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石巻になくて気仙沼にあるもの(シリーズ「春よ来い」C) [2014年08月19日(Tue)]

年度末の記録、シリーズ「春よ来い」。
春どころか秋がやってこようとしている今日この頃。シリーズ最終回です。

---

3月31日の話。
東京の企業から市役所に出向してきている森さんと紫市場のとんかつ屋でランチ。
気仙沼の観光に関することで一緒にお仕事をさせてもらう機会がある。
なんせ東京の一流企業のサラリーマンとお仕事をさせてもらえるだけで、日々いい経験。ミーティングの仕方から何まで、学生上がりでこっちに飛び込んだ私には新鮮。
それに加えて、この森さん含む「出向チーム」の皆さんは、地元にとことん密着する。気仙沼の人材育成、水産、そして観光の振興に取り組む彼ら。泥臭さがあって、尊敬の念に堪えない。

ところで、とんかつ屋。

「石巻と気仙沼の違いって、東京の人からしたら分からないよね」
そう切り出す森さん。
「同じ宮城、同じ水産業のまち、同じ被災地。よそから見たら、何も変わらない」
確かにそうだ。
地元の人から見ればもちろん県内でも全然違うまちだが、その差別化は外の観光客からしたら非常に難しい。
観光の勝負でいうなら、仙台から近い石巻の方が断然有利に思える。
そんなこと考えたことがなかった。

「そこで先日石巻に行ってきてね。
何が気仙沼と違うのか見てきてん」

ほう!それで…

「見つけた。石巻になくて、気仙沼にあるもの。
何だと思う?」

石巻になくて、気仙沼にあるもの…
なんだ。頭の中をくるくる回すが何も出てこない。


森さんはにやりと微笑む。
「唐桑。
唐桑があるかないかや。」

瞬間、ずわっと鳥肌が立った。
市街地から20分でたどり着くリアスの竜宮城。
この絶妙な距離は石巻―牡鹿半島には出せない。

「唐桑は気仙沼の観光のダークホースになる」

ぐぐぐっとこみ上げる想いをとんかつと一緒に飲み込んだ。
復興とは(シリーズ「春よ来い」B) [2014年08月16日(Sat)]

「災害は社会のひずみ(課題)を顕在化させる−」

中越からのゲスト稲垣さんは皆の前でそう語る。
産業の衰退、行政の縦割り、福祉も縦割り、住民と行政の関わり、少子高齢化…
「でも本質的にはね、
(社会のひずみとは)地域社会の課題を(ひとりひとりが)私事として捉えずに、誰かのせいにしていたこと」

「グチ(愚痴)をジチ(自治)に変えろ!」水俣の吉本さんの言葉が頭を横切る。

稲垣さんの講話は、新潟で起きた2つの震災の話へ。
「2004年の中越地震の前にも、新潟では1964年に大きな地震(新潟地震)がありました」
稲垣さんは、山を描くグラフを示す。
縦軸が新潟の人口やGDP。横軸は1945を起点とする年代を表す。
よくある戦後の日本の発展と後退を表す山だ。

1964は、人口やGDPが上り坂の時代。
「当時の豊かさとは、『数ではかれるものが増えること』でした。
人口や経済のことですねェ。
しかも、当時は上り坂にあった訳ですから、

復旧=復興

だった」

元の軌道に戻すこと(復旧)が、つまり上り坂に戻すこと、イコール発展(復興)だった訳だ。

「2004年の中越地震ではどうでしょう」
2004は、山頂を越え、下り坂に入っている。
「豊かさをはかる尺がなくなった」
厳密に言うと、豊かさは尺ではかれるものではない、という概念が生まれた。

「この時代においては、復旧=復興とはならないんですね。
元に戻すって言っても、元が下り坂ですから、復旧≠復興。
今回の東日本大震災もそうです」

豊かさとは何か。
被災した地域だからこそ、社会のひずみが顕在化した地域だからこそ、切羽詰まって問う。
2011年のGWに、FIWCのワークキャンプの大先輩、矢部顕さんがガレキのまちを目の前に言った言葉を思い出す。
「モノは波に流される。カネは恐慌で価値がなくなる。残るのは、人の絆。
ここに価値や幸せを見出す時代が来たのかな」
(参照記事:「GWキャンプが終わり・・・」

