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人ごとは、自分ごとにはなかなかなりにくい [2020年07月21日(Tue)]

「お昼何食べたい?」
「なんでもいいよ?」   「本当になんでもいいの?」  「何食べても変わらないから。」


本当はパスタを食べたかった子どもが、ピザトーストを食べる。ピザトーストを食べている時はどこか受け身になる。進学先や就職の問題は、こんな風にはなかなかゆかない。しかし、知識がない子どもは、知識がある大人に頼ろうとする。知識がある大人も自分のことではないので、本当にこの選択でいいのか?確信がない。
不登校の問題も、他人事と自分ごとの壁がある。物事の理解が、当事者家族とそれ以外でも違うし、家族の中でも分かれてしまう。不登校の問題をそれぞれに自分ごとにすると、それぞれの自分ごとが違うのだ。

不登校で困っている親は全国で、毎年16万人以上いる。「自分は学校に戻す」という結論を持っている親もいる。「学校にくればなんとでもしますから」という先生。「学校に行くことが正しい」と思い続けて苦しんでいる子ども。

 哲学者の國分功一郎さんは、スピノザの研究をとうして「人間の本質とはその人の潜在的な力であり、どうしたらそれを発揮できるかを考える自由の哲学」の必要性を言う。何か正しいのか?誰の責任なのか?突き詰めると苦しくなる。そのどれにも属さない、「言われてみればこうかもしれない」と中動的に動く自由さが、自分たちに新しい思考や気づきを提示してくれるという。

 子どもにはいつも潜在的に何かを考える力がある。これを大事にしたいと私は思う。そして大人は決めつけないで、中道的に動ける自由さをいつも子どもに対しても、仕事に対しても持っていたいと。

 学校にゆかないだけで、人生は多少変わるが、さほど不幸にはならない。大きな不幸は、学校という生きる手段にいつまでもこだわり続けることだと思う。そこから逃れられなくなる不幸である。