ずに帰ってしまうだろう、と思っていたのだが、100人から200人はいるだろうか。
私は高登さんの紹介を受け、ステージに上がる。
逆光で校庭がよく見えない。自分がお世話になった地元の人はまだいてくれているだろうか。
「ボランティアの方、(ステージの上に)上がってきてもらっていいですか」
キミピーが声をかけてくれた各団体のボランティアが集まる。ステージは人で溢れた。

まず簡単に唐桑ボランティア団の紹介をする。
その後、唐桑で活動する魅力を話す。

せっかくの機会だ。こんなに大勢の唐桑人の前で話す機会など、後にも先にもないだろう。どうせなら本音をぶちまけてやろう。上っ面の挨拶なんて面白くない。
「唐桑に入って4ヶ月が経ちました」
と、そこでマイクが切れる。あちゃー。誰かが気を利かせてくれて、拡声器を渡してきた。学生運動か何かのデモ集団のようになってしまった。
拡声器に大声を吹きかける。

「ボランティアといえども聖者聖人でないので、いろんなことを日々悩みながら、時に地元の方のお叱りを受けながら、活動しています。
ここからは正直な話なんですが…
でも、もうこれからはボランティアだけでは、復興活動は限界があると思ってます。

欲を言えば、
これからは、「ボランティア」そして「被災者」、こういう言葉を捨てたいなと思ってます。唐桑のためにやってる訳ですから両者に違いはないはずです。私たちも地元の人に支えられて毎日活動してます。
だからこうやって私たちだけがステージに立つのは、今日で終わりにしたいと思っています。
私はそう思っています」

リオがステージ下で、両手をくるくる回している。(まいて!まいて!)
だがもう既にこの状況に酔っていたおバカな私は気にもならない。

「唐桑をひとつにしたい。
こんなときだからこそ、気持ちをひとつにして歩んでいきたい。
地区は関係ないです。仮設も在宅も関係ないです。
その想いでこのお祭りが開かれました。

だから宿地区のお祭り、中、中井、鮪立、そういった(地区ごとの)お祭りを私たちがお手伝いする意味はあまりないと思っています。
だから今日、唐桑中から集まってくれた皆さんに心から感謝したいと思います。
これからもよろしくお願いします。
明日からも、がんばっつぉー唐桑」

お祭りが終わった。
いろんな人と抱き合った。本当にいろんなメンバーのパワーが集まった。
そのくせ、最後だけ出てきてスピーチしたことがどうしても恥ずかしい。
地元の人からもいろんな感想を聞く。
「本当にありがとね。本当に感動した。明日から、たくちゃんはオレの“友だち”だ」
“ボランティア”から“友だち”になった。こんな素敵な言葉はない。
「元気をもらった。ありがとう」

そして、リオと夢見たセリフを、いろんな方から聞いた。
「唐桑でこんな大きな祭り、今までなかったよ」

一瞬でも、唐桑はひとつになれたかな。

---

翌日、三陸新報に各地域の祭りが報じられる。
その中でも唐桑がトップに載る。松圃虎舞の梶原さんが写真の中で虎と舞っている。



実際、気仙沼、本吉、唐桑など13日の祭りの中では、唐桑が一番大規模だったという。
がんばっつぉー唐桑・夏祭りの来場者数は5000人と実行委員会が発表。

ここまで駄文に付き合って下さった方、ありがとうございます。
お祭りの様子は「からくわ放送局」に出てます。どうぞ。
http://www.karakuwa-ocean.org/
YouTubeはコチラです。
http://www.youtube.com/watch?v=35dVXSTD1pY

もう少しつづく
夢の夏祭り(中編) [2011年09月27日(Tue)]

つづき

リオの動きは凄まじいものになってきた。
毎週末、祭りの打ち合わせのためだけに唐桑にやってくる。夜、唐桑を出て独りで高速を走り、次の日の朝には、東京で仕事だという。

リオの仕事はポスターづくり。どうやら花火の手配も進めているらしい。本当に花火なんて上がるのか。
一方、進さんは復興イベント用の口座開設。花火はじめ、イベントに掛かる費用のカンパを募集する。

私の仕事は、気仙沼高校ダンス部、松圃虎舞に出演依頼を出すこと。(参照記事「松圃虎舞」)
唐桑ボランティア団を通じ、各団体にブースの出店を依頼すること。
中国キャンプの十八番、ソーラン節の指南役。

