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フリースクールでは、何を大切にしていますか [2021年06月29日(Tue)]

私たちが一番大事にしているのは、何者にもとらわれないで考え、行動してゆく自由です。その自由は、他人の行動を妨害したり、権利を侵害しない限り認められます。私たちは、無限に開かれた社会に存在しているので、誰かに制限をかけられない限りどんどん自由に発想してゆくことが止まらないこともあります。

 フリースクールは、あれは無理、とかこれは無理という制約からひとまず自由になるところなのです。決められた答えをなぞらないから、なんか野放図なことを考え続けます。それでいいのだと、私自身は強く思っています。限りある人生ですが、仕組まれた成功や、幸せだけを生きるのではあまりにもつまらない。

 最近では、フリースクールと名乗りたいのでぜひ、フリースクールのネットワークに入れてもらえませんか?というありがたい申し出まで受けます。フリースクールのネットワークに入らなくてもフリースクールを名乗ることはできるのに、なぜネットワークに入りたがるのか?

 これまで、答えのないことや、ただ自由に発想することに対して、大した価値を感じなかったにも関わらず、「自由な教育の可能性」という漠然とした目的に憧れる?希望を見出す?人も出てきました。自由は、先行きを考えない人にとっては、至福であり、希望でしかありませんが、確実なものを追い求める人にとっては不安以外の何物でもありません。
 「何もしないでいい」「何をしてもいい」なんて言わないで欲しい。

 「これをやったら必ずうまくゆく」という方法論を生み出して欲しい。

 どんなに優れた方法論でも、その人の人間性によって活かされもしますが、本来の機会を失う場合だってあります。


 コロナ禍のなかで、「答えがない」という不確実を生きる能力が、さらに見直されている気がします。答えがないからといって、慌てふためかない。今を楽しんで生きる。さらに、自由について深く考えてみることもできます。確実な人生の先を探すと、人生はより不確実であることが楽しいと思えるようになります。

 フリースクールは、人を不安にするところです(笑)

 でも、先が見えない方が安心できる人種にとっては、そこは至福の場所なのです。
フツーの家族なんてあるんですかねえ [2021年06月23日(Wed)]

不登校はどうすればいいのか?
こんな状態はフツーじゃない。家族も何もできない。
学校にゆかないなんて、誰にも恥ずかしくて言えない。
不登校であった自分は、言われ放題であった。

人間としてダメ出しを受けた私は、40年をすぎてもまだ生きています。
それなりに人さまとお付き合いをさせていただいています。

もちろん、私を嫌いな人もいます。でも、誰でもそんなもんだと思います。
誰からも好かれるわけでもないが、自分の人生を淡々と生きています。

フツーじゃない人生!!と言いますが、単純に反発してみるとふつーの家族や、人生なんてあるのでしょうか?ないんじゃないですか?正確に言えば、フツーを求める人生があるだけではないか?と思うのです。フツーを求めていても、フツーなんてもともとないとしたら、一体どんな理想を求めているのだろうと思います。

認めたくない人生を見ないようにしていることが、フツーであるとすれば、フツーであるということは、自分の心の何かに蓋をするという事なんだと気がつきます。

フツーであるという幻想を受け止めてみる。

なぜか。その人の孤独と向き合うことになる。みんなフツーであることを求めて、自分を殺しているんだろうなあと。

辛いのは、フツーという現像を追い求める人南アということです。

大事なのは、「今日を生きる自分」おそらくここからしか全ては始まらないと気がつくまで、「人々はフツーに憧れ続けると思います。それが、普通というものの怖さなんだと気がつきます。
不登校は「宇宙人」か? [2021年06月21日(Mon)]

不登校ってなかなか理解できないよねえ〜。
かつてよく大人たちに言われたことです。特別に何も悪いことをしているとか?
人に迷惑をおかけるわけでもないのですが、理解がされない。

要するに何を考えているかわからない人?社会に貢献しない人??と言われたりもします。

私たちは、目的や意図がわからない人を警戒します。時には「不審者と言います。

その意味で、私は不審者かもしれない。(笑)

お金をたくさん稼ぎたい。

いい車に乗りたい。

家を建てたい。

誰かと比べて、自分が優れていると満足したい。

わかりやすい欲望ですが、不登校の子どもたちは、概ねこのような欲望からは無縁です。

わかりやすい欲望や、願望がない人を理解するのが困難なのは、大人たちが欲望と煩悩にまみれているからだと思っています。大人が不登校の子どもを理解できないのは、「煩悩から解放されているから」ということもできます。