時代によって価値観が変わるように、復興のあり方も変化する。
じゃあ、価値観の変革が訪れている今、復興とは何なのか。何が復興なのか。

稲垣さんは言う。
「今、『復興』とは『豊かさ探し』だと思います」

なるほどっ

すっと心に何かが落ちた。
今年の3月20日のことだった。
3年経って、宙ぶらりんだったもやもやがひとつ、すっと着地した。
気仙沼の観光 [2014年07月31日(Thu)]

「私は、気仙沼の観光に、生涯かけて取り組みます」
かつて、そうおっしゃった。
おぉ!っと周りが囃す。
市役所にもこんな人がいるんだ。そう思った。
私のような「よそもの」が会議に参画する意義を見出し、期待を膨らませてくれた。
突然の訃報。

「観光」とは、一概に「外へのPR」を指すものではなく、「まちの誇りと自信を取り戻す」ための事業でもある。
観光事業に必要なコミュニケーションは決して「内(対)外」だけではなく、実は重要な「内(対)内」の要素。つまり地元学。−−観光戦略会議で習ったこと。

あれから気仙沼の観光に関わるようになって丸2年。
気仙沼の観光、やろう。
事業をもっともっと加速させねば。
動揺する心がぐらぐらと煮える。強く締められる。

ご冥福をお祈りいたします。
かあちゃんへ(シリーズ「春よ来い」A) [2014年07月27日(Sun)]

昨年度末のことを記録するシリーズ「春よ来い」。
忘れちゃいけないことを書いて記録しておく。

3月11日。あの日から早3年が経った。
今年も馬場の浜でその時を迎えた。独りで馬場の浜の小さな祠の前で眼を閉じる。
黙祷の音が浜にも響き渡る。

3月16日。東京にいた。
からくわ丸の企画があった。今や東京と広島に学生支部がある当団体だが、唐桑の地元の若者メンバーと両学生団体の幹部が東京で一堂に会すという企画。代々木のオリセンでワークショップやなんやらして、そのまま最寄りの駅前で飲み会。

飲み会中。珍しい人からメールが来ていることに気づく。
それを見て、私は不意に涙が止まらなくなった。
なんせ止まらない。嗚咽。

母からだった。
「おかんは、泣きましたよ。いやーホント。お知らせまで。」
とのこと。画像が添付してある。
写真 (17).JPG

かあちゃんへ

いつもありがとう
早くも三年が経ちました。
タクマ隊長と会いタクマの
芯の強さをあらためて感じ
ております。
この気仙沼唐桑が元気に
なるまで頑張ってほしいですね。
これからも見守って下さいね。

平成二十六年三月十四日
一丸

震災から3年。
地元の漁師さんからお礼のメッセージ入りのクッキーが急に実家に届いたそうだ。
泣いた。
3年間心配をかけながらも最終的には応援をしてくれた母を、泣かせてくれたことが嬉しかった。
そして、あれから3年、3年やったぞ、歯を食いしばって俺はやったぞ、という決して人には言葉にできない言葉が脳みそを走った。
粋なサプライズにすっかりやられてしまった。感謝。

こんな形でひとつ孝行。

---

このちょうど3ヶ月後の6月14日、気仙沼に両親を招いて気仙沼での結婚パーティーをからくわ丸主催で開く。
たくさんの地元の方に来ていただき、両家の両親にもおおいに感動してもらった。

親はいつまで経っても、私がどこで何をしようと親だ。
仕事中です。 [2014年07月20日(Sun)]

昼飯を市内の定食屋でさっと済ませて、唐桑へ向かう。
雨が降り出した。

漁師さんの家にお邪魔して、コーヒーやらお茶やらをいただきながら、まちをおもしろくするための作戦会議。

「つないでいがねぇと。
このままなんとかすねぇと唐桑は消滅すんのさ、結局」

次世代がいないことを嘆く漁師さん。「やれることはなんでもやろう」と意気込んでくれる。
外を見ると雨があがっている。
「雨ハレたの?」奥さんに尋ねられる。「はい、ハレたみたい」
「雨が晴れる」というなんとも不思議な表現にも慣れた。

