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教えない教育は、自分で表現しながら考える [2021年12月30日(Thu)]

なぜか、私たちは周りが休みにならないと始終呼び出されます。ようやく、年末ギリギリで休みになったかなあという感じです。

不登校の子どもも、引きこもられては大変だ(笑)と危機感を持った人たちに、いつも声かけされて大変だと思います。「放っておいてほしい」と思う時と「適当に声かけしてほしい」という思いが交錯している状況なのかと推察しています。

さて今日は、学びの話です。

多くの人は、知識が少ないから社会経験を積まなければ?本を読んで知識を増やさなければと思い込んでいます。不登校の子どもにもこのような、知識集積主義?の影響がはかりしれなく影響をしています。
生きる充実感が少ないという問題と、知識を増やすということは、全く別物と言っていいくらいに違うことだと私は考えています。いまある自分を、大きな視点で理解できないと、人はいつまでも自分は足りていないから、ダメだと烙印を押し続ける存在になります。

いまある自分でも十分に、挑戦も可能性も開けるのに、あえてそれをしないのはなぜか。

自分の中のリミッター(限界をつくる自分)を超えることができないからだと思います。

フリースクールは、どんな教え方をしているのですか?と聞かれて、「特に何も教えていないですよ」というのは、知識の量ではなく、思考の型や基本形さえ手に入れれば、どんどん自分が表現してゆけばいいと思っているからです。知識の量で表現力が向上するわけではありません。
どんどん表現して、大失敗しながら、笑われながら手に入れるものが表現力なんだと思います。

それでいいんです。どうせそれをバカにする人間は、特に仲良くならなくてもいいです。まして、その人のいうことを聞く必要もないのです。
子どもたちにとっての「良い教育」を! [2021年12月29日(Wed)]

良い教育とは何か?
ここ数年の、「こども庁」の議論を見ていると。子ども中心というよりは、「大人の思い」中心の教育論が、優勢である。「こどもに教育を選ぶことなどできるかねえ」「学校にゆかなくてもいいとか、学校にゆかない権利を守る」ということは認められないと政治家も官僚も言います。私は、戦後教育がつくってきた教育の独立や、国民の中での多様な意見の尊重が意図的に消されてゆくようで、がっかりさせられます。まさに、一言で言えば、制度中心の教育論が復活してきています。選択肢を与えるから子どもがゲームや遊びに夢中になって、社会のことを考えなくなるという論理がまかり通るようになってきました。
 子どもたちは、自分の頭で考えるように意思決定や思考プロセスをつくったり、対話を通じたゆっくりと自分の言葉を紡ぎ出すような学びが、学校教育制度の中で認められたとしたら、社会はもっと変化してゆく可能性があります。制度の中での自由や選択を全く否定しているわけではありません。
 もちろん制度内での改革も大事ですが、どうしても制度に合わないこどももいます。彼らを制度から自由にしたら、もっと能動的に学ぶこどもが増えると思います。良い教育は、こどもが制限されない中で思考や意見を伸ばすところから生まれるからです。
 こどもにとっての自由や選択肢の限定、制約を大人たちはあまりに無自覚にかけすぎているのではないでしょうか?家庭がしっかりすればこどもは育つ?という家庭中心主義の発想が、こどもを生きにくくしているという、「大人の側」からの主体的な反省は、いったいどこに消えたのでしょう?こどもや親の辛さは誰が聞いてくれるのでしょう?
「決まりきったことをなぞること」のつまらなさについて [2021年12月04日(Sat)]

 当団体、高校生ボランティアに、自分たちの活動の発表をしてもらった時に、学校では決まりきったことしかしていなくてつまらなかったけれど、方丈舎の活動ではいつも答えがないから、楽しいということに喜びを感じます。
答えはいつも決められていません。正しいことも間違ったこともありません。でも、そこに関わる人の学びになることが、私たちにとってとても大事なことだと思っています。なぞることをやめた時に、「ふと自分が見える」ように。
私たちは、みなさんと経験を共にしたいと考えています。