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反転学習を!予習を宿題で行う困難?(コロナと学び) [2020年05月17日(Sun)]

そろそろ学校が再開される状況になってきました。福島県内の小中学校、高校も6月から再開されます。ようやく終わるのか?もう終わるのか?子どもたちの感想は、ばらばらですが。
 子どもたちに聞くとこの間「宿題が多い」。「予習を宿題でやるのは難しい」(もっとも!)という感想がきます。量が多いという問題もあります。(どうも日本の学校は初めから勉強の質よりも量を重視する傾向があります)。事前に学ぶことを動画で配信すればいいのではないでしょうか?それも何度でもみれるように配慮してゆく。後で、それをふまえたオンラインでの教えあいを行う。
 宿題の目的は
1、自分自身の学習理解を深めてゆく
2、お互いに教え合うことで、気づきを深めてゆく
3、セルフマネジメントで、自分がどのように時間を使うのかを決める力をつけてゆく

ことであって、ガマンして大量の答えを出すことではないはずです。予習はオンラインでも可能!
学校の先生の力は、教え方よりも、学び方を体得するサポートにあると、私は考えています。
少子化でも、いじめ不登校は、過去最高 しかし検証はされない!? [2019年10月18日(Fri)]

昨日発表された文科省の発表によれば、いじめは54万3933件(前年比128,923件増)、不登校が16万4528人(前年比20,497人増)。10代の自殺は児童生徒の自殺は332人(前年比82人増加)
少子化の中で、いじめ、不登校、児童生徒の自殺増加をしっかりと分析しないと、解決していない事例が放置されたり、事実を認知しなかったり、放置されたりしている事例がたくさんあるのだと思う。
 学校教育で子どもたちが、命を失わないための徹底検証を重ねる必要があるのだが。行政を待つのでは遅すぎる。民間でこれを進めてゆく必要性がある。なぜ子どもは学校に行けなくなる?学校に行きたくなくなるのか?
 いじめを解決してゆくことを、持続的にできないのはなぜか?なぜ子どもが自殺してしまうのか?詳細なメカニズムや子どもの心理を分析したデータが必要なのだが。
失敗学の畑村先生が言うように、日本人はうまく行った事例しかから学ばない。失敗は放置したまま。だから、手痛い問題からも、逃げおおせると思っている。子を失った親の気持ちは、そんなものではない。悔やんでも日々悔やみきれない。
 自殺して死んで行った子どもの命を軽く見るな。冷静な検証が必要なんだと、声を大にして言いたい。

人生のフィールドは広い、しかし、人の視野はせまい [2019年04月07日(Sun)]

 春休みは宿題がなくていいよね〜。といっていたら、宿題に苦悶している学生に遭遇。「たくさん、宿題があるんです」という。なるほど〜〜〜〜。この量は尋常ではない。もっと勉強しないと高校に入れないと言われています。という。
 たくさん学ぶことがあるが、それは紙の中なのか?学校の宿題の中にあるのかはわからない。その昔、受験勉強をしていたこともありました。私の父親は、大学に入る以外に家から出ることを許さなかったので、もう何が何だかわからないくらい勉強しました。(学問ではないです)短期記憶の勉強を繰り返していたのです。まさに学びを強いられた。
 人生のフィールドは広い。宿題とか受験に集中しすぎることで全体が見えなくなることがあります。大学に入るのは手段で、自ら学ぶことの方がはるかに大事。人と話して自分の考えが広がる方が大事です。
 大切なのは、どんな視点からみるかで見え方が変わってしまう経験です。人生のフィールドは広い。私たちの視野を広げるためにもっとたくさんの寄り道が必要だと思います。私も現在寄り道中ですがね。生きることに、ゴールなんかないから急ぐこともないと思います。
親は子どもを学校にゆかせる義務がある? [2018年02月22日(Thu)]

 親は子どもを学校にゆかせる義務がある?と思っています。憲法でも26条で、子どもを就学させる義務があると言われています。しかし、これは、学校にゆかせる義務ではなく、教育を受けさせる義務があるのです。その場合の教育は、公教育だけではなく、本人にとって必要な教育が受けられればいいだけです。
 フリースクールに通わせることも、サドベリーなどのオルタナティブ教育を受けさせることも広い意味で就学義務の履行であるとおもいます。学校に行かせないから親は義務を果たしていない?というのは少し早合点かもしれません。
自分の怒りを出しつづける  [2017年06月22日(Thu)]

フリースクールにかようB君は、怒っている時が多い。怒っている内容自体は大したことではないが、怒りはかなり持続している。忘れっぽい私からすれば、こんなに持続的に怒ることができるんだ〜と感動さえもする。
 周りの子どもはそれを「放電」と呼んでいる。自分の怒りを出し続けているから放っておけばいいと。私は、これをごく自然な受け止めと感心する。また、子どもの関わり方の知恵だとも思っている。怒りを否定したら、誰もが生きにくい。怒る人もいる。怒りをエネルギーに変える人もいる。
 子どもだって同じこと。問題は周りが過剰に反応しないことだと思う。どの視点で問題を見ているかが大事なので、本人の怒りも含めて引受けることができている 私たちのフリースクールはすばらしいなと、実感している。 
教育を受ける事ができない、子どもの「卒業」 [2017年03月13日(Mon)]

