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課題を与えすぎないで、余白を大事に [2020年06月28日(Sun)]

 このコロナウイルス感染症の騒ぎで、子どもからは宿題が多いという苦情?苦しみ?が出されています。「あのさー。予習が宿題で出てくるんだよね。わかんないよ〜〜。」という声が切実な声として聞こえてきました。
 ああ。まさにこの苦しみわかります。なんで、先生は課題が大好きなんでしょう??やらなきゃいけない事を、授業ができないからといって、子どもに押し付けてしまったら、本人たちは本当に辛いです。勉強しなければいけないことがたくさんあっても、今回のコロナウイルス感染症の問題など、事故があった時には、学習内容が削減されもいいのに。
 大人の頑なさが、子どもを追い詰めることがあるのに、大人はもっと自覚的である必要があると思います。
今日もまたアルバイト。働く不登校! [2020年06月19日(Fri)]

 
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コンビニバイトは不登校の子どものたちの定番の働き口です。
社会は、人手不足。外国人でも高齢者でも欲しい。不登校の子どもの多くは、不平不満は言いません。そもそも、コミュニケーションを積極的に取りたくないので、無駄口は言いません。ほとんど素直ないい人が多いです。早朝勤務も厭いません。
 でも、働けば、働くほどしわせになるという「滅私奉公」的な働き方はしません。それを求められたら、黙っていなくなります。だって価値観が違いますから。多くの人が、必要なお金で暮らせればいいので、自分をすり減らしてまでも働く必要はありません。
 学校にゆかない子どもに学んで欲しいのは、いかに嫌なことを少なく、幸せを多くして生きるかを考えることです。この図を見てください。正解を探すと、自分が足りない部分を攻めてしまいます。反対に、正解からはみ出している部分は、なぜもっと評価されていいのに評価されないのだろう?と疑問に感じるようになります。
 正しい「正解」があると思わなければ、これらの価値観に押しつぶされることはありません。「働き方はあなた次第で、えらべるのですよ」と言われれば誰もが楽になるのだと思います。
「引きこもる」は善悪ではなく、必要なときに行う行為 [2020年06月04日(Thu)]

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 この3ヶ月あまり、コロナウイルス感染症の影響で、在宅勤務を強いられる人も増えました。緊急事態宣言が解除されると、少しづつ社会が動きはじめます。これまで会社で働くことは当たり前でした。いま問い直されていることは、本当にみんなが集まって働くことは必要だったのですか?。家でも十分に働けるじゃないですか?都心まで満員電車に揺られて、苦痛な時間を過ごす必要性があったのですか?という問いです。
 同じことが子どもにも言えます。本当に学校という場所で、全員が集まって、いじめの不安、人間関係の窮屈さに耐えなながら集団で学ぶ必要性があったのですか?という問いです。テクノロジーの発達は在宅勤務は可能にしましたが、在宅での学びには課題を残しましました。
  何のために学ぶのか?自分の学びは、いまどんな価値を持っているのか?社会のどんな課題を解決しているのか?目的の共有が一番大事です。
 その上で、仕事でも、学びでも個人が行う学びの時間は、とても大事で、協働で学ぶ時間は、個人が何を考えている人か?を知ることでより豊かになります。一人の時間を「引きこもる時間」として考えると、ここで私たちは知識の習得や学びの全体像を自分の中に作りあげます。その後で、この知識は自分の何に役立つか?社会のどのような課題を解決するのか?どんどん紐づけられてゆきます。意味づけです。これがわかると、動きやすくなる。
 子どもたちが動きやすくなるにはどうするか?私たちの取り組みの目的はここにあります。引きこもるかどうか?実は「一人の時間」は必要なプロセスです。その行為を責めること?にはあまり意味はありません。
 私たちは、どんどん紐づけていって動きやすくることが大事だと思います。

 
不登校は恐れるもの?ですか [2020年06月03日(Wed)]

不登校という経験は誰もが経験するものではないですが?不登校になったからといって、慌てることはありません。命も失わないです。大学にも入れます。でも、学校にゆかないという選択肢に、問題がないはずはない。明治以降、学校にゆくことは当たり前でした。世の中の偉い人は、皆さん学校に通っていたのですから。
 しかし、ITの出現は知識のあり方を、大きく変えました。知識の量は、オンライン上にたくさんあります。調べることさえできれば、不自由はありません。決めることは自分にしかできません。学校にゆかないことを決めても、不利益が待っているわけではありません。(不利益はきっとある、という幻想にしばらくなやまされます)やがて、不安に思っていてもしようがないので、社会でどれだけの不利益があるのか?実験してみればいいです。
 運転免許、IT企業、アニメーター、企業経営者、政治家、教師。特に問題はありません(笑)問題は、学校にゆかないと失うものがきっとあるという「思考」です。これは、私たちの中に深く染み付いているので容易に取れません。
 でも、「やらなければいけないこと」を「やらない」選択をしても10代のうちは逮捕もされないし、告発もされません。この人はやらないのだと思われるだけです。そこさえ引き受けられれば、特に問題はありません。
 問題は、恐れる心、不安に感じる気持ちを素直に見つめることかと思います。不安が悪いこととか、あってはならない事にしない方が、はるかに大事です。自分が、何に怖がっているのか?ここに気がつけばいいのです。
不登校は「負登校」であり、フリースクールは敗者の集団ですか? [2020年06月02日(Tue)]

仏教とビジネス異色コンビが実務家教員をそろえて起業家を育成この記事はアントレプレナーシップ学部を設立する武蔵大学での試みだ。
 武蔵野大学はしわせの実現をブランドステートメントに掲げている。起業をする上で、一番厄介なのは人間の心の中の恐れる気持ち。幸せを形にしてゆくには、困難に立ち向かう自分のマインド必要だから仏教と組み合わせた。(ここは面白い)
 ここからが本題(笑)不登校は、幸せを実現する状態にはないと思われている。彼らには社会的な評価も地位もない。失うものはない。不幸そう。大変そう。学校も嫌だけれど不登校にもなれない。
*自分の評価(自分の価値)を自分がつくるチャンス
*誰かに合わせる視点から、一緒に目的実現をする視点に変えることができる
*何より子どもの頃に、社会の中でアウトサイダーの経験を積んでいるということこそが財産。自分を相対化して、新しいものをどんどん取り込むことが可能になる

このプラス面を多くの大人は見逃している。私は、この価値を十分に伝えることができていない(これから積み重ねます)
幸せを実現するのはフリースクールも同じこと。お互いの関心を集めて、どんどん楽しいことをやってゆく。いや、楽しいことしかやらない。恐れを吹き飛ばして前にしか進まない。これでいいんだ思っている。
我々を敗者の集団と思っている人たちは、「成功」の形を一部のイメージに限定して、そこを実現する事に囚われている人たち。その人に合わせることもなければ、大多数だと思う必要もない。多くの人は、挑戦も失敗もできず、何がいいのか迷いながら生きている。私たちは、誰か敵をつくり、見返してやろうなどとも思わない。無駄なコンプレックスや偏狭な心は、自分を縛るだけだから。
 フリースクールは、幸せを実現する学びを行うところだ。だから、はじまりはどんなに不幸でも、出口は幸せであればいい。むしろ、はじまりの不幸感が強いほど、フリースクールでの学びは深くなる。