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唐桑復興第一章 〜tkmの歴史〜 [2015年04月09日(Thu)]

唐桑復興第一章
ありがとうございました。
2011.03.24〜2015.03.30
1,467日分の感謝を込めて
tkm


あの年3月24日に、FIWCのりょうすけサンやみっぽたちが唐桑の馬場家に入って、復旧支援ボランティア活動を始めた。
馬場の康彦さんは自宅の離れの一室(物置)をボランティアの寝床として開放した。

私が初めて唐桑に入ったのは4月5日。
2列に分かれて10数名がぎゅうぎゅう詰めで寝袋並べて雑魚寝してて。でもめっちゃ寒かったから、これは有り難いなぁと思った。
4月7日には大きな余震があり、その日はみんなヘルメットを被ったまま雑魚寝した。
150409_01.JPG

(当時の「tkm」)

GWには約70名のFIWCのボランティアが唐桑に来たため、馬場家の裏にあるビニールハウスの中にテントを張って寝床とした。そのためその物置から寝袋は消え、代わりに木のテーブルが入った。

ある夜には、馬場さんと何名かのメンバーが集まり、ロウソクを灯してテーブルを囲み、暗がりの中リオの歌声と大地のギターの奏でる音に耳を傾けた。即興でコラボした2人のアーティストが奏でる「Amazing Grace」が終わったとき、ガレキの景色と日々の喧騒からすっと抜け出したこの時間と空間に、みんなで涙した。あの頃の馬場さんはよく泣いてたっけ。

GWが終わると、りょうすけサン、みっぽ、みなみ、私という初期の滞在メンバーが最後4人でその物置に再び寝袋を並べた。
「この4人で(1ヶ月間活動を)やれたことを誇りに思う」
リーダーのりょうすけサンが真っ暗闇の中でつぶやいた一言が忘れられない。
(記事:2011/05/10「GWキャンプが終わり・・・」


その翌日からは私がひとりでその部屋に住み着くこととなった。そのため「office-tkm」と名付けられた。(りょうすけサンが経営する会社「office-RSK」から取って。)
その間も、ボランティアが代わる代わるtkmにやってきた。
謎の虫が大量発生して「カラクワオオタクマ」と名付けられた。掃除機で吸っても吸っても減らない。諦めた私は、しばらくそいつらと同居した。その正体は、小豆から大量発生していたアズキマメゾウムシ。tkmの小豆の袋を発見した馬場さんは、灯油までかけて焼却した。

夏に常駐したメンバーが何人かいたが、みんな馬場家の裏に設置したプレハブ「癒し屋」(現・ビン玉)に寝泊まりした。
夏からは、りょうたがやってきて半年間唐桑に常駐した。りょうたも癒し屋に寝泊まりした。

GWから9ヶ月後、私はtkmを出て、目の前のアパートに居を移した。これにてtkmは閉鎖…とはならず、すぐに次の住人が来た。1年間常駐を決意した、えま、いつこ、しょうこ、くによしの4人だ。

その4人と2012年「からくわ丸」を立ち上げ、活動は「まちづくり」のフェーズに入った。
くによしはすぐにご近所の小松屋さんの離れに寝床を移したため、tkmはその後えまたち女子3人の1Rルームシェアが始まった。tkmはこうして女子部屋となった。
彼女たちだけではなく、訪れるボランティアの宿泊場所としてtkmは引き続き活用された。


2013年、えまたちが1年間の常駐を終えると、入れ替わりで卒業したばかりのまゆみがやってきた。まゆみは唐桑に移住を決意、tkm(つまり馬場家)に住所を移した。
その間も大学生は夏休みと春休みを中心にやってくる。
いつの間にか、男子は国昭さんの「カエル亭」(現・カエル塾)に、女子はtkmに泊まるようになった。

2014年、卒業したさちをが唐桑に移住することとなった。さちをは、まゆみとやはりtkmに住むようになった。
そして2人で住めるような空き家を探し始めた。2014年夏、2人はtkmを卒業、松圃(まつばたけ)地区の空き家でシェアハウスを始めた。