やがて完成したポスターとチラシが届く。



シンゴ、トミーが高登さんと当日進行の打ち合わせを重ねる。
各ボランティア団体を集めた全体会議を総合支所にて行う。
高登さんが当日の無料シャトルバスの手配を組む。唐桑の北から南まで、車で来れない人はバスで来場できるようにした。
半島の先から北の端まで、商店などをリストアップし、みっぽたちが唐桑中にポスターを貼ってまわる。
FIWCのメンバーひとりひとりに役割があり、その仕事量は日に日に増すので、ついでにストレスも増し、なんだがバラバラになっていた。かじサンやかおりサンが「なんか最近雰囲気悪いね」と心配する。
気づけば8月になっていた。

---

花堂監督率いるT-ACTは着々とキャンドルアートの準備を進めていた。
8月10日、鮪立の児童館でワークショップを開催。子どもたちが風船を鍋いっぱいのロウにつけて、ちゃぷちゃぷする。それを延々と繰り返し丸いキャンドルをつくる。
それを横から眺めるだけの私。

11日、いよいよ港・けせんぬま復活祭が幕を開ける。
14時46分、鮪立の現場で震災5ヶ月を迎え、放送で黙祷とともに市長が祭りの開会を告知する。
夜はいよいよライトアップニッポン。被災地で一斉に花火が上がる。リョータ、みっぽ、シンゴと車をとばし、焼失した鹿折(ししおり)地区へ。
鹿折のガレキの向こう、大川河口に華が咲く。華が夜の海に映る。それを蚊にさされながら見ていた。気仙沼がまた一歩、歩みを進めた気がした。

12日。
みっぽがうぐいす嬢デビュー。選挙カーで役所の人と一緒に唐桑を行ったり来たりする。
「8月13日13時より…唐桑小学校にて…がんばっつぉー唐桑・夏祭りを…」
一方会場では、唐桑ボランティア団が集合し、当日の設営準備をする。

夜。
FIWCの面々がいよいよ集結。役割分担表が配られ、リオが当日の段取りを説明。スーパーサポーターのみどりサンがリオを支える。
私は別件で電話が入っており、プレハブの外にいた。
結局最後まで、細かい作業は皆に任せっきりだった。

「何もしてなくてゴメンね」リオに言う。なんだか恥ずかしい。
「なーに、たくまがいたからさ」リオは疲れ切った顔で言う。
「唐桑の歴史に残そうぜ」
グーをこつんっと交わす。

(祭り企画するんはいいけど、オレに全部調整役をフるのはやめてな)
かつてリオに吐いたセリフを思い出していた。

高登さんに、当日の閉会のスピーチを依頼される。唐桑ボランティア団を代表して。
自分にできることがあった。それを精いっぱいやろう。

---

8月13日。港・けせんぬま復活祭最終日、各地区でお祭りが同時開催。
(気仙沼の方では、キマグレンが来るらしいよ。)他地区の祭りの情報が入ってくる。

ここは、唐桑小学校グランド。
進さんがステージに立ち、祭りの開幕を盛り上げる。「がんばっつぉ〜〜」と叫ぶ。
グランドを囲むようにズラリとボランティア団体、地元コミュニティの屋台が並ぶ。ステージには、大漁旗がなびく。ステージ前には、丸テーブルとイスが並んだ。
なんと市長が来て、挨拶をする。こうして「がんばっつぉー唐桑・夏祭り」が始まった。

リオ、みどりサンがインカムを片手に忙しそうに走り回る。総合司会は高登さん。本部席には、進さん、高登さん、シンゴ、私、あとビール。馬場さんも気になってか本部であれこれアドバイスをくれる。リオと運営を進めてきたかおりサンも本部周辺でサポートしてくれる。
Gakuvoメンバーが駐車場案内をしてくれる。

リオが開会セレモニーで熱唱。
続いて松圃虎舞。さよと私が出演。大太鼓の2列目ど真ん中で叩く。
虎が梯子の上で舞い、不意に風がごーっと吹き抜ける。叩きながら音に酔いしれる。

ステージ上でライブパフォーマンスが続き、気仙沼高校ダンス部2年生も登場。引退した3年生も見に来てくれた。
郭ちゃん率いる大学時代の先輩たちも祭りに駆けつけてくれた。ステージ下、ステージ上でどんちゃん騒ぎしてパフォーマンスを盛り上げる。楽しい雰囲気づくりならピカイチの集団だ。
気仙沼のマスコット、ホヤぼーやも踊る踊る。