理解不明な不登校子どもたち。

しかし、ただの宇宙人ではありません。


私は、自分の生きかたを素直に見つめたい子どもを、未来への希望だと思っています。
雨だったり、晴れだったり、楽しかったり、苦しかったり [2021年06月19日(Sat)]

最近、我が家では猫を飼うとか飼わないとかで、だいぶ盛り上がっています。
猫ほど正直な生き物はいないと、妻は言います。猫は爪を研ぐから家が壊されると、年寄りは気遣います。
単純に可愛い。
いるだけで癒される。

猫はそれでいいんです。お金を稼ぐこととか、経済的な自立なんてほとんど求められてもいません。

この期待のされない感覚がいいなあ。


誰も期待してくれるな。


傷つけてくれるな。

多くの子どもから、そんな言葉を受け取ります。


ふんわりと猫のように、我がことも付き合っていただければ嬉しいです!!

生きやすく〜学びやすく〜 [2021年06月12日(Sat)]

不登校であっても、学校に行っていても

子どもたちは、学びやすく、生きやすい方がいいと思っています。
誰もが楽しく生きるを考えてサポートし合えば、問題はなくなるような気がします。問題がなくならない、もしくは深刻になるのは、本人の意思を何らかの理由で無視されるからだと思います。本人の意思を無視するときの常套句は、「お前のためを思って」というセリフです。
このセリフはありきたりですが、良くつかわれます。

自分が悪者にはなりたくないと、誰もが思いますが、いい人か?悪者かの前に。

自分以外の他人は、だいたい思い通りにならないものです。

思いどおりにならないから、あきらめるのではなく。

他者を受け入れることなのだと思います。人を変えることはできません。

受け入れることしかできません。

だから、誰もが理解して欲しいのです。学校にゆかないことを、そのままに。いいでもなく、悪いでもなく受け止めて欲しいのです。

生きやすさとは、受け止める人が増えることです。

誰もが心地よく生きる社会は、誰おも受け止め合う社会なのだと思います。

不都合なことは、たくさんあっても、それを受け止める力がないと誰も救われないのです。

学校にゆかないことを認めないという苦しさ、誰もが思いながらもこの苦しさを減らせないということ。この虚しさに意味はないのですがね。
なんとなく、心がふわふわしている [2021年06月09日(Wed)]

自分の気持ちを、自分が見失うことはありませんか?
ふわふわしている。

毎日のように、私は見失うことがあります。

何をしたいのか?を見失っているだけではなく、なぜ今自分はここにいるのか?を見失っている場合が多くあります。

苦しいと感じることもあります。

気がつくと、何も感じないようにしている自分もいます。

子どもは、自己嫌悪なんかないだろう。
働いていないんだから、無理やりなんかをすることもないだろう!

それでもふわふわするんです。

心の底から、「不安」や「嫌な感情」が湧いてきます。

気がつかないようにしよう。


心の中に秘めておこう。


それでも、「ふわふわする」このふわふわが学校にゆけない予兆であるとは誰も思いません。

人間は、さほど柔軟に自分を変えることができないんです。
正義は勝っても負けても、人の幸せとはあまり関係ないけれど [2021年06月05日(Sat)]

不登校の子どもたちは、「朝おきれない」病気なんだよ。と言われたことがあります。
「朝おきたくない」という方が正確かと思います。
これを病気と言われると自分では肯定も否定もできません。

全くあの人のパチンコが良いにも困ったものだ。病気みたいなものだ。

という表現に近いからです。

病気と言われれば病気かもしれない。でも、病名はつかないだろうと思っています。

ですから不登校の子どもが、朝起きれれなくとも病名はつきません。

学校にゆかない子どもの中によくあるのは「正論のジレンマ」だと思っています。
本当はこうした方がいいのに・・・・。
できれば、こうした方がいい・・・・・。大人が勝手な願望をぶつけます。それをしたから人格が良くなるわけでも、人から好かれるわけでもありません。

要は正義だと思い込んでいるだけなんです。

水戸黄門が印籠を出して、悪代官を懲らしめるとよく眠れる。という話に近いかもしれません。
うまくいってくれた方が、心地いいんです。

ただそれだけ。



子どもが学校にゆくと、機嫌がいいお母さんも、ほぼ同様に、お母さんにとっての当たり前をやってくれた方が心地いいだけなんです。なぜ、その当たり前に子どもは協力する必要があるのか?

協力しなくとも。幸せが少なくなり、不幸になるわけでもありません。

大人の機嫌が悪くなる程度です。ほんとに。