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「公」とは、必要とする人をささえる [2018年09月27日(Thu)]

日本国憲法第26条には「1、すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。2、すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
」と記されています。
不登校のこどもは、教育を受ける権利を有しているにもかかわらず、公教育以外の選択肢がないことを理由に、教育を受ける権利を行使できないでいます。親御さんの努力で今はフリースクールに通うこどもは、学校にゆかないでもかろうじて教育を受けることができています
また経済的に困難なこどもたちが、不登校になった場合は、教育を受ける権利の行使ができない状態にあります。
どのような家庭に育っても学びたいという意欲を喚起し、学びの場を用意するのが公の役割だと思います。困難なこどもだけにお金を使うことを嫌がる人がいます。納税者に平等に使えという人もいます。税の使い方が不公平だといいます。
必要なこどもに、必要な教育サービスを提供することは「公」の責任でもあります。
たしかに、こどもたち一人一人に平等に配分されてはいません。必要なこどもに手厚く配分され、社会で教育を支えてゆくことは必要です。問題は彼らが、大人になってどのように貢献してゆくのか?子育てを社会で支える仕組みを持たないでいることの方がはるかに課題です。
憲法26条では、どんな家庭に生まれていても、同じように学ぶ権利が保障される必要があります。公の平等性というのは、必要とする人が同じように支えられる平等性だということを、私たちはあらためて考える必要があります。

フリースクールは、時代の最先端! [2018年09月18日(Tue)]

未来の先生展2018(9月15、16日)に参加してきました。会場は東京の聖心女子大学。びっくりしたのは、私たちフリースクールは、ずっとお金が出ないような仕事を手弁当で行っているので、東京広尾の素晴らしい会場で行われるイベントなんて参加したことがないのでまずそれに驚いた。
 さらに、フリースクールへの賞賛や賛同を受けることが多く、ブランディングの話やフリースクールをやりたいという人にも多く出会えたことはとても嬉しかったです。あらためて感じたのは学びてが主権の学び合いへの関心の高さと、私たち自身がその場を運営してゆくことに対しての誇りだと思っています。
 もっとしっかりブランディングすればいいのに?PRが全然たりていないよ〜という言葉かけをいただいて、大変恐縮です。私たちは、もっともっとつながらなければいけない人がたくさんいることを知りました。こちらも手を伸ばしてゆきます。
何もできない大人たち [2018年09月12日(Wed)]

 私たちは。子どもに対して、日々何もできないという経験を重ねています。ただその子にとっての最高の選択を応援するコトしかできません。自分で考えるコトや他者とのコミュニケーションをいかにとるのか?ぐらいは、提案できるコトがあります。
 関係づくりができる子どもは、へこたれません。関係を丁寧につくってゆきつづけます。そこから想像的なアイディアを出せたら最高に楽しいです。誤解のないようにいえば、一方的に「ハイ」言い続ければ関係がつくられるわけではありません、適切なフィードバックが必要です。
 自分の言うコトに、自信を帯びながら、自分で言えるのであれば特に問題はありません。適切なフィードバックが言えなかったりするから問題なのです。話を受けつづけるコトが適切なわけでもないというコトです。相手のコトを考えた、適切な自己主張が必要です。
 このチカラを身につけるのは、常に自己の権利を理解し、失敗を恐れないで挑戦し続ける子どもにしかできないコトです。
子どもは守られた時に、自由を手に入れる [2018年09月09日(Sun)]

 最近、スポーツ界のパワハラ問題は実に興味深い。日本のスポーツ界は、学校教育と密接な関係にあると思います。学校教育もスポーツも子どもには常に競争が必要と日々勝つために準備や練習をしています。勝つための行き過ぎた指導が、人権侵害や個人の尊厳を無視することにつながっています。
 日本の教育の中には、人権侵害を容認する風潮があります。本人の成長の為、社会の為、親孝行・・・:?とかいろんな理由が言われます。しかし、そのどれもが本質的なものではないと思います。本人の意思が尊重されているのか?そもそもどう生きるのかということは競争するものなの?という大きな疑問もあります。
 自分自身が試合に勝つことは大事ですが、その中からなんらかの実現したいものを見つけて挑戦
するもので、それは自分が二人としていない以上「競争」ではありません。学習も、ただ、入試や就職ということを考えさせられるから、競争だと思わされているだけだと思います。
 スポーツ界でも、海外に拠点を置いている選手も多くいます。彼らは自分との戦いであり、そこに実現する課題を持っています。必ずしも競争ではないので、同じコーチにがライバル選手についていることさえもめずらしくありません。
 教育もスポーツもフェアで挑戦すべきものなのに、権力や当事者以外の思惑が入るのは迷惑千万です。大人たちの思惑で子どもが影響を受けることを良しとはできないですね。

大人は子どもに甘えていないか? [2018年09月08日(Sat)]

 学校に行かない子どもの中には親や教師に迷惑をかけていると「思わされている」人がいます。あえて、ここで思わされている、と書いたのは、子どもは自分の人生の選択を他人に委ねていないので、学校に行かなくても、誰にも迷惑をかけていないというポジティブな意見を私が持っているから。
 しかし、控えめに自分を責めている子どもに、大人たちはなぜか反省を迫ります。人に迷惑をかけていると。なぜ迷惑ですか?どうして、自分のことを自分で決めることが迷惑なのですか?困っているのは、大人の勝手ではないですか?
 私たちは、大人たちに迫られて、やむをえず反省の言葉を口にさせられる子どもに出会います。この反省の言葉に、大人たちは安堵の表情と勝ち誇ったような目をします。学校に行かないのも子どもの選択だから、それを引き受ける勇気ぐらい持って欲しいと、単純に私は思います。
 子どもは反省の言葉を口にするときに、少しづつ大人に対して諦めの感情を持ちはじめます。あ〜大人って自分勝手なんだと。大人は子どもに甘えて生きているのもいい加減にしてほしいと強く言うことは簡単だが、大人の私への評価はすこぶる悪いです。
 ただ、子どもを説得したつもりになっているだけで、反抗の牙を同時に磨いていることを忘れてはいけないと伝えたいです。子どもは決して愚かではないと。