宿地区の太鼓。馬場家の孫娘たちも出演。一番後ろの列で叩くえいかが気になるのだろう、馬場さんがステージ後ろの大漁旗の間から顔を出し、えいかのおしりをじっと見守っている。こちらは思わず噴き出す。

グランドを回っていると、いままで知り合った地元の人に声をかけられる。本当にいろんな人が来てくれた…



13時に始まった祭りだったが、あっという間に陽が暮れる。
辺りが暗くなるにつれ、閉会のスピーチも近づく。私の緊張も増す。
ライブパフォーマンスは続く。ジャズ。シャカリキのダンス。高登さんのビール片手の司会も熱が入る。「ではアンコーーールをお願いしますっ!」
本当に自由な祭りだこと。

---

献花台に暖かい灯が燈る。花堂監督のキャンドルたちだった。
花堂監督は、立派なキャンドル台まで用意。ピラミッド型にキャンドルが並ぶ。
地上にもキャンドルが並ぶ。
その灯りが最後の演目を幻想的に映し出す。リオと仲間たちのライブだった。



最後の曲は「愛はひとつになる」。
歌詞カードが配られる。
みんなキャンドルの傍にしゃがみこみ、歌に聞き入る。歌を口ずさむ。

(「愛はひとつになる」を唐桑のみんなと歌いたい)
祭りにかけるリオの夢だった。

〜人は悲しみの度に強くなれる
  どんな時もひとりじゃない
 ありったけの声に想いをのせて歌おう
  歩いてく 歩いてゆこう〜

(YouTube http://www.youtube.com/watch?v=8QjpCKu5dP4

「ごめん、私もうダメだー」と、ぶわーっと泣き出すかおりサン。リオのこの夢を一番応援してきた人だ。
みんなの眼にも涙が溜まる。それをキャンドルがチラチラと照らし、みんな眼をキラキラさせているようだった。

きっとリオは、今最高に気持ちいい瞬間を迎えているだろう。
ありがとう。

後編へ
夢の夏祭り(前編) [2011年09月17日(Sat)]

9月3日、夏祭り打ち上げ。
実行委員の進さんが挨拶をする。
「“生きる力をお互いに創ろう”、その手段としての祭りだったと思います」
続いて、馬場さんの挨拶で乾杯。

---

主役は、水島“RIO”亮。ツルっぱげの歌手リオだ。「愛はひとつになる」を唄う。
(参照記事「「愛はひとつになる」」)

あれは6月だったか。「唐桑で大きな夏祭りをやりたいと思う」リオにそう相談された。
私はというと、気高ダンス部の引退イベントを終えたばかりで、全く乗り気ではなかった。
「いいアイディアやけど、結局現地滞在しているのがオレやからって、オレに全部調整役をフるのはやめてな」
そんなことまで言っていた。今思えば、酷いセリフだ。
「それは、分かってる。たくまに迷惑はかけない」

「愛はひとつになる」を唐桑の人みんなと歌いたい。
唐桑のみんなを元気づけるために、花火を唐桑で上げたい。リオの描く夢があった。

一方、夏祭りを盛大にやりたいと考える男はリオだけではなかった。
もう一人、T-ACTの花堂氏。本業は映画監督。
花堂監督は、キャンドルアートを考えていた。
「風船をロウに浸けて、固める。そんで風船を割ると、丸いキャンドルが完成する。その中に、火を灯すんだ。幻想的な灯りだ。みんなでワークショップで作るんだ。それを祭りの日にいっぱい並べる。小樽にその技術がある。…」
唐桑のマドンナ宅で、熱く語る監督。監督の描く夢だった。

私にすれば、どちらも実現しなさそうな話だった。
リオは、地元の進さんとタッグを組んで、打ち合わせを始めた。リオは、現地にずっと滞在している訳ではないので、東京唐桑間を行ったり来たりだ。そのせいか、あまり話が進まない。
花堂監督も、同時進行で他のことをいろいろやっていたようなので、祭りの話は進んでいない様子。
「それぞれバラバラに夏祭りをやってもらっても、どちらもポシャる可能性がある」
と思い、リオと花堂監督を会わせる。「連携してやっていきましょう」お互い初対面なので、どこか硬いカンジで打ち合わせが終わる。ヒヤヒヤした。