浜の話をしていたので、思わず「ちょっと浜降りましょうよ」と誘う。
長靴に履き替えて浜へ。
「これ今、干潮?」と尋ねると漁師さんは防波堤に目をやって「満潮でも干潮でもねぇな」と返す。
「昔は昆布とって、浜にびっしり並べて干したのよ。干す場所でケンカしてなぁ。境界線引いて。浜で足りないときは、家の前、家の屋根にまで干したんだ。
夜中寝ねぇで取ったんだぁ。ちょうちんつけてな。
隊長ぉ(私のことをこう呼ぶ)、ちょうちんだぞ、おい。今みてぇに、頭にライトなんづぅハイカラなもんでねぇのよ。
もっこに入れて担いで運んだのさ。つれぇなんてもんでねぇ。
でも、ガキながらにそれが楽しかったんだべな。モノを獲れるっていうのが。」

地元の人とちょっと外に出て歩けば「あるもの探し」が始まる。「地元学」が始まる。

唐桑中学校に寄って、先生と「まち歩き」企画の打ち合わせ。
昇降口で知った顔の中学生を見つけ、「おぉ」と声をかける。
「あ、どうもス」と他人行儀に返してくる。かぁぁ〜!震災のときは「ねぇ〜キャッチボールしようよ〜」とまとわりついてた小学生が今じゃこの敬語だ。
「みけんにしわ寄ってるぞ。どした反抗期入ったか」と聞くと、
「いや、そんなんじゃないス」とすっかり声変わりしたおっさん声で照れている。

ガソリンがない。
私用車での移動だったので、とりあえず郵便局へお金を降ろしに向かう。
唐桑郵便局のATMには、警察官の姿が。お金を降ろしている。
後ろからぬっと顔を近づけると、「あぁ!こら、盗る気じゃないだろうなぁ!」とATMにしがみつくような仕草。この方、通称「ショチョー」。
「今日仕事?」「仕事中です。」
ふと、カウンターの中から目線を感じる。あら。郵便局勤めの大沢の兄貴がたまたま唐桑の局にいた。
兄貴は「あ、あそこの人怪しいです!」とお巡りさんと戯れる私を指差して、他の局員に触れ回る。
私は「ショチョー、あそこにニセ局員が紛れてます!」と返す。

カウンターを挟んでおしゃべり。
「やせましたか?」と兄貴に聞く。
「おめぇが太ったんだべど」と笑顔で返される。新婚をイジってくる。「今日、仕事か?」
「仕事中です。仕事中だけど、今日給料入ったから慌てて降ろしに来たんですよ」
いやいやいや、と笑う。

ガソリンスタンドへ向かう。
さっきの漁師さんの家でたくさんお茶こ飲んだおかげかトイレが近い。もれそう。
迎えてくれたのは社長。第一声、「今日はお休み?」
「仕事中です」
「5000円?」レギュラー5000円分現金は定着。
「そう!社長、トイレ貸して!」
勢いよく車から降りる。
「はい、トイレ代が5000円ね」と片手をぴょんと出す。

親しき仲には、冗談が欠かせない。そういう人たちだ。
スタンドのトイレでふと不思議になる。
そうだ、この数時間のことを遠東記に書こう。
漁師さん、子ども、お巡りさん、郵便局員さん、スタンドの社長…
なんだこのまちは。

まちのどこに行っても、人がいる−


このまちの居心地のよさをどう表現するのか、移住者としての私の今の課題。
なんつぅか、こういうことなんだよな。
2014年5月31日のこと。 [2014年06月11日(Wed)]

