津波大国〜地震が起きたら高台へ [2011年10月28日(Fri)]
ある地元の方Aさんは酔って言う。
「おれたちは海からの恩恵を受けてきた。 海を恨んだってどうすんの。 1000年に1回だ。高台移転より、再び海に挑戦しろ! 地震時に高台に逃げれば命は助かる。それでいい」 酔った漁師のBさんは言う。 「いいか。地震があったら高台へ。おれらが若いモンに伝えたいのはこれだ。 意識の問題だ。 あの日、(地震から津波到達まで)40〜50分あった。 こう言っちゃ悪いが、意識の違いだ」 --- この地域は、津波の歴史と共にある。 明治の大津波、昭和の大津波、チリ地震の大津波。 言い伝えのように、「明治の津波はここまで来た。昭和のときは…」 と津波の到達ラインが語り継がれている。町中にもそれに関する看板、石碑などがちらほら。 津波にちなんだ地名・屋号(家のニックネーム)も多いという。 代表例は、唐桑名物「折石(おれいし・おりいし)」だ。 断崖絶壁に力強く男根のようにそびえ立つ石、唐桑のシンボルなのだが、過去の津波で先端が折れた。そのため、このような名がつく。ちなみに今回は折れなかった。 「折(おり)さん」という屋号もあるらしい。どうやらそこが津波の折り返した地点なので、そう呼ばれるらしい。 実は今回、その言い伝えがあだとなる。 つまり、「過去の大津波ではここまで来なかったのだから、ここに来ることは絶対ない」と油断し、避難せずに家に残った年配の方が多かった。 そして、今回の津波は歴代の到達ラインを遥かに超えるものだった。 逃げようとしない年配の方を迎えに行って、共に流された方も多い。 誰もが想像だにしなかった。 大沢地区では指定された避難場所が流された。その避難指定場所からは遺体が多く見つかる。避難した人が流されることほどの悲劇はない。 ちなみにまだその避難所は廃墟として残っている。私にとっても一生忘れられない場所だ。 --- すべての人が生死の狭間に立った40〜50分。 その間の行動が全てだった。 高台へ一目散に逃げた人。 逃げなかった人。 一旦高台へ逃げたが家族が見当たらず、自宅にまた向かった人。 周りの制止を振り切り、息子を迎えに行った人。 興味本位で海岸に留まった人。 船を守るため、沖に出た人。 沖に出ても、ここまで来れば大丈夫と途中で船を停めてしまった人。 油断、警戒、興味、恐怖。 想像してみよう。ある日突然、40〜50分間天秤の真ん中に立たされるのだ。 誰が亡くなってもおかしくはなかった。 その上に生きている人たち。 その人たちが言う。「海を恨むな。地震が起きたら一目散に高台へ」 しかし、残念なことにその経験・警告は徐々に風化していく。 100年後、今回の「反省」は「昔話」になる。 今は、誰もが海岸沿いに家を建てたくない。しかし、時が経てばまた家々が海を目指して立ち並ぶ。そして再び流される。まぁAさんに言わせれば、それも悪くないということだろう。 恐怖の風化こそ復興には欠かせないのだ。難しいものだ。 まさに、災害とその風化がこの町の歴史を紡ぐ。 --- 世界に誇る防潮堤たちを嘲笑うように破壊していった今回の津波。 人工物の無力さを思い知る。 今、「防災」から「減災」へと意識を変えるべきだと言う人もいる。 津波を完全に防ぎ被害をゼロにするのではなく、被害を最小限に抑えようという考え方だ。 減災のための公園。 津波の浸入を想定した上で、波を一ヶ所に集め、波の高さを抑えていくものだ。浸入を阻止する堤防とはそもそもの考え方が異なる。 高台の灯台。 今回、不幸中の幸いは昼間だったということ。もし、夜だったら。停電して何も見えない中、被害は拡大したに違いない。そこで、停電しない灯台を高台に建て、いざという時の避難目印にする。丘の上に灯台という発想がおもしろい。 この減災という考え方が、一番現実的で効果的だと考える。 --- 気仙沼でとんでもない案が出ていると聞いた。10メートルを超える堤防の建設だ。 それを唐桑中に張り巡らせるという。何なんだそれは。 過去にこんな例がある。津波の反省を活かし、高々と堤防を海岸に建設した結果、観光客が激減した町。「景観」という概念を無視した結果だ。 そのプランを教えてくれた人は、もちろん反対。「そんなもん絶対阻止だ」 「なんで、そんな馬鹿げたことを?失敗例もある。唐桑に人が寄り付かなくなりますよ」 怒り気味に聞く。 「利権だよ。利権が絡んでるんだ」 カネが人を狂わせる。 --- みきおサンは口癖のように言う。 「幸せにならなくていい。幸せに近ければいいんだ」 全てにおいて、それが言えるのかもしれない。 人生然り、町づくり然り。 |