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「ボランティア活動からまちづくり活動へ」 [2013年03月30日(Sat)]

寄稿文「ボランティア活動からまちづくり活動へ」


2013.3 加藤拓馬


今思うと私の20年そこそこの人生は、大震災が付きものである。

1989年兵庫で生まれ、神戸で育った。小学校入学前に、阪神・淡路大震災を経験。自宅のアパートは無事だったが、まちはとても住めるような状態ではなくなった。震災直後に同県の姫路の母の実家に移住、そのまま姫路で小中高時代を過ごした。「故郷はどこですか」と尋ねられると姫路ですと答えるのだが、今でもどこか引っ掛かりが残る。今はもう足も運ばない神戸の魚崎という町がちらっと頭をよぎる。震災は私から神戸を奪った、なんとなくそんな気がしていた。

2007年に早稲田大学に入学。在学中は中国でハンセン病問題に関する活動、いわゆる海外ボランティアに没頭した。2011年、大学を卒業する直前に東日本大震災を経験。卒業後東北に移住し、現在まで気仙沼市唐桑町という小さなまちで復興支援活動を続けている。

「復興支援活動を続けている」と書いたが、この1年半の中で活動の内容は大きく変化した。それがタイトルにある「ボランティア活動からまちづくり活動へ」。今、被災地の現場では、外部のマンパワーによる緊急支援が必要なフェーズは終わり、住民主導による長期的な復興まちづくりが求められている。

その辺を詳しく掘り下げる前に、東北入りした経緯から書いていきたい。



大学時代は、年に2回長期休みを利用して中国に通った。「ハンセン病回復村」と呼ばれる村に赴き、「ワークキャンプ」を開催した。ハンセン病回復村とは、もともとハンセン病に罹り、差別や偏見を受け半強制的に隔離された患者たちの療養施設だった。しかし、病から回復した後も差別、偏見は残り、故郷に帰ることができず、「回復者」として人里離れたこの施設に留まる。施設とは名ばかりで、老朽の進んだ家屋にひっそりと住み続けることを余儀なくされている。高齢化も進んでいる。これが回復村の現状であり、世界中に同様の状況は見られる。一方ワークキャンプとは、労働作業(ワーク)を通して、道の舗装、トイレの建設などなど村のインフラ整備を行いながら、村で2週間程度村人と共同生活(キャンプ)を行う活動だ。私たちの活動は、日中の大学生が10〜20名ほど集まり共同でキャンプを開催する。このワークキャンプが私にとって非常に魅かれるものだった。何か小難しいことをする訳ではない。昼間は働き、夜は村人とパーティを開きゆっくり話す。インフラの整備だけでなく、病を恐れ誰も近寄らなかった村が徐々に地域に開かれていくのが目に見えて分かる。さらに辛い過去をもつ村人の生き様から、私たちのような裕福で無知な学生が学ぶことは多い。またキャンプを通して、村人と大学生は家族のような関係になる。「人とのつながり」を、身をもって体感する活動だった。ハンセン病回復者、健常者、中国人、日本人、そんなカテゴリーがどうでもよくなる瞬間とでも言おうか。国、民族、宗教、いろんなカテゴリーで紛争を繰り返す世界に、ワークキャンプを広めたら、おもしろいことが起きるんじゃないか、そんなバカでかい夢をもつようになった。

同時に、「ボランティア」という言葉に疑問を持った。ボランティアという言葉の響きには、どうしても「弱者のために尽くす自己犠牲」という意味合いを感じてしまう。しかし、人生の大先輩である村人は弱者だろうか。これは自己犠牲だろうか。そうではないとしても、この活動は誰のためのものなのだろうか。「村人のため」だとするとどこかで「偽善」と感じ、では「自分のため」と割り切ると「自己満足」じゃないのかと感じて、ぐるぐる悩んだ時期もあった。同じような悩みを抱える学生ボランティアは少なくない。

私の結論はこうだった。「あなたのため」と「私のため」、そもそも何で二択しかないんだ。これは「あなたと私の関係性」に資するものだ。あなたのためでもあり、私のためでもある、つまりあなたと私の「関係」を大事にするための活動。恋愛に似ているかもしれない。そう考えると「偽善」という言葉も「自己満足」という言葉も頭から消えた。誰かを「助ける」活動ではなく、誰かと「出会う」活動になった。そして言うまでもなく、これが現在の東北での活動の根底にある。



卒業が近づき、就職先の内定は得たものの、上記の「夢」があったので会社には長く留まらないだろうと考えていた。そんなタイミングで震災がやってきた。被災した方々には申し訳ないのだが、ここから何かが始まる気がした。大きなうねりとともに社会が変わる気がした。すると震災の次の日に、大学時代の先輩から「現場に行くぞ」とメールが来た。結局、半月の間悩みに悩んで、4月5日にワークキャンプ団体FIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)の一員として気仙沼市唐桑町に入った。出社することはなかった。唐桑というまちはハンセン病と縁がある場所で、私たちを受け入れてくれる地元住民がいた。こうしてそのお宅を拠点として震災復旧ワークキャンプが始まった。私自身、唐桑は初めての土地だった。