おっくうだった私も、ようやく気持ちが入りだした。
「震災後数ヵ月でバラバラ感が浮き彫りになった唐桑。その唐桑の心をひとつにするようなイベントにしたい」そんな想いをリオと花堂監督と共有した。
(参照記事「ミックスジュース」)
そんな始まりだった。

---

日程は8月13日あたりかなぁ、と想定。
7月になり、「がんばっつぉー唐桑手ぬぐい」(参照記事「がんばっつぉー唐桑」)が唐桑で大ヒットしたので、それを引用して「がんばっつぉー唐桑・夏祭り」という名前にしようということになった。
地元の進さんと高登さんとの打ち合わせは進む。
主催はどうする?ボランティアがメインになるのは、よくない。夏祭り実行委員会を立ち上げよう。地元の人をもっと巻き込もう。
会場は?海沿いは難しいらしい。じゃあ唐桑小学校のPTA会長に協力を求め、唐桑小学校のグランドを借りよう。
以上のことが決まった。

話が急展開したのは、7月中旬ころ。
気仙沼で大きなプロジェクトが動き始める。
例年あった気仙沼の夏祭り「みなとまつり」。その代替イベントをやることになったのだ。
その名も「港・けせんぬま復活祭」。
日程は、8月11日〜13日。
3日間にはそれぞれテーマがあって、11日は「追悼」、12日は「祈り」、13日は「復興・感謝」。

さらに、企画がリンクする。
ライトアップニッポン。
被災地で8月11日に花火を同時に打ち上げる、という企画があった。
岩手県の被災地を中心に名を連ねていた。気仙沼市は最後の最後にこの企画に乗ることとなり、復活祭の初日11日に合わせることとなった。

この復活祭、11日は気仙沼がメインとなってやるのだが、13日は各地域で勝手にやってくれ、というスタンスだった。候補地として、旧市外である本吉地区や唐桑地区が入っていた。
進さん、リオ、私はそこに目をつけ、喜んだ。
「13日の地域イベントと、がんばっつぉー唐桑・夏祭りを合致させよう。そしたら、復活祭からもお金が少し出るし、みんなを巻き込みやすい。日程も想定していたのとピッタリだ」

FIWCの拠点プレハブの前で、暗がりの中、リオが唐桑に来る度に打ち合わせをした。
リオがいない間は、トミーが代わりを務めた。

そして、あの7月19日がやってくる。

---

7月19日、唐桑ボランティア団の代表定例会にて、各団体に夏祭りの協力を求める。
その足で市役所唐桑総合支所に向かう。
2階に上がると、唐桑の行政区の各自治会長がずらりと並ぶ。顔見知りも何人かいる。
前には進さん、高登さん、リオが座っている。その横に座る。

唐桑町自治会連絡協議会。
従来、唐桑では各地区ごとにお盆祭りを開くのが習いだった。しかし、今年はその力を一ヶ所つまり「がんばっつぉー唐桑・夏祭り」に結集してくれ、という趣旨の説明をする。
「復活祭に併せ、唐桑でも夏祭りを開催しようと考えています。各地区の協力をお願いします。汗をかく部分は、ボランティアがやりますので」
主催、夏祭り実行委員会。共催、唐桑ボランティア団。進さんが説明する。

「実行委員ってのは何?」「要するに、貴方たちに任せればいいんだろ?」う〜んとうなる会長たちから質問が飛んでくる。
地区ごとに被災状況は全く異なる。
「ウチほは、お盆祭りやるよ」「ウチは、今年は祭りは無理だなぁ」

会議は進む。
「じゃあウチの地区は、その夏祭りに併せてしまおうかな」夏祭りができない地区は、8月13日に乗っかることに。
夏祭りを開催する地区も、13日には被らないようにしてもらう。

「では、8月13日に地区を越えたお祭りを一発やります。各地区で盆祭りやる場合は13日以降各地区でやってもらう、という形にしましょう」
「はい、お願いします」会長たちが頷く。
後援という形で、自治会連絡協議会が企画にハマる。

会議が終わった後、跳んで喜ぶ。
唐桑が動くぞ!地区が結集するぞ!リオとがっちり握手する。
「リオのおかげだ。本当にありがとう!」
リオはそれをすんなり否定する。本当に謙虚な男だ。

進さんの仕事は驚くほど早く、唐桑の夏祭りは正式に「港・けせんぬま復活祭」の一部となった。
こうして、「港・けせんぬま復活祭 がんばっつぉー唐桑・夏祭り」という名の船が走り出した。

