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違いを見つめる視点 [2020年10月29日(Thu)]

 日本学術会議の委員選出の問題で、内閣総理大臣が任命しなかった理由が「同じ大学に偏っている」「年配の人が多い」等々という理由を言ってきて一見もっともらしいなあ。こういうところで多様性と使うのかと思いました。
 それであれば、政府の職員の皆さんも、外国籍の人や不登校経験者、女性、採用年齢基準の引き上げ。副業の容認等々、バランスよく採用がされているのか?と問いたくなります。おそらく、自らを顧みない、発言である可能性が高いでしょう。
 違いを容認するというのは、本質的に異質を受け入れるという覚悟が必要なんだと思います。自分の意見に対立するかどうかも含めて、異質を受け入れる覚悟がなければ、多様さを引き受けるなどとは発言しないほうがいいのに、首相もそれを受け入れてしまうところに、「言い訳」を感じますダメだ〜。
子どもへ怒るあなたは、自分を変える勇気がないだけ [2020年10月17日(Sat)]

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昨日も自分の中に怒りがどんどん出てきてきたのでこれはヤバイと思って、速攻で家に帰りました。食べる。寝る。

おおむねこれで私の怒りは解決します。

大変お騒がせしていますが、この程度です。

実は、これは私だけではないはずだと思っています。

多くの大人たちは、こんなことで怒っているに違いないと。自分は、拝察しています。

要は、自分を自分でわかっていないだけ?なんです。

怒りに任せて、自分の怒りを鎮めてくれーっと周りに言っているだけです。子どもからすれば、こんなに面倒臭い大人でも付き合うしかないというのが不幸です。

子どもは、相手を分析して、対応を決めてゆきます。

黙るか?無視するか?一緒に話をするか?

子どもの方が柔軟なので、自分を変えてゆきながら生き延びます。

大人は自分を変える勇気がないだけ。いろんな方法があるのに、怒りという簡単な方向に自分を追いやっているだけです。

いつかそれは、改善できると思ったら大間違いです。全く改善できません。

自分という存在は、厄介です。

全くもって。

人間は賢く生まれて、愚かに終えるかもしれません。
コロナ感染症にかかるとなぜ責められる?不登校に似ています [2020年10月09日(Fri)]

10月9日付朝日新聞の記事
コロナ感染者が非常に責められた。「自分にとって迷惑だ」「反省しろ!謝罪しろ」
恐ろしいくらいの仕打ちが当事者にやってきた。
なぜ、責められなければならないのか?
なぜ、責める権利があるのか?
好きで感染した人など誰もいないのに・・・・。

このバッシングの構造は、不登校の子どもへの批判に似ている。俺はガマンして学校に通っているのに、なぜ学校にゆかないんだ?

みんな心配しているんだから、ご心配をかけてすみませんぐらい言え。

勝手に怒ったり心配したりしている。
自分の中の出来事を、他人に押し付ける。

世間から自分を守るために、心の垣根をどんどんあげてゆく。
容赦なく他人を責めるが、自分は責められたくない。強い人には服従して見せるが、責めるときには容赦無く攻撃する。自分から迷惑を減らさない限り生きてゆくのが辛くなってしまう。

お互い様なんてとても言えないこの社会には、不登校ではなくとも、絶望を感じます。

この絶望、恐怖を目の当たりにした子どもは、生きているのに、希望を感じないですよね。

私たちの、この負の個人主義の源は何か??
この恐怖を私たちは、感じるから、服従するんですよねえ。
強いものに逆らわないほうがいい、を実感するのだと思います。





社会の役に立たない生き方 [2020年10月08日(Thu)]



この朝日の記事にある冒険家、角幡唯介さんのインタビューがとても面白いです。

私たちは、なんらかの形で社会の役に立たなければならないと思っています。

常識と言われると、反論の余地がなくなります。

私たちは、外側の要請に応じて生きているだけであり、内面からの想いから言っているわけではないのです。

一見役に立たない生き方に、その人の内発的な想いがこもっています。

自分が心の底からやりたい何かに出会えている。角幡唯介さんは、確実に出会っていると思いました。

非営利ビジネスこそ、むしろこの内発的な思いで行動しているのです。


社会の役にたつかどうか?