これで一区切り…かと思いきや、次はみっぽとえまが卒業したら唐桑に移住することを決意。
春からみっぽ&えまは空き家を探してシェアハウスをすることにした。
その準備のため、tkmには秋以降もなんだりかんだりえまたちが出入りした。
そのうち、春休みになると大学生がまたやってきてtkmを活用した。


そして今年の3月30日。
大学生はみな帰り、
みっぽ&えまはtkmを卒業して、松圃地区の空き家に移住した。
ほかにも3名外から唐桑に移住する仲間がいて、もう一軒、またまた松圃地区の空き家を借りることができた。
これで、今春以降のビジター(大学生)の宿泊機能は、彼らの新居が受け持ってくれるだろう。

話は逸れるが、この春唐桑へ移住した者は計5名、震災以降の移住者は私含め計9名に上る。そして、空き家計3軒の紹介とシェアハウス「移住者テ○スハウス」を実現。
我ながら驚きの多さだ。
ウチの仲間は、一気にIターンやら移住定住といった「地方創生ブーム」の波に乗り始める。きっと。
…とまぁこの話はまた長くなるので、ここでは一旦置いていく。
話をtkmに戻す。

さて、これでホントの一区切り。
つまり、tkmはその役割を一旦全うした。
大学生の受入れ機能を終えたこと、そして一等最初に唐桑入りしたみっぽと1年以上滞在したえまがtkmを出たことが、それを象徴する。

その間なんと1,467日間、何人が訪れたのか定かではないが、馬場家の家族みんなに語りつくせないお世話とご迷惑をかけた。

あくまで「中締め」。これまでの謝意を込めて馬場家へ花を贈る。
150409_02.JPG

---

この日(3月29日)の昼間のことである。
この3月をもって大谷さんが唐桑を出る、というので、最後に「漁火ごだい」で昼食をとることになっていた。
移住して来る人がいれば、出て行く人もいる。

大谷さんも2011年4月に復興ボランティアで唐桑に入ってきた一人だ。他団体の方だったが、当時からお世話になった。
そして、まさに地獄絵図のような2011年の春から現在に至るまでずっと唐桑にいる長期滞在者は、今や大谷さんと私だけであった。
その大谷さんが唐桑を出ていくことは、私にとって何とも言えない感傷を生む。
あの春、あれだけ大量のボランティアがいたのに。
最後のひとりになっちゃったね。もう一人の自分が鼻で笑う。
孤独感と同時にヒロイックな気分に浸る自分。
私はひとり「生き残ってしまった」、と日記に書いた。

そんなことを考えながら、その大谷さんを漁火ごだいで待つ。
「お待たせしました」と大谷さんが現れる。
彼は席につき、息をすぅっと吸うと
「復興第一章が、終わるね」
と、静かに言い放った。
第二章を頼む、とまでは言わないけど、がんばってね。そんな感じの声。


あぁ、そういうことか。
唐桑は震災から4年、ようやく復興第一章を終えたんだ。

さて、これでホントの一区切り。
遠東記第四章も、おしまいにすることにした。

---

そして私は、翌30日、法務局にて法人登記の準備を完了した。
2015年度がやってくる。
2015年3月11日 [2015年03月22日(Sun)]

2015年3月11日−

唐桑町馬場の浜。
必ず毎年ここでこっそり黙祷を捧げる。
小さな小さな祠の前で。この浜の神様の前で。

目を閉じて立ちつくしていると、ごっと浜風が吹きつける。
目を閉じて足を揃えて直立しているからか、くらくらっとよろけそうになる。

まだまだよろける訳にはいかないのよさ。
不安な春 [2015年03月08日(Sun)]

「不安か?」

「…はい。」

「不安を楽しめ。
人は『自由』になると『不安』を感じる。
あなたはこれをしてください、あれをすべきです、と他人から言われる方がよっぽど楽。
何をしてもいいですよっていう状況が実は一番大変や。不安でしかない」

