2015年12月15日
「ここから先は通行証が必要です」
「申請済みです」
「スクリーニング場で取ってきてください」
「加倉でですか?」
「はい」
バリケードを前にした我々はUターンした。
「なんだかRPGみたいだね。くくく、ドラ◯エみたい」
「アイテムがないとこの村には入れません!みたいなね」
そんな冗談をこぼしていたが、そのスクリーニング場とやらに到着すると一変する。
コンビニの跡地に置かれたプレハブ小屋、数棟。車はすぐに5〜6人に囲まれた。
「◯◯さんですね。はい、名簿にお名前ご記入頂いてますか?
はい、線量計です。こちら、(区域内で)作業される場合は防護服を着用してください。防鼠剤は要りますか?
こちらはトランシーバーです。緊急時にお使いください。使い方はこちらのマニュアル…」
対応はすごく丁寧。決して無愛想でもない。ある男性スタッフの胸には東京電力のバッジが。
一人ひとつ線量計を渡され、一同は息を飲んだ。
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バリケード内に進入する。
ところどころ地震で倒壊した家屋がある。我々は4年前の気仙沼にタイムスリップした。
太郎さんの出身は浪江町。
福島の現状をこの目で見るため、ご実家をぜひ訪問させてください、とお願いした。そして、この度の浪江訪問が実現した。メンツは、太郎さんに、しゅんくん、じゅんちゃん、こうや、私。
海辺に出た。
津波で被災し半分だけ残った家がちらほら。まるで片足で4年半そのまま突っ立っているような。
墓石が散乱している。
地蔵だけは誰かが起こしたのだろうか。横たわり、散乱した墓石の合間合間で、地蔵が手を合わせている。
墓石は先祖の象徴だ。
その遥かかなたに、それはあった。
「あれ…そうじゃない?」
「あぁ、そうだね。こっから見えるんだ…」
煙突が数本。
浜へ急いだ。
「まるでバラモス城じゃない」
曇り空の隙間から太陽の光線が数本筋になり、その煙突を雄々しく照らしている。いや神々しさすら感じさせる。
なんと皮肉な。人間が作り出した人間には近づくことの許されない領域、福島第一原子力発電所。
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我々は町内に戻り、太郎さんの中学校の通学路を車で辿った。
「こうやって町並みを見てると、人が出てきそうだよね」
太郎さんがつぶやく。
「でも人はいない」
イノシシの親子に出くわし、キツネがキョロキョロ歩いている。
太郎さんの母校浪江中学校に到着。
衝撃の光景が待っていた。
「世界一安心して楽しく学べる学校」と貼られた下足室のガラス戸。
覗くと、運動靴がばらまかれている。
「まさか…」
順に一階の教室の窓から中を除いていく。
机と椅子は左右に乱れ、教科書、上履き、帽子が散乱。床はホコリが溜まり過ぎてか砂っぽくなっている。
予想は的中した。
黒板の日直を書く欄に「3月11日(金)」と残されていた。
体育館を覗くと、卒業式が行われていた。椅子がまばらに散乱している。まだ、ずーっと卒業式が続いてる。
本当にこんなことが現実であるのか。
まもなく5年になる。5年前の3月11日、浪江中は卒業式だった。
あのときから一切人の手が加えられていない。
職員室も保健室も。
瞬間冷凍された学校。
頭がぼーっとしてきて、残像のように子どもたちが走り回る。
いつ冷凍は溶けるのか。
窓ガラス越しに教室の後ろに目をやる。
はっと目が醒めた。鳥肌を立たせる電流が頭から走り、身体が一瞬よじれた。
「原子力の利用」
1年生の習字が飾られていた。
そうだよ、これが原子力の力。
除染作業員たちが車内で昼寝をしている。それを横目に我々は中学校を後にした。
太郎さんの家につくと、防護服を着た。敷地内の庭の土などは線量が高い可能性がある。それが靴や服に付着しないための簡易防護服で、雨ガッパと大差ない。
お家のお庭にお邪魔して、鼠除けの薬を家の入り口という入り口に撒いていった。その薬の臭いに酔って気分が悪くなった。
作業が終わると、マスクを外して、タバコに火をつけ、思い切り息を吸み、道路の真ん中で背伸びした。
「目に見えないもの」「臭いもしないもの」がこんなに怖いとは。
園子温監督「希望の国」のラストシーンを思い出す。急に鳴り出すガイガーカウンターの不気味な音。
ちなみに「希望の国」上映会が気仙沼で行われたとき、上映後園子温監督と喫煙所でばったり出くわした。興奮やまぬ私は不意に「希望なんてもうこの国には無いっていうメッセージですか」と尋ねた。「ちがう!そうじゃない!」と監督に一喝された。
暖冬のせいか柿がどの木もよくなり、ぽかぽかした冬空が浪江にも広がっていた。目に見えないし、臭いもしない。だから、タバコはまぁいつも通り。うまい。たぶん。
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スクリーニング場に帰ると、ひとりひとり足の線量を計る。続いて車のタイヤ。
「問題ありません。お疲れ様でした」
「一時帰宅の方は一日何台くらい来るんですか?」
「今日は年内最後ですから…このスクリーニング場で今日は20台ほどです」
車が発車するとスタッフが横にズラリと並び、深々と頭を下げた。
車が遠ざかるまで頭を上げない。
あの東京電力のスタッフも。
その光景に胸が詰まる。
「太郎さん、ありがとうございました。この光景は、子どもたちに必ず伝えます。」
5年。
何も終わっちゃいない。何も始まっちゃいない。
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そこから南下し、夜はいわき市で地域おこしに取り組む方々と懇親会。
とある30代の農家の方に出会った。6次産業化に取り組み、かなり精力的に事業展開しているそうだ。
その方が言ったことがまた衝撃だった。
「福島も津波被害が甚大だ。
津波にある日急にのまれて死んだ人がたくさんいる。
そっちの方がよっぽど酷い。
俺たちは生きているんだ。
なぁ。本当に帰れないのか?帰らないのか?
放射能なんてたいしたことねぇ。」
私は目を丸くするしかない。
「それでもね、俺たち福島の農家は一番最悪の状況を経験した。
だから後は、一番テッペンを経験したい。両方経験できるのは俺たちだけだからな。」
生きてやる。津波で亡くなった人の分も生きてやる。
そしてこの地域の子孫に伝えてやる。俺たちは生きていた、と。
何も終わっちゃいない。福島は今も昔と変わらず生きている。