つづく
続・ツナカン物語 [2011年09月15日(Thu)]

つづき

わいわいと仲間内でこの新たな拠点のニックネーム、屋号を考える。
ホワイトボードに候補が挙げられる。
「キャンプ○○」だとか、「ホテル○○」とか、「スナック○○」とか…
「鮪立(しびたち)の基地だから、“ツナ(鮪)スタンディング(立)”ってどうよ。横文字でいこうや。ツナスタ!」
マドンナは菅野氏なので、「かんの」は入れたいよねぇ。
すると、地元の高校生がポツリと、
「ツナカンは?」
「…ツナ缶?…あぁ〜なるほど!」
鮪立の菅野家で、ツナ(鮪)カン(菅)。

---

マドンナが言う。
「ボイラーがあれば、お風呂に入れるんだけどなぁ」
写メールの仕方が分らないというので、私が代わりにボイラーの写真を撮り業者に送る。同じ型のボイラーを格安でお願い!とマドンナが交渉してくれる。
ガスは、カセットコンロでOK。
1階がリビング兼キッチン、2、3階は寝室。20〜30人は寝れるキャパの広さ。
3階に御座を敷く。ベッドも3台ある。
これで、全て整った。

8月10日夜、Gakuvoの学生が到着。
ツナカン、オープン!
「皆さん、ツナカンへようこそ!」

真っ暗な鮪立の海岸沿いに、若者の笑い声と灯りが咲いた。

マドンナはすぐ裏に住んでいるので、しょっちゅうツナカンに顔を出してくれる。前を通りすがる地元の住民も、「今度は何人来てたの?ご苦労さまね」と声をかけてくれる。
ツナカンの名も定着した。

---

マドンナから早朝まだ薄暗いころ電話が入る。
「お義父さんが亡くなってね。ちょっと忙しくなるから、今日カキはお休みね…」
旦那さんのお父さんが亡くなる。
マドンナにお世話になっているボランティアは、FIWCやGakuvoだけではない。カキ養殖のお手伝いなどでRQともつながりがある。また、唐桑で有名な家だ。大きな報せとなった。

後日、ある地元の人がツナカンの話をしてくれた。泣きながら。
6月、マドンナを私たちFIWCに紹介してくれた人だ。

「おじいちゃんが調子悪いのは聞いてたけど…」
声は涙で震えている。
「あの家は、おじいちゃんが大好きな家だったから、だから被災しても、またおじいちゃんが帰ってこれるようにって、おばあちゃんと(マドンナが)2人だけでガレキ出しとか、家の片付けをしてて…
でも、やっぱり人手が足りなくて。だから見かねて…私はFIWCのことを紹介して。
でも、おじいちゃんはもういなくて…」

私は眉間にしわをつくって、その話を黙って聞くしかなかった。何も言えなかった。
何も知らなかった。
「家」。人の家を借りるってことの重大さを考えさせられた。
感謝の意は足りていたか?被災した家だからって、軽々しく「貸してください」って言ってなかったか?今いる学生は、それを知っているのか?わいわいやってていいのか?
家には、歴々の家主の想いがたっぷり詰まっているんだ。
単なる箱モノなんかじゃない。きっといろんな夢が詰まってるんだ。

マドンナはそんな悩みを吹き飛ばすように、変わらず明るく言う。
「おじいさんは、賑やかなのが好きだったから、きっと喜んでるよ!」

引き続き、学生ボランティアはツナカンに入ることとなった。今も鮪立のガレキ撤去をしてくれている。

菅野さん、本当にありがとうございます。
ツナカン物語 [2011年09月14日(Wed)]

鮪立に「唐桑のマドンナ」がいる。
カキ養殖業の奥さんで、とてもエネルギッシュだ。
3階建ての立派なお宅は、3階まで波を被った。今はそのすぐ後ろの家を、これもまた波を被ったのだが、新たな住み家としている。

3階建ての家で作業し始めたのは、6月の頭。ある人の紹介でニーズを知った。
はじめ現場に入ったのは、シンゴ。
「唐桑のマドンナには会った方がいいよ!」シンゴがそう興奮気味に語るのを、今でも覚えている。
作業内容は、水を吸ってゆがんだ天井はがしや、床下に石灰を撒いて消毒。
馬場家のカツモトさんと亮太と3人で、作業に行ったりした。マドンナも加わって4人で床下に潜り込んで、石灰で真っ白になった。
天井は、バールで下から突き上げるようにドスドスっと周囲四隅を浮かし、ぶら下がってバリバリとはがす。ドカンっと天井が降ってくる。メットをしてなかったら、悲惨なことに…