春休みに唐桑に長期滞在している大学生が悩んでいる。
自分は一体唐桑で何をやっているのだろう?
それを明らかにするため唐桑に来たが、滞在すればするほどそれに霧がかかっていく。
長期滞在によくある現象。
ただ一旦霧で前が全く見えなくなったら、あとは晴れるのを待つだけだったりする。

「真っ白な丸い部屋にいるとする。
そこにひとつのドアがある。
『どうぞ次に進んでください』と言われると、人は迷いなくそのドアを空ける。

一方、真っ白な丸い部屋に無数のドアがついているとする。
すると…人の足は止まる。
ドアがたくさんあるときの方が、逆に人は進めへんねん。

選択の自由は怖い。責任が自分にあるからや。
自分が今不安なんは、逆に言えば、自分の前にいっぱいのドアがあるってこと。
こんなに不安で楽しいことはないなぁ」

たま〜にプレハブ小屋で始まる大学生対象活動相談室。という名目で俺が呑んでるだけ。
話している途中から、
自分自身に必死に言い聞かせていることに気づいて閉口した。

26歳になった。
20代を折り返した。
この春は、なんとも「不安」で「自由」な春である。
原田燎太郎氏の唐桑中学校講演B完 [2015年03月05日(Thu)]

つづき

彼のプレゼンが終わると、私も登壇する。
彼と私の対談形式で生徒に質問を聞いていく。

その中で私が故・鈴木重雄さんの話をすることになっていた。
「今日はみんなに一人紹介したい人がいます。
この銅像、どこにあるか知ってる?」
スライドには、2011年唐桑に来たばかりのときに撮った写真。鈴木重雄さんの銅像の左右に馬場康彦さんと私。
「はい!」
ある子が挙手。
「崎浜の…からくわ荘…ですか?」
一人だけ知っている子がいた。

私は鈴木重雄さんの話を子どもたちにした。

越路の話。
愛生園の話。
そして「あの1973町長選挙」の話。
高松園の話。

「当時選挙応援に駆けつけた大先輩たちによく言われます。
『唐桑はキセキのまちだ!』って。
『唐桑はキセキのまちなんやで!』って。
その大先輩たちと唐桑のつながりは鈴木重雄さんが亡くなった後も、馬場さんに引き継がれていきました。

その選挙から40年。
東日本大震災が起きました。
だからね、馬場さんは僕たちにこう言いました。
『鈴木重雄さんがお前たちを唐桑に連れてきてくれたんだなぁ』…って」
自分の話に酔ったのか、ぐわっとこみ上げるものがあって、思わず視界が歪む。
「そういう人のつながりを辿って、俺は今ここで活動しています。
みんなも、そういう人(重雄さん)がこのまちの先輩にいることを知ってほしい」

これは私にとって、この4年弱の唐桑生活の中で一番大きな事件だったかもしれない。
私の原点を生んでくれた原田燎太郎が唐桑で語ったのだから。
ようやく鈴木重雄さんと馬場康彦さんの話を唐桑で公然と語れたのだから。

授業が終わると、校長先生が真剣な顔つきを崩さず彼のもとにやってくる。
「私は最高の時間を過ごしたかもしれません。子どもたちは最高の学びを得たのかもしれません」
教頭先生も興奮さめやらぬ様子。
「子どもたちに種は蒔かれました。
あとは子どもたちがこの種をどう育てていくか、です」

この熱いお二方がいたからこそ、この企画が実現した。
一番感謝しなければ。

私たちが唐桑に来たもう一つの本当の理由を明かした日となった。
「震災」と、もう一つ。

「らい」。
原田燎太郎氏の唐桑中学校講演A [2015年03月03日(Tue)]

つづき

中国のハンセン病快復村に移り住んだ原田氏は、ソウチンクワンら村人(快復者)が差別が故に今も故郷に帰れないことを知る。

「なんで?
ハンセン病はもう治っているのに。

『中国の地元の大学生』を巻き込んで活動をしたい。
そう思うようになった…」

それから12年が経った。
今では日中の大学生や若者ら年間2000人が華南のハンセン病快復村を訪れ、ワークキャンプを通してインフラ整備や啓発活動に取り組む。
彼は2004年に「家JIA」というNGOを立ち上げ、そこが事務局としてキャンパー(キャンプする人)をコーディネートしている。