私は、これは自分たちが決めることではないと思っています。

「誰かが助かった」言われればそれでいい。その程度のものです。

ある意味我々も冒険家に近かったりして・・・・。

こう生きるしかない、自分、内的に突き動かされる自分。

本当の自分だと、私は思っています。
教育の双方向性をもっと高めてゆく [2020年10月07日(Wed)]

落合陽一とオードリー・タンの対談

日本の教育制度を語るときに、この制度は変わらないという前提から語る人が多い。
実際に、何もしなければ目に見えて変わらない。
オードリー・タンの凹む人をつくらないという視点。まさに教育は、良し悪しより、勝ち負けよりも試行錯誤が増える場でなければ、さまざまな挑戦がおきません。

4月中上旬に全国の学校が休校したときに、島根県は休校にしませんでした。
ここが大事なんです。自分の住んでいるところには危機がないとすれば、休む必要はない。この判断を各教育委員会や学校で判断することがが大事です。

お互いに自分の視点で、考えることがとても大事です。

あとは、あきらめないで教育にどんどん、アクセスしてゆくこと。どんどん挑戦してゆく、提案してゆく。教育を一方通行にしないことが、とても大事です。教育は明の側からアクセスする力が高まれば高まるほど、民主化され子どもにとって学びやすくなります。
民主的教育は多様であった方がいい [2020年10月05日(Mon)]

必ず投票は1票じゃないといけないのか?
学校の入試は、複数回のテストの合計の偏差値で、複数校に願書を出してはいけないのか?

仕事は、なぜ毎日同じ場所にゆかなければならないのか?

子育てを時々人に頼む仕組みを作ることはできないのか?

小学校や、中学校は選べないのか?

大人は、高校で勉強してはいけないのか?

受験以外の勉強をもっとできないだろうか?

教育の多様性は、制度や利用する人の多様性と連動して初めて意味を持つのだと思う。
どんどん異質の人が参加して、そこで変化を楽しめればいいのであって凹んだ人を作るのが目的ではありません。











やる気にあふれた大学生ばかりでもない [2020年10月03日(Sat)]

私は、高校1年生で中退したが大学を卒業している。
まさに、たまたま父親が大学に入学する以外の人生を全部否定したので、逃げ道が大学に入ることだった。だから私はやる気にあふれて、大学生をしていたわけではない。

大学生はやる気にあふれ、新入社員はフレッシュである。と言われるがそんな人ばかりでもない。
ただ、私の中で、「何をやってもうまくいかない」という経験もない。あきらめもせず、生き続けてここにいる。

この経験は無駄ではない。

自分ができないことに出会うから、いまの自分に飽き足らず前を向きはじめる。

よくやって当たり前と言われるとハードルが高い。


不登校の子どもたちも辛いのは、学校に行っている子どもと比べられる時である。比べられるだけで。ああ苦しいと思う。

放っておかれると、関心がないのか?とさみしくなる。
でも、変に傷つけられるよりはマシだ。

人間はつけあがるし、打たれ弱い。

でも、生きているだけで価値がある。

やる気にあふれている必要はないと私は思っている。

少しうがった見方をすれば、隠されたやる気を期待している。





服従を強いられる理不尽 [2020年10月02日(Fri)]

https://blog.canpan.info/egawa/img/IMG_0433-thumbnail2.JPG


 私は英語で表現することができない。でも無謀にもアメリカに行って、東日本大震災の後のこどもの様子を、世界中のフリースクールの人たちに伝えた。もちろん伝えるときは通訳付きである。しかし、小学校6年生の息子を連れていった。全くもって子どもにとってみれば迷惑な話だと思う。
 しかし、世界の人たちは、なぜ日本人は福島から日本から逃げないのか?と思っています。当時、福島の人は、なぜ逃げなかったのか?逃げてもいいと思えなかったからだと思う。つまり、とりあえず服従してしまう。これが習い性になっていると、服従させられることが普通になってしまう。
 「学校にゆかないくていいよなあ」学校に行っている子どもがつぶやくセリフはいつもこんな感じで、学校にゆくことを、どこかで自分の意思ではないというように、あきらめた表現をする。彼らは服従を強いられている。自分は、ありのままの自分で学校で受け取ってもらえるとは思っていない。
  不登校の子どもたちは、どっかで服従を強いられることに対して、あきらめている。その多くは、結果的にいえば理不尽だからだと思うのです。