「わー、キレイになった!キレイになった!」マドンナに褒められ、またやる気を出す。
昼メシには、初めてマンボウの刺身を食わしてもらった。

GakuvoやIVUSAにも片付けをしてもらう。
みな、マドンナのパワーに圧倒され、マドンナのトークに爆笑し、力をもらった。
徐々に家がキレイになるにつれ、マドンナが言う。
「この家は一度はもう取り壊そうかと思ったけれど、みんなにキレイにしてもらって、取り壊すのがもったいなくなってきた」
3階まで波を被ろうと、家の基礎や柱に問題はなかった。すごい家だ。

「私には夢ができた!いつか将来、ここを改装して、手伝ってくれたボランティアさんたちが帰ってこれるようにするの。そのときは、私がカキなり何なりを御馳走するわ。泊まってもいいし、休憩でもいいし」
ボランティアに恩返しする場所にしたい。帰ってこれる場所にしたい。みんなが集まれる家にしたい。
「それ、絶対やりましょう!みんな、唐桑に帰ってきますよ」

そのうち、鮪立地区で作業する際は、マドンナの家に休憩しに行くようになっていた。
作業中に津波注意報が出たときは、皆で避難しにいった。

---

それから1ヶ月は経っただろうか。夏休み目前。マドンナに相談しに行く。
「この夏は、学生はじめたくさんのボランティアが来ます。この3階建てで、寝泊まりできるようしませんか」
旦那さんやマドンナは快諾してくれた。
これで、唐桑ボランティア団事務局として、短期団体を受け入れやすくなる。
マドンナの夢の一歩にもなってくれたら。

マドンナは、それから空いている時間を見つけて、せっせと拭き掃除をしてくれていた。
ボランティアがやるからいいですよ!と言っても、オレらがいない間に掃除を進めている。

泥やガラスだらけだった床が、ついにスリッパで歩けるようになった。
風呂の上の天井が抜け落ちていたのだが、それも新たに入れてくれた。
トイレのドアが波にぶち抜かれていたのだが、新たにしてくれた。
2階部分は床が抜けて1階が丸見えだったのだが、床を敷いてくれた。
Gakuvoとの契約が進み、電気、水道を引くこととなった。地元唐桑の業者に来てもらって、家の中を見てもらう。
1、2、3階全てに電気が通ることとなった。

---

「ほいっ、そこのスイッチ押してみて!」
ぽちっ
パーっと部屋が明るくなる。おおぉー!電気だ!マドンナとハイタッチ!
流しからジャーっと水が出る。水道や!

遂に、家の中を素足で歩けるようになっていた。

つづく
続・唐桑ボランティア団の仕事 [2011年09月10日(Sat)]

つづき

次に事務局の仕事を紹介する。
イメージとしてノートにまとめたものがこれ。



基本は、代表定例会・分科会の呼びかけ・開催。

■ニーズの調整
現場作業系…
聖敬会のヒアリング活動で上がった作業ニーズや、事務局が直接受けたニーズを、現場分科会で各団体に振り分ける。ひのきしんセンター、RQなどが現場の主力。
また逆に、一団体では人手が足りない現場があれば、他団体に交渉して融通してもらう。

イベント企画・ケア系…
お祭りなどの大きなイベントの際は協力を呼びかける。
その他、仮設住宅分科会の開催など。

■短期団体の受入
GakuvoやIVUSAなど、短期で入る団体を受け入れ、現場を紹介する。人員を調整する。
(参考「週末大作戦アルバム」)

■長期団体の窓口
T-ACTや東北学院大学など、新たに長期で唐桑に関わる団体にアプローチをかけ、代表定例会に出席してもらう。

事務局のメインの仕事はこんなところ。
他には、地元出身のボランティアを募集したり、事務局オリジナル企画も。8月には、鮪立にも拠点ができる。

「唐桑のNPO同士は雰囲気がいい」との評判も聞こえてくる。実際は、何度かバラバラになりかけたが。

気仙沼のボランティアセンターとも本格的に連携が始まった。社会福祉協議会の方々も定例会に出席してくれる。遂に役所の方も今後出席の意向を。行政との連携は地域のためには必須だ。
ボラセンとまではいかないが、それに近いモノはできた。