その2000人の内の1人が、大学時代の私だった。

授業はまとめに入る。
「今日はみんなに贈る言葉があります。

『心の英雄の叫びに従え』」

心には英雄がいて、その英雄が時々ざわつき、必死に何かを叫びだすときがくる。―その叫びに従えばいい。
私も大好きな言葉。白根大輔の言葉。
彼のプレゼンを聞いていると、走馬灯のように私の頭がいろんなシーンを再生し、アドレナリンが出る。

「Anyway i believe your sense.
Don't obey the voice of the others,
but obey the voice of the hero of your soul.

love,
ryotaro
2011.3.26」
あのメールがすっとよぎる。

中学生に優しく強く静かに語る彼の声が一瞬震える。
「もうソウチンクワンはこの世にいないけど、俺の中で彼の魂は生きている」
彼は拳を胸にあてる。
中学生を引き付ける。
校長先生、教頭先生は目を見開いて聞いている。
「みんながいがみ合う世の中じゃなくて、支え合う世の中にしていきたい。
でも、そんな大きなことばかり言ってもピンと来ない。
そこで最後にもう一つ贈る言葉、
『大切な人は実は身近にいる』ということ。
隣の子を見てみて。
家族を思って…」

教頭先生がぐっと頷いた。
中国・ハンセン病・ワークキャンプの話を通して、彼は子どもたちに差別、夢、仲間、家族…いろんなものを投げかける。

つづく
原田燎太郎氏の唐桑中学校講演@ [2015年02月21日(Sat)]

2008年2月頭。
中国・広州。
ガチャリとアパートの扉が開き、暗闇にオレンジ色の灯りが広がる。柵が開く。
大きな男のシルエットが現れる。
「加藤拓馬です」ぐぃっと胸を起こす。
「タクマ。―よろしく」
静かな声とともに手がぬっと出てきた。それを掴む。
(なんておっきな手なんや)
彼の長女リンホウちゃんが生まれて数日しか経ってないその日、私は彼と初めて会った。


2015年1月末。
日本・唐桑。
「リンちゃん、いくつになる?」
「リンはもうすぐ7歳」
「ほな、もう7年経つん?」
大笑いが起きる。カチャンと日本酒の入ったコップが鳴る。

原田燎太郎氏。
中国の活動家、とでも言おうか。
早稲田大学卒業後、そのまま中国の辺境にある「ハンセン病快復村」に移り住み、NGOを立ち上げた男。

今回は彼にとって2度目の唐桑訪問。
1月28日、唐桑中学校で1・2年生を対象に彼の授業が始まった。
今回私は、道徳/志教育の時間を頂いて彼に講義をしてもらう企画を立てた。校長先生、教頭先生がそれを受け入れてくれた。

彼はどういう子ども時代を送ったのか。話は1枚のカメの写真から始まった。
「将来なりたいものはカメさんだった。
中学のときはいじめられっこだった。
殻に閉じこもっていたかった。
大学に行っても、就職活動に失敗し、周りの目ばかり気にして、俺は誰にも必要とされていないと絶望していた。
そんなとき、俺を唯一必要としてくれる人がいた。
西尾雄志。
彼もまた当時絶望していた。
『りょうたろう、どんっとでかいことやろうぜ』彼はそう言い、俺たちは乾杯した。
彼の『でかいこと』、それが中国ハンセン病快復村でのワークキャンプだった。」

子どもたちにハンセン病の説明をする。
ハンセン病はかつて日本では「らい」と呼ばれ、ほんの半世紀とちょっと前までは外見が変形する不治の病として怖れられ、患者の隔離がどの国でも行われた。治療方法が確立した後も、その後遺症故に差別・偏見が快復者の社会復帰を阻んだ。
しかし、その正体は末梢神経を冒す微弱な菌だった。
これは古今東西、世界共通の話。

