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震災が憎い [2011年12月31日(Sat)]

あれはいつだったか。
我らが拠点のプレハブでお別れ会が開かれた。

避難所で仲良くなった小学生のタイヨウとそのお母さんは、中国へ一時引っ越すことになった。お母さんの実家が中国だからだ。父親は唐桑に残る。
お別れ会では、そのお母さんが餃子を振るまってくれた。ウチのメンバーや、子どもキャンプのゴリさん、地元の仲のいい人たちが集まる。餃子がとにかく美味かった。

「元気でな。帰ってこいよ」
みんなで見送る。寂しいのはトムやコウセイ…タイヨウの友だちだ。避難所生活から今まで、震災からずっと一緒だったのだ。

涙が出そうになる。タイヨウは1年で帰ってくる予定なのだが、何故かもう帰ってこない気がした。
自分がそうだったから。神戸を思い出していた。

---

1995年1月17日、阪神・淡路大震災。
東灘区は震度7。ウチはアパートだった。
私は起きなかった。そのため、地震のトラウマは残らなかった。寝起きが悪いのはこの頃からだったようだ。
でも夢の中で、姫路のおばあちゃんにしがみついていた気がする。

起きて「今日、幼稚園ないん?」と母親に聞いたらしい。「あるわけないやないの!」と母親。未だに笑い話として残っている。
隣の部屋でそろそろ一人で寝なさいと母親に言われていた気がする。その部屋が震災の日、タンスで潰れていた。地震のとき、両親は必死に僕ら兄弟に布団をかけて守ってくれたらしい。一緒に寝ていてよかった。

記憶というのは断片的だ。
リビングは悲惨だった。食器という食器が散乱し、電子レンジは揺れでぶっ飛んでた気がする。歩ける状態でなかったので、父親が玄関から靴を持ってきてくれた。畳の寝室の前に、靴が置かれた。家の中に靴。それが不思議だった。

1月17日は余震が続くので、一家で車中泊だった。狭かった。
姫路のじいちゃんは、すぐに車で神戸を目指したらしい。
自衛隊のお風呂は楽しかった。公園がお祭りのようだったから。

幼なじみの統くんが住んでいたマンションは、ヒビだらけだった。X字のヒビが各階に刻まれた白いマンション。半地下の駐車場は、半壊状態だった気がする。
お隣の一軒家はぺしゃんこになり、確か花束が置いてあった気がする。道路に風呂のタイルが散らばっていたっけ。
近所の公園付近の家もことごとく壊れていた気がする。父親と自転車に乗る練習をした小さな公園だった。家がそのまま道路にぬっと飛び出し、道路をふさいでいた。魚崎幼稚園へ通園する道だった。

記憶はこれくらいしかない。被災風景の記憶があるのみで、何をしただとかは覚えてない。それほど、被災風景がショックだったのかもしれない。

大震災が起きてまもなく、私は母親の実家に移った。姫路だった。
すぐに、姫路の英賀保幼稚園に転園した。
父親は勤め先が大阪だったので神戸のアパートに残った。

近所の仲よし友だちも、統くんも、ことごとく神戸を離れた。
ばらばらになった。

姫路のじいちゃんばあちゃんが大好きだったので、姫路での生活は楽しかった気がする。
姫路は震度4か5で、被害は少なかった。
新しい幼稚園の園庭でみんなに囲まれて、震災の話をした記憶がある。ヒーロー気分だった。

小学生になった。
神戸の友だちとはその後、会うことはほとんどなかった。統くんに会いに、垂水だったっけ、母親と行った記憶がある。しんちゃんやともちゃんにも会ったっけ。確かお互い成長して、別人みたいになってて、距離を感じた気がする。

父親が単身赴任状態だったので、神戸に何度も通った。明石海峡大橋ができていく様子を電車から見ながら。大きな橋だった。
弟を連れて、2人だけで神戸に行けるようになった。姫路と三ノ宮で乗り換えればいいのだ。新快速から各停に乗り換える。成長したなぁと小学生ながらに思った。
小学校で姫路の播州弁を覚えて帰ると、家で母親に「そんな汚い言葉使わんとき!」と怒られた。それほど、自他共に認めるほど、播州弁は汚い。笑

神戸の街はどんどんキレイになっていった。新しい建物が建った。ウチのアパートの部屋は、父親がキレイに改造した。震災のとき寝ていた畳の部屋は、フローリングになった。黒ぶちの多角形の時計だけは一緒だった気がする。
でも、なぜか受け入れられない。自分の知っている魚崎でなくなった。
よく母親と通った公園もすっかり変わってしまった。かわい公園だったっけ。仮設住宅が建ってた気がする。それが不気味だったことも覚えている。ここには、どんな人が住んでいるんだろう。検討もつかない。
そもそもすぐに姫路に移った自分には、仮設が何なのかすら分からない。

両親の仲は悪くなっていった。神戸で母親が泣くのも見た。父親が憎かったし、怖かった。
母親の涙は、幼い子どもからすれば恐怖でしかない。世界が終わるのではないか、と思うほど怖くなる。いつも気丈で、いつも一緒にいる母親がぐらぐらと揺れているのだ。

何年か後、父親が姫路に引っ越してきた。両親の仲はよくなった、と子どもながらにそう思った。
中学生になった。休日は父とキャッチボールをした。それが嬉しかった。
ここではっきりしたことがある。あれらは震災のせいだったんだ。震災を憎んだ。

震災が本当にばらばらにするのは町や家屋ではない。
友だちとばらばらになった。家族がばらばらになった。
本当の故郷は神戸だったのに、想い出と自分もばらばらになった。震災が憎い。
地震のトラウマは残らなかったけど、別の何かでトラウマは残った。

---

タイヨウの友だちはどんな気持ちなんだろう。仲の良かったトムは、お別れ会の後、声を殺して泣いていたらしい。
あぁ、なんで震災は友だちを奪い去ってしまうんだ。幼いタイヨウやトムが何をしたというのか。

後日、ハロウィンパーティーでトムやコウセイと話す。
「避難所の方がよかったよな」
なんで?
「みんなと遊べたもん」
仮設では遊べないの?
「うーん。あんまり」

タイヨウやトムやコウセイ、ナツ、リク…名前を挙げるときりがないが、避難所の高松園でキャッチボールをしていたのは遠い昔のことのようだ。

もうすぐ年が明ける。
風化していいものと、風化しちゃいけないものがある。
【第二章 まちづくりへ(11.10-12.4)の最新記事】
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