「ゆる〜いツナガリ」を維持していくうちに、長期滞在する団体責任者同士に個人的なツナガリが生まれた。信頼している。ありがたい。
それが、唐桑ボランティア団の強みだ。

「仕事をまとめるのではなく、心意気をまとめろ」結成当初の地元の方のアドバイスを思い出す。
唐桑ボランティア団の仕事 [2011年09月09日(Fri)]

唐桑ボランティア団が生まれてから、はや3ヶ月以上が経った。
硬い話で面白みのない話になるが、ここらへんで唐桑ボランティア団の活動をまとめて紹介することとする。
手探りかつ綱渡り状態の運営が続いていたので、今でこそ書けることばかりだ。

過去の関連記事は、「唐桑ボランティア集結。」「「唐桑ボランティア団」」「カキのお話」「8月6日オープン」など。

GWが終わり、まだ新たに唐桑入りする団体がちらほらあった頃。
「避難所へのニーズ調査の重複」が、少しずつ問題になってきた。避難所は、ボランティア団体からの「何か困ったことはありませんか〜?」という質問のラッシュだったので当然だ。しかも、質問に答えたところで、支援が必ずしも返ってくるとは限らない。
今でも覚えている。SVAの本間くんと鮪立の憩いの家のベンチで話した。「なんとかしないとねぇ」と。

唐桑でも団体間の情報共有、調整、要するに災害ボランティアセンター設立が必要だった。気仙沼のボラセンは、唐桑・本吉には手が回っていなかった。
そのうち本吉ボラセンがオープンしたとの情報が入る。

唐桑にもボラセンをつくろう!と、SVA・とちぎVネットらと動き始めるが社会福祉協議会の唐桑支所にはボランティアセンター開設のキャパがないことが判明。結果、民間主導のネットワーキングが進む。

当時唐桑には、気仙沼のボラセンを通じて唐桑入りする団体と、ボラセンが機能する前から地元密着で活動している団体の2種類が活動していた。後者は、RQや山岳、ひのきしん、FIWCなどが中心だった。その両者を繋ぐのは至難の業だった。やりがいはもちろんアリ。

これが(私から見た)唐桑ボランティア団の設立経緯。

6月、唐ボラ団の結成意義をまとめる。
一、唐桑で活動する各ボランティア団体の強みを生かす。
一、人員等必要な場合、各団体間で融通、調整する。
一、地元の方にボランティア申し込みの窓口を明確にする。
一、ボランティアをやりたい地元の方の窓口を明確にする。
一、度重なるニーズ調査・企画等で地元の方の負担にならないように調整する。

活動内容は、たいしたことはない。以下の2つ。

1.毎週火曜日に代表定例会議の開催
各団体の代表者による活動報告やトピックごとに情報共有。
2.分科会の開催
各分野ごとに、担当団体で議論。例えば、仮設住宅支援について話し合う分科会や、現場作業の調整を行う分科会、カキ養殖支援についてあれこれ議論する分科会など。
結果、仮設住宅でのイベントが重複しないように、各仮設に窓口団体をつけたりした。

モットーは、ゆる〜いツナガリ。「強制はしない」、ココがボランティアをまとめるポイントだった。
団体数は増え、10団体ほどが唐ボラ団に関係するようになった。

私含め、現在5名(うち補佐1名)が事務局として活動する。

つづく
5ヶ月 [2011年09月05日(Mon)]

くだらない話。

今日、ヤツとの長い長い死闘が終わった。
「ヤツ」とは、「アズキマメゾウムシ」。

馬場さん宅の倉庫の一室が、今私の部屋(通称:office-tkm)になっているのだが、
ちょうど1か月前、そこで2〜3mmの丸い虫が大量発生していることに気づく。

馬場さんによるバルサン弾の投下2回。掃除機による一斉検挙。
が、ヤツらは増えていく一方だった。
誰も見たことのない虫だったので、いつの間にか「カラクワオオタクマ」通称「ハナクソ虫」または「tkm」と名付けられた。

特に害はないので、なんとなく共生するようになった。夜寝ていると体の上でコソコソするので、そのときは指でシャリっと潰してポイっと捨てる。もちろんストレスは半端ないが、元凶が分からない。
午前中、唐桑ボランティア団の事務所で作業をしていると、ぽろっとシャツの下からカラクワオオタクマが落ちる始末。そのうち慣れてきた。