5月29日の唐桑町馬場の朝は、気持ちのよい朝で。
突き抜ける空の青さは、冬には見ることのできない爽快さ。
あぁ、このまま梅雨が来ずに夏になれば、とつくづく思う。

珍しく唐桑町内で打ち合わせがあり、崎浜(唐桑半島の先っちょ)の方へ向かう。

松圃に入ったあたりからか、ガス(霧)がかかり始める。
唐桑、春の名物その1 「霧」。ガス、と呼ぶ。
大日様の角を右に入るころには、まちが雲の上に浮いているかのような具合だった。

「崎浜はいつもこんな調子ですか?同じ町内でも馬場は晴れてたんですけどねェ」
そうぼやくと、崎浜の住民が返す。
「ここの集落は船の上と一緒なのさ。ハハハ」
崎浜は半島の先端ゆえ三方が海に囲まれている。それでガスがかかりやすいらしい。
集落自体が海に浮かぶ船みたいなもんだ、という表現に心が動く。ここならではの情景。詩人だ。

お昼。
漁火ごだいが木曜定休日であることを思い出し、久々にみそラーメンに思いを馳せた分がっかりが大きく、ため息をついて帰路につく。
久々にゆっくり県道を走ると、眼に飛び込んでくるもの。この季節と言えば。
そう、鯉のぼり。
眼がキラキラしてくるのが自分で分かる。

遠東記では、何度か書いているだろうか。
唐桑、春の名物その2 「6月の鯉のぼり」。

唐桑では「旧暦」の端午の節句に合わせて、鯉のぼりをあげる。それも立派な鯉のぼりだ。
初夏の青空に、赤や黒に輝く御殿の瓦、新緑は深まりしっかりした緑に。
鯉のぼりはそこにさらに黒、赤、青と色を添える。
県道沿いに、何匹もの鯉のぼりが一斉に泳ぐ。唐桑の景色で最も好きな景色のひとつ。

つい先日、唐桑中学校にまちづくりの授業の講師としてお呼ばれした際に、校長先生が全校生徒に向かってこう説いておられた。
「6月の鯉のぼり。これはもう唐桑だけなんです。気仙沼の方では見られません。
旧暦に合わせるんですね、この町は今も。
旧暦とは太陰暦ですね。太陰暦は月に合わせた暦ですよね。
そう言えば、海の満ち引きも月の動きによるものですね。海と月は関係が深い。
海のまち、唐桑ですね。」と。


馬場に着くと驚いた。
馬場浜から早馬山にかけて、霧が真っ白に覆っている。早馬山と並んで白い山がそびえているかのよう。
浜から私の住むアパートに向かって、ずんずんと白い雲が上がってくる。それは畑を這い、道路を這い、私の顔にひやっと直撃する。

朝は天気がよかったのになァ、と部屋の窓をぴしゃりと閉める。

上京の仕度を住ませ、馬場のばぁばに一言挨拶に行く。
「いってらっしゃいね」

深呼吸をひとつ。もう緊張しても仕方ない。
さらば、唐桑。今度会うときのオレは、ちと違うぞ。

---

次に唐桑に帰ってきたのは6月1日の夜だった。
行きは1人だったが、2人で帰ってきた。
東京は暑く、日本中で35度を超える猛暑日がうんぬんかんぬんとニュースが騒ぐ中、夜は相変わらずひんやりした唐桑に帰ってきた。
「いや〜いいねェ。この涼しさ」と美帆が満足そうにつぶやく。

まるで夢でも見ていたような。
それにしては、祭りのあとの寂しさがチクリと心に引っかかる。

---

5月31日、結婚式を挙げてきた。

写真 (33).JPG


人との出逢いが人との出逢いを呼んで、まるで鎖のように連なるのは、モノでも活動でもなく人。
点と点を結ぶと線になるように、出逢いと出逢いを結んではその線の上を歩いてきた。

そんな人たちに集まってもらった。
ほとんどが新郎新婦共通の友人で。

親から生まれ、兄弟・従兄弟たちと育ち、中高の地元の友人とバスケやって、大学でQiaoに出逢う。たいらんに出逢い大きな夢を志し、ズジンが大好きで、故に望みを一度は失い、震災を経てかっくんに背中を押され唐桑へ。するとじいじが待っていて、かじさんらに出逢う…
…会場を見渡すと、己の四半世紀の人生の縮図を見ているようで。