今日は、福島県内の中学校はほぼ一斉の卒業式を迎えています。一つ一つの教育課程を終えて成長してゆく事は、とても素晴らしい事だと思います。反面、この3年間ほとんど学校に行けなかった子ども。いじめにあい登校できなかった子どももいます。全国で、年間12万人(義務教育年齢)いる不登校児童生徒のどの程度が、今年卒業してゆくのかわかりません。
 この卒業式に出る事ができない子どもがいる事を、多くの人は見逃しています。中には「可愛そうだからそっとしておきなさい」という人もいます。不登校の子どもに「気の毒になあ」という視線を向ける人はおおくあります。
 私は、長年不登校の子ども接していて可愛そうだと思った事は一度もありません。むしろ、これだけの子どもが教育を受けいないのに、国家や地方行政は無視し続けるのかと思っています。教育を受けたくなかったわけではありません。さまざまな要因から、学校で教育を受ける事ができなかった子どもに、「教育行政」こそがしっかりと向き合わなければならないのにと。じくじたる思いをしておりました。
 もっと、違う教育をつうじて本人を励ませないか?私たちフリースクールの教育の原点は、ここからはじまっています。教育関係者は、毎年このように大量の子どもたちに、教育の機会をつくれなかったことを痛みと感じ、その教育のあり方を試行錯誤しなければなりません。教育は儀礼と学歴の場だけに落ちていないか?その修行に耐えることのできない子どもをただふり落とし、「弱い子」というラベルを貼って終わりにしていないか?もっと卑怯なのは「哀れみの眼」をむけて我が身を省みることをやめてはいないか?
 今日、卒業式に出ることのできない子どもの気持ちを、しっかりと私たちはふまえたいと思います。
学校で学ぶのは義務ではなく、権利なのにねー。 [2016年04月28日(Thu)]

いつも、子どもたちが社会で「権利」について十分に学んでいないな〜と思うことが多くあります。「この国では・・・」という缶コーヒーのボスのコマーシャルではないですが、子どもの権利についてどこでも説明や学びが行われません。
 おそらく、学校の教師さえも自分は子どもの権利を守る存在であることを忘れています。しかし、学校ではあれをしなさい、これをしなさいという義務ばかり押し付けます。「学校に教科書さえも置いていけない」というルールがあるということに愕然としてしまいます。
 人は権利があるから強くなれるのに、義務だけ押し付けられたら、気力さえも奪いとられるだけです。と私は考えます。学校に行くのは、学んで人間として豊かになりたいからです。それを、あれをしなさい、これをしなさいとだけ言われそれを守るだけだったら人間としては、エネルギーを消耗させられるだけだと。
 「この国は人を人としてみない国だ〜」とまたため息を漏らします。
 
 せめて、子どもの可能性を奪わないでおいて欲しい。そして、先生自らが自らも権利主体として、子どもの権利について謙虚に学びはじめたとしたら、教師の子どもへの接し方も人間観も変わるのではないかと思います。
卒業式 [2015年03月13日(Fri)]

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今日は通信制高校で最初の卒業生を送り出しました。在校している子どもが映像をつくり、子どもたちがささやかなパーティーをしました。
 子どもたちが学ぶ「幸せ」を実感してゆく場づくりこそ私たちが実現したい活動です。どこかでつまづいたり、傷ついたり、多くの子どもたちはボロボロな気持ちを抱えながら方丈舎にやってきます。自分とは何か?何ができるのか?スタッフと試行錯誤を重ねる毎日です。
 今日、卒業生を出して感慨はひとしおです。1年で子どもたちも、私たちの団体も大きく成長しました。喜びや悲しみが、スタッフと子どもを成長させます。人は生きているだけで、価値があります。自分を大事にできてはじめて、幸せを感じます。
 今日の日に、生きる事の大切さをあらためて感じ、自分を開花させて欲しいと願わずにいられません。子どもとの感動の時間を共有できる事が「うれしい」とあらためて感じました。
子どもが、学び成長する権利 [2014年06月26日(Thu)]

 子どもの「学ぶ権利」を守ろうとはじめた「多様な学び支援法」http://aejapan.org/wp/
を実現する活動を行っている。「公教育」だけの学びに「公金」を支出する事に対して、果たして学びを公教育だけが規定していいのか?という疑問がオルタナティブ教育の側から出され、この運動にこたえたかたちで、フリースクール、シュタイナー教育やサドベリーのデモクラティック教育、ブラジル人学校等と連携して「多様な学び」は、子どもが学びを選択する活動であり、それを補償するのが多様な学び支援法であるという運動をしている。
 今年6月3日超党派で「フリースクール議連」が立ち上がり、与野党の区別なくこの法案の成立に多くの議員が支援してくれている。公教育がさまざまな課題をはらんでいる事は誰もいうことだが、教育の主体は誰なのかを明確にしない議論が実に多い。「子ども」なのか?「親」なのか?、「教師なのか?」
 われわれ、オルタナティブ教育の立場からすれば。「自分がどのような教育を受けるかは子ども本人が決めるものではないだろうか。」とずっと考えてきた。知識を学ぶのではなく、課題解決を学んでゆく事が子どもにはより具体的で必要な学びであろう。
 「いじめ」をとめるしくみ、家でも十分に学べるしくみ、不登校という「自分を守る権利」を選択を許すしくみ。多様な学びを支援する上で、「子どもの学習権を守れ」という大人が多い事に違和感を感じる。そもそも過去の日本の教育の中(戦前はもとより、戦後を通じても)で子どもの学習権はつくられてこないし、守られてもいない。私たちは、子どもの学習権を守るのではなく、あらたにつくる試みに着手したといった方が適切なのではないだろうか。
 子どもは、自分の権利や正当性に気がついた時に強くなれる。私は、権利をつくる運動に多くの子どもが参加できるようにしたい。その過程でこそ、子ども自身が自分の自尊心に気がつくと思うからだ。自分で勝ち取ってこそ権利であり、与えられたものは以外と活用されない。