虫などに詳しい地元の人に調査を依頼。「アズキマメゾウムシ」という小豆の害虫であることが判明。(写真はエグいのでググることはおススメしません)
「マメゾウ」というかわいいニックネームがつく。愛着が湧く。
倉庫の豆類を撤去。
するとマメゾウは減った。

しかし、数日前から湿気のせいか再び大量発生。
遂に夢の中でもシャリっと出てくるようになり、愛着も消え、もう限界だと感じ始めたころ、すなわち今日、あるメンバーが隠れていた小豆の袋を発見!
ぶわっとtoo muchなマメゾウが飛ぶ。小豆は穴だらけ。ついに基地発見。

「あー、見てるだけでかゆい!」と馬場さん。
焼却炉で灯油までかけて火葬。グッバイ、マメゾウ。ゴメンね。人類の勝利。

思えばガレキから湧いたハエとの闘い、マメゾウとの闘いが終わった。
今は、どこからか侵入したコオロギが部屋の中でいい感じのBGMを奏でる。
すっかり秋になった。

そんなこんなで、今日唐桑に来て5ヶ月が経ちました。
夏の記事がまだまだあるので、順次アップしていきます。
8月6日オープン [2011年09月04日(Sun)]

8月6日、天気はアツイ。
7時に目覚める。どわ〜という声がおもわず心の中で発せられる。寝坊。

馬場家の裏に建ってあるFIWCの拠点(プレハブ)に向かう。
「みっぽ〜、もう7時なってもたで」
二人で坂をとぼとぼ、しかし急いで下る。

ローソン唐桑町店、8月6日午前7時オープン。

震災で津波を被ったローソン、しかも唐桑唯一のコンビニ、故にここら地域では絶対的な売り上げを誇るローソン唐桑町店が、改装を終え、遂にオープンしたのだった。
私はその最初の客になる予定だったが、あえなく失敗。



とりあえず歓声を上げ、無駄にあれこれ買い込んで、店頭でポップコーンまでもらって帰宅。
「おめでとうございます」というお客が多い。
これでもう24時間何でも買える。コンビニを求めて、気仙沼市街まで行くこともなくなった。
まぁATMが未だ入らないのは痛いが。
「復興が成ったようなもんだ」と、冗談を言いながらからあげくんレッドを朝飯に食う。

仲のいい唐桑の高校生2人がここでバイトすることとなった。
松圃の太鼓で仲良くなったお母さんもここで働いている。4月にガレキ撤去をしたお宅のお母さんもここで働く。知り合いだらけ。
お客も、なんだかんだ知り合いによく会う。

私も東京で1年間ローソンの夜勤をやっていたので、レジごしにバイト初心者の高校生を、にやにやしながらイジる。
「あー、コレあっためて。袋は別々でしょ?揚げお好み焼きはソースね」
あたふたする高校生。

逆に知り合いだらけも辛い。
月曜になると決まって週刊ジャンプと煙草を買いに行くのだが、レジごしに地元のお母さんに「今日もお疲れ様ね。最近忙しい?」と聞かれる。「そうっすねぇ」と返すのだが、マンガを嬉しそうに買うボランティアが言っても説得力はない。

夜は、このローソンが煌々と馬場の町を照らす。唐桑では信じられない灯り。真っ暗だった唐桑が一気にまた明るくなった気分だ。
思い起こせば、4月に来た時は廃墟だった。かろうじて残る青のタイルを見て、ローソンだと分かる。いつか、このローソンが再び開店する日が来るのだろうか。そんなことを思った。



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この日もう一つ、画期的なオープンが。
唐桑ボランティア団の事務所ができた。8月9月限定なのだが、いつでも使えるスペースが、総合支所(役場)の裏にある漁村センターの2階に確保できた。
公民館の館長らが、役場に交渉してくれた。
ありがとうございます。

さらに役場の2階の会議室を、唐桑ボランティア団の定例会議で使えることとなった。
なんとホワイトボード付き。交渉してくれた進さんに感謝。
「年末まで毎週火曜の午後、とっておくね」
同時に、今まで全壊扱い家屋の2階でやってきた定例会は終了。

定例会に集まるボランティア団体の代表たちが、机とイスが並ぶ会議室を見て笑う。
「今まで車座になって畳に座っていたときの方が、戦国武将の会合みたいで好きだったな」

何かがゆっくり、でもしっかり変わっていく。
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