「俺は中国のリンホウ村というハンセン病快復村で元患者・ソウチンクワンに出逢う。
そして差別にさらされているにも関わらず自分らしく生き抜く彼にいつしか惹かれていった。
彼の変形した外見を見るのではなく、彼の内面・魂を感じるようになっていた。
『ちいせぇ』
周りの目ばかり気にしている自分の小ささが嫌になった。
『ソウチンクワンに学びたい』
俺は大学を卒業し、リンホウ村に住むことを決意した。
もう他人の目は気にしないことにした」

つづく
原点回帰 そのA社会の矛盾に出逢う [2015年02月05日(Thu)]

つづき

閉会の挨拶で西尾さんが重ねて若者を激励する。
いつも西尾さんがしている話。私がもっとも好きな西尾さんのスピーチのひとつ。
それと同じ話を述べた文章から一部引用する。

------
佐藤優という元外交官の作家がいます。
彼によると、今の日本は、社会が弱い状況にあるといいます。
そして、社会を強くするためには、大きな夢をもつことが必要だといいます。

「大きな夢」とは何でしょうか。
彼は次のように言います。

「会社の社長になりたい、中央官庁の事務次官になりたい、あるいは、総理大臣になりたいなどの夢はスケールが小さすぎます。貧困がまったく存在しない社会、絶対に戦争がない世界、これが私の大きな夢、すなわち『究極的なもの』です。こういう夢を実現することに満足を感じる、言い換えるならば、大きな、とてつもなく大きな夢がエゴとなる人が増えれば社会は強化されると私は考えます」

佐藤の言う夢とは、彼の指摘する通り、究極の領域に属するもので、実現可能性からいえば、人間の手によっては不可能な領域に属します。
しかし僕も、佐藤の言うとおり、今の若者にそういった夢を持ってもらいたいと思っています。
------
日本財団学生ボランティアセンター(Gakuvo)代表挨拶http://gakuvo.jp/about/message/より一部抜粋。改行筆者)

もし大学生がこれを読んでくれていたなら、是非全文を読んでいただきたい。
名文だ。

西尾さんは語る。
「社会の矛盾に出逢うこと、そこで人に会うこと」
これこそ学生に求めたい、と。

何度聞いても心が震える。
ハンセン病然り、薬害エイズ然り、ジェンダーマイノリティ然り、被災地然り…
郭晃彰との出逢いもここから生まれた。

「しっかり原点に帰っておいで」
唐桑を出るとき、そう康彦さんに激励された。
そのとおり原点回帰の1日となった。
原点回帰 その@唯一のリーダーシップとは [2015年01月30日(Fri)]

1月22日、早稲田大学にて
「ハンセン病でつながる若者と世界」合同シンポジウムが開催。

アジア各国のハンセン病快復村(コロニー)にてワークキャンプを実施してきた若者が集まってプレゼンをしていく。
中国・フィリピン・ベトナム・インド・日本。
あと、私。
_MG_8551 のコピー.jpg


会の途中、日本財団笹川陽平会長と座談会がある。
「笹川会長に聞きたいこと聞いちゃおう〜」という趣旨らしい。
あまり知られていないが、日本財団とハンセン病の縁は深く、笹川会長は世界保健機関(WHO)ハンセン病制圧大使として40年も現場を回りながら活動を続けている。

「はい、普段はダライラマ法王や各国首脳と会談するような方ですが、どうぞ皆さん緊張しないように」と茶化すのは、ファシリテーターの日本財団学生ボランティアセンター(Gakuvo)代表・西尾雄志。私の大学時代の恩師だ。

私の質問はこうだった。
「私は中国でのハンセン病快復村ワークキャンプの活動が原点にあり、今東北で活動をしています。
ハンセン病やワークキャンプに携わる若者が、今後大きな災害などの社会問題に立ち向かうリーダーとして羽ばたいていくことが期待されますうんぬんかんぬん…
会長にとってリーダーシップとはなんですか?」

会長曰く
「リーダーシップとは、先ほどから申していますとおり“リクスをとること”です。
今、しっかりリスクをとる政治家はいますか。
昔は責任者が腹を切ったんですから。
そういうリスクを背負ってリーダーは采配をしていた。