夏までは、ひたすら瓦礫撤去をする毎日だった。災害ボランティアセンターの手の届かない地区だったため、自分たちでニーズを収集し、やってくるボランティアとのマッチングを図り、やがて唐桑のボランティアネットワーク「唐桑ボランティア団」を立ち上げるに至った。口コミとチラシで活動は広まり、あらゆるニーズが集まってきた。そのときは夏が終わると東京に帰ろうと考えていた。しかし、数ヵ月の住み込みでやっているからこそ聞こえてくる「地元住民の本音」がある。それは「ボランティアしてくれてありがとう。きっと唐桑は復興するよ」と言った綺麗なものではなく、震災から時間が経てば経つほど悪化していくコミュニティの現状だった。

ストレスがピークに達している避難所、先の見えない仮設住宅、そして支援が届かない在宅避難者。「もう唐桑から離れたい」「今、唐桑には3種類の人間が住んでいてバラバラになっている。避難所、仮設、在宅だ」田舎ならではの強固なコミュニティにひびが入り、住民の心は路頭に迷っているという風な印象を受けた。そこで、こんな言葉を知る。「まちづくりに必要な3つの“もの”がある。客観的な視点に立てる“よそもの”、次世代を担う“わかもの”、そしてがむしゃらに突き進める“ばかもの”」自分にはその3者の要素があるじゃないか。ここで帰るのはもったいない。結果、ボランティアが激減した夏以降も滞在は続いた。



どうにかして住民に前向きになれる話題を提供したい。もっと唐桑を好きになってほしい。子どもたちから故郷を奪っちゃいけない。神戸のまちがまた頭をよぎる。

こうして瓦礫の片づけが落ち着き始めた秋ころから、まちの魅力的なヒト・モノを取り上げた雑誌を制作することにした。そして、カンパと地元商店からの広告費でフリーペーパー「からくわ未来予報誌KECKARAけっから。」が完成した。「けっから」とは土地の言葉で「(タダで)あげるから」の意。そして、その1ページ目に大きくこう書いた。「夢みてぇな話、語っぺし」。唐桑に今足りないのは、物資でもカネでもなく、夢だと思った。

年が明け、気づけば一緒に活動について考える地元住民が増えていた。私の活動の悩み相談相手も地元の人になっていた。そしてまた3月11日を迎えた。「震災で失ったものは大きいが、“出会い”があった」そう言ってくれる地元の数名と一緒に静かに献杯した。これはもっと長期に渡って活動をやっていける。一方的な「支援」は長く続かない。これからは地元とよそものの「協働」なんだ。そして、上がってくるニーズに応えるだけの「復興支援活動」ではなく、これからはコミュニティの活性化に重点を置いた「復興まちづくり活動」にしていこう。東北の厳しい冬が終わりに近づいていた。



「地元学」という手法を知ったのもこの時期だった。地元学とはその名の通り、「地元から学ぶ」作業で、熊本県の水俣のまちおこしに取り組んだ吉本哲郎さんは地元学について「“ないものねだり”から“あるものさがし”へ」という言葉で説明する。高齢化、過疎化が進む地方の現状として、「自分たちの地元には何にもない」と嘆き、衰退をやむなきこととしている田舎が多い。そこで吉本さんが呼びかけているのは、住民が自ら地元を歩いて調べ、地元に「あるもの」を探そうという取り組みだった。「ここにしかないもの」「どこにでもあるもの」「困っているもの」「余っているもの」「捨てているもの」全部が地元に「あるもの」だ。住民は住んでいるからこそ、意外と地元のことは知らなかったりする。そこでポイントがある。よそものを上手く使うことだ。上にも書いたが、外部の客観的な視点を導入することこそ、まちの魅力を掘り起こす手っとり早い方法なのだ。

唐桑もまた震災前から高齢化と過疎化が深刻な場所だった。地元学を本で知り、吉本さんに会い、私の唐桑での見様見真似の地元学が始まった。「まち歩き」というプロジェクト名で、地元住民と大学生がグループを組んで、まちを散策する。すぐに成果なんて出ない。「歩いてどうするんだ?」とよく問われる。課題は多い。地道な戦いが始まった。

4月には住民票を移し、晴れて気仙沼市民に仲間入り。5月には、まちづくりのための新体制に移行すべく、数名の常駐メンバーと地元住民と「からくわ丸」という団体を立ち上げた。漁師町である唐桑を大きな船に見立てて、からくわ丸は出航した。リアス式海岸に恵まれ、海の幸も山の幸もある豊かな自然、半島という地理的閉鎖性が生んだ独自の文化、昔から続く家々が織り成す集落の連帯意識。唐桑には日本に誇れるものがたくさんある。地元学の「あるものさがし」こそ、これからの長い長い復興のベースになるものだと考えた。



私たちは現在、とあるプレハブ小屋を拠点に活動しているのだが、夏ころからか、地元の若者たちが夜な夜な集まるようになった。同じ20代だ。彼らと話すうちに、「外から来たヤツらが一生懸命ウチの地元でやっている。同年代のオレらが何もしない訳にはいかない。何か活動に協力したい」と言ってくれるようになり、今では同じからくわ丸としてまち歩きに参加してくれたりする。

唐桑に来てもうすぐ2年。紆余曲折を経ながら、ふらふらと進んできた道だった。しかし、そこで新しい夢が生まれた。この唐桑、そして気仙沼で、3つの“もの”が集まって、まちおこしをする。それを他の市町村にも広げて、これから日本中で続出するであろう地方の課題の先進事例のひとつにすることである。

私の部屋には一枚の写真が飾ってある。中国で、私に「人とのつながり」の難しさと大切さを教えてくれた村人の写真である。彼はもう世を去ったが、今も昔も微笑んで、こちらを見てくれている。

おわり
(東北学院大学「震災学vol.2」より)