テーブルごとに、私と美帆の歴史が詰まっていた。
改めて仲間と恩師の存在を実感できた、なんとも不思議でとても素晴らしい一日となった。

これからは、二人で新たな出逢いを紡ぎ進んでいきたい。

― そのような旨のスピーチをしたので、初志貫徹、今後忘れないように記しておく。
バカにされてもいい。 [2014年05月26日(Mon)]

集団的自衛権について、憲法解釈の変更でこれを可能に。さらに、それを私的諮問機関と閣議決定をもって首相が推し進めようとしている件について。

年末の「特定秘密保護法」騒動に関しても、ここで何かしら記事を書こうとしたが思いとどまった。遠東記であまり政治のことを書くのは適切ではない、と思ったから。
しかし、あれから半年。何かしらブームが去れば忘れっぽいこの国なので、ここでやっぱり言及しておきたい。自身の記録として。


1つ。具体的な話。
アメリカに守られてばかりでは対等ではない、という意見について、基地問題を常に念頭においてほしい。望まれることではないが、沖縄をはじめ、すでに日本はかなりの犠牲を伴って結果的に(米主導の)東アジアの安全保障に貢献している。
それを忘れちゃいけない。

ロシアが西に手をのばし、中国が東に手をのばし始めた。
アメリカはフィリピンに再軍備。
残念ながら、この歴史の変わり目を、感情のものさしではなく、世界史のものさしで捉えている大学生は少ない。「幕末」を知っていても「冷戦」を知らない。最高学府にいる若者として、もっと興味をもってほしい。平和も過ぎる。

1つ。理念の話。
軍事的な圧力を外交のカードにするのはもう時代遅れだと、胸を張って言える国であってほしい。「集団的自衛権が抑止力になる」なんて、もっともらしい暴論だ。
歴史を進めてきたのは、「軍事力」ではなく「理念」だ。

安保法制懇のあるメンバーが言う。「日本を普通の国にしましょうよ」
日本人は「普通」という言葉に弱い。
一方で、戦争することを「普通」だと公然と言える国になってしまった。
そんな「普通」を否定するような、安全保障先進国であってほしかった。


バカにされてもいい、
ジャップは卑怯だと罵られてもいい、
結果、国家のプライドが傷ついてもいい。
ただただ、日本人が外地で外国人を殺すような国にだけはなっちゃいけない。

「いい?戦争だけは絶対やっちゃいけないんだよ。
ほんとうに、食べるものも着るものも、なぁんにも無くなっちゃうからね。」
唐桑の90のばあちゃんたちは、今も涙を眼に浮かべてそう語る。
ようこそ消滅可能性都市へ [2014年05月09日(Fri)]

深夜、カタカタとNewパソコン Macbookを叩いていると、
聞き慣れない言葉がテレビから流れてきた。聞いたことがない割には、パッと反応してしまった。
「おっ、ついにか」と。

「消滅可能性都市。全国896自治体で2040年までに20〜30代女性が半減…」

有識者集団がこういう試算を発表した、というニュースだった。
限界集落なぁんて、なま優しい言葉じゃない。
「消滅」するらしい。
そこでこんな言葉も急浮上しているらしい。「極点社会」。
都市部以外の国土に人間がいなくなる社会が現実味を帯びてきたらしい。

朝市役所に登庁すると、同じニュースが河北新報の一面トップニュースを飾っている。
ネットで調べると、気仙沼市で減少率64.7%。県内でも高い数字。

それにしても「20〜30代の女性が半減するとその自治体は成り立たなくなる」という考えは勉強になる。
意訳すると「若い女性がまちの未来を握っている」ってこと。

---

今日の気仙沼NPO/NGO連絡会で、これまた興味深いセンテンスが。
「かつて自治会への入り口はPTAでした。今はそのPTAが機能しなくなりつつあるから、自治会もいつまで経っても世代交代できないんです」