唯一のリーダーシップは、“リスクをとる”ことです」


なるほど。
会長は若者へのエールとして繰り返し述べる。
「今の若者はリスクをとらない。
『なんとかなる』んです。
今の日本で餓死しますか?
世界全体を考えると、今日本の安全な環境の方がむしろ異常なんです。
今の自分の立ち位置を世界レベルで捉えられる若者が必要なんです」
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私も大学生相手によくくだを巻く。
「日本に生まれたこと、さらにその中でも大学に通わせてもらえる家庭に生まれたこと、今自由に学べる立場にあることは、世界の人口を考えた場合、奇跡的な確率やろ。
その奇跡的な確率に当たった自分たちが、世界を少しでもよくしようと考えることは何ら不思議ではなく、むしろ当然のことのようにも思えるんやけどなぁ…」

今の日本社会はリスクを排除し過ぎる社会だ。
その結果、何かが弱くなっているのかもしれない。

つづく
強く生きる覚悟 [2015年01月24日(Sat)]

突然の訃報でした。

酒を入れて1回大泣きして、落ち着かせました。

彼が唐桑の震災復旧に貢献したものは計り知れず、
彼が唐桑の震災復興に期待していたものもまた人一倍大きいものでした。

彼が私の活動に協力してくれたものは計り知れず、
彼が私の活動に期待してくれていたものもまた人一倍大きいものでした。

まだ期待に応えられてないのに。

若くして逝くことの罪深さを痛感し、強く生きる覚悟を新たにします。
2015年1月17日 [2015年01月17日(Sat)]

2015年1月17日午前5時46分。
宮城県気仙沼市唐桑のアパートで寝ている。

2010年1月17日東京都中野区鷺宮
2005年1月17日兵庫県姫路市英賀保
2000年1月17日兵庫県姫路市英賀保

1995年1月17日午前5時46分。
兵庫県神戸市東灘区魚崎のアパートで寝ている。
当時5歳。魚崎幼稚園の園児。
大好きな姫路のおばあちゃんといる夢を見ている。
おばあちゃんの隣に寝てて、なぜか必死にしがみついている。
起きたのは全てが終わった後だった。
起きてみるとおばあちゃんはもちろんおらず、いつもどおりの父と母と弟。
ただ家の中が一変している。

隣の部屋はたんすが折り重なり、リビングとキッチンは食器が散乱している。
食器棚の扉がぷらんと開いている。
電子レンジ?炊飯器?はあったはずの場所になく、部屋の反対側に転がっている。
真横に飛んだらしい。

父がガラス破片を避けながら玄関まで行って、しばらくして家族の靴を持ってくる。
父は和室の寝室の前にそれを置く。
家の中で靴を履くことが不思議で抵抗を感じる。

私は靴を履いた。
あの日の朝の記憶はここで途切れる。
あとは断片的。

この後、父と母は崩壊した魚崎のまちを見て何を想ったのだろう。
分からない。
なぜだろう。知りたいのは知りたいが、聞く気にはなれない。

阪神大震災が大嫌いだからだ。
本当に嫌いだ。
あの日からいろいろ変わったから。
変わってよかったこともたくさんある。
姫路に引っ越してよかった。姫路が好きだ。

でも、変わってほしくなかったことも子どもなりにあった。

---

3年前も同じような記事を書いていた。
「震災が憎い」https://blog.canpan.info/entoki/archive/99

震災を舐めてはいけない。
いずれ必ず来る南海トラフの震災に今から備えることが必要だ。

---

先日、唐桑で友人と酒を呑みながらふと阪神の話になり、
「20年になるんやなぁ」
とこぼした途端、涙腺がゆるんだ。
なんでかは分からない。
かなり酔いがまわっていたんだろう。
なんでかは分からないんだけど、涙腺がゆるんだ自分に安堵した。
阪神・淡路大震災を忘れていなかった。

ただこれからは、
憎しみだけじゃなく、
あの震災のど真ん中にいながらも、
それを乗り越え、自分たち兄弟を育ててくれた家族に感謝する日にもしよう。


最後に
今は他界した友人へ。

統くんー、あれからもう
20年も経ったで。
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