やっぱりそうなんだ。やっぱり「若いママがまちのカギを握ってる」ってことか。
最近、じじばばの自治会と若ママPTAの馬が合わないケースがあるとかないとかという話を耳にする。
昔どおりのやり方で昔どおりやっていたら、いくら子育て環境を整えたところで、ママが集落コミュニティに参加してくれるとは限らない。かと言って従来の秩序を否定しちゃいけない。
難しい。

奥さんが東京から唐桑に引っ越してきて4日が経った。
ようこそ社会の最前線「消滅可能性都市」へ。

なんとかせんと。
「唐桑」は誰が継ぐ (シリーズ「春よ来い」@) [2014年04月16日(Wed)]

ようやく三寒四温が、二寒五温くらいになり、
桜のつぼみがぽつりぽつりと東北の春を待ちきれず開き始めた。

年度末にあった印象的な出来事をつづる、シリーズ「春よ来い」。
第一弾は、以下2月24日の日記からの抜粋。
(カッコ内:補足)
---

一昨日、千葉貫二先生が亡くなった。
あまりに急でただただ驚く。
文化人として、また地域づくりの第一人者の一人として、唐桑の一時代をつくってきた人だと認識している。
貫二先生の意向を気にして(NHK「東北発☆未来塾〜デザインの力〜」企画以降)大唐桑茶のデザインうんぬんで足踏みしていた自分を思い出す。

やはり上の人に逆らわないのが、田舎での生きる術だ、と。

しかし、どうだ。
人はある日呆気なくいなくなる。なんなんだ、これは。

弟さんの貫三さんもお歳だ。じゃあ「貫三リンゴ」は誰が受け継ぐ?
夕市のばあさまたちも10年後にはほとんどいないかもしれない。じゃあ、あのこじんまりとして、えまが愛してやまなかった直販所は誰が引き継ぐ?
一丸さんがいなくなったら?

全てがそうだ。後継者不足。少子化。
「唐桑」は誰が継ぐというのだ。
何が「唐桑」として残っていくのだ。

「人はいつ死ぬと思う?」(マンガ)ワンピースのDr.ヒルルクの珠玉の名言。
じゃあ一体、まちはいつ死ぬのか。

その土地が育んできた固有の風習が急速に失われ、日本が均一化されていく。
ここ100年で一気にだ。いや、ここ50年かもしれない。
これがグローバル化、近代化の答えだと言うなら、それをすんなり受け入れるほど私は利口ではない。

私には時間がある。「生きる時」だ。
だったら、私たちがやらなければならない。
今の偉い方々にはないものをもっている。偉くない私たちがもっている。
上の世代(の価値観)を単に引き継ぐことではない。古き良きの上に築く「創造」だ。
吉本師匠曰く「伝統とは革新」。
斉吉さん曰く「(生き続けるための)変化」。

地方に暮らす我々若者は、もっともっと挑まなければならない。
そう確信した一日だった。

(以上抜粋)
---

唐桑に「よそもの」として関わる覚悟を決めたのに、最近専ら守りに入ってしまった自分。
事を荒立てないように、「郷に入れば、なんちゃらでしょう」という言葉を盾に、保守的な自分と怠け者の自分がぬっと顔を出していた。

でも、唐桑で生きていくために「自分」を守って、
気付いたときにはもう時すでに遅し。海も畑も御殿も風習も言葉も残ってませんでした、ちゃんちゃん。
そんなのやんた。

やろう。

貫二先生の存在は大きかった。中区は寂しくなる。
改めてご冥福を祈りつつ、自分に鞭を入れた日だった。
入籍のご報告 [2014年04月12日(Sat)]

4月9日に入籍しました。

お相手は、学生時代一緒に中国で活動した仲間のひとりで、
19のときから5年と5ヶ月お付き合いした人です。

東京から東北に呼び寄せる形になりまして、
住居は引き続き気仙沼市唐桑町に置きます。
何分未熟な二人ですが、
まだまだ復興途上の唐桑にやっかいになります。
みなさまにはこれまで以上にお世話になりたいと思いますので、
どうぞ宜しくお願いいたします。

2014.04.09 加藤拓馬

写真 (4).JPG

(デザイナー歩さんに頂いたプレゼント)