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子どもは自分一人で生きられないとはいえ「合わせさせる」を習慣化させていいの?〜その3〜 [2018年01月24日(Wed)]

 ここ数年、アメリカのコロラド・ボルダーから、フィンランド、イスラエルと毎年世界フリースクール大会に参加しています。参加して気がつくことは、新しいことに挑戦している産業や起業が多い地域は、実はフリースクールも非常に盛んです。
 あたり前の事ですが、教育と起業との関係は非常に密接なのです。にも、かかわらず日本の場合は、新しい事業を起業を促すような教育をしていません。子どもをコントロールしようとしたり、ルールでしばろうとしたり、放課後のクラブ活動で、へとへとに疲れてしまう事が修行だと考えています。
 自由な環境で、さまざまなアイディアを出し合い、試行錯誤してゆくような教育をもっと、根付かせていかないと、この社会の中は、どんどんよどんで、受け身になった人たちの集団が、不平不満だけを言って終わりになります。
 人に合わせるという事の「安心」とは別に、私は「不安」を感じます。同じ事いつまでやっていればいいの?本当にこれで未来はあるの?というような不安です。多様性の価値は、多くの双発への期待です。しっかり、新しいモノを創りだす勇気と試行錯誤を手に入れてもらうために、多くの子どもと挑戦をしたいと考えています。
子どもは自分一人で生きられないとはいえ「合わせさせる」を習慣化させていいの?〜その2〜 [2018年01月23日(Tue)]

 最近二つの出来事に出会った。アメリカのポートランドでは、人が横断歩道に来ると自然と車が止まり横断をうながす。日本は、人が来ようがくるまいが、信号が赤であれば車は止まる。この違いは。実は大きい。信号という機械の反応に合わせているのが日本人で、人に合わせて行動するのがポートランドの人だからだ。
 このように人のあり方に、人が合わせられるのであれば、その判断する力や民度は高いと私も思う。しかし、日本人が合わせさせられてきたのは、ルールである。そのルールが、いいルールか、悪いルールかでもなく。自分で判断しないで信号(機械)に判断を任せているにすぎない。、自分で判断をすることを苦手にさせられてきた日本人らしい。
 自分の考えをある時、「無」にしているのだと私は思います。この「無」にすることに意味はがあるのだろうか?ある意味、無理な注文を受け入れる。苦痛を和らげる準備にすぎないといえば言い過ぎかもしれない。しかし、このような状態が続くととが「集団性が高い」という評価にもつながっています。自分を出さないほうが周りからもほめられます。
 合わせさせる力=自分を無にする力であるかもしれない。しかし、それは本当に必要なのだろうか?という問いを残したいと思います。
 
子どもは自分一人で生きられないとはいえ「合わせさせる」を習慣化させていいの?〜その1〜 [2018年01月22日(Mon)]

 「お母さんを怒らせるのはあなたが悪いからよ」「もっと先回りしてお母さんが怒らなくてもいいようにしてちょうだい」この言葉を聞くと、私でさえも身が震えます。そして、北の将軍様も、トランプもヒトラーも、我が母親ほどにひどくはあるまい、と嘆き悲しむ子どもの姿が目に浮かびます。
 残念ながら、子どもたちは生れながらにして、大人の成長を助けるために、自分では何もできない存在になっています。ご飯も食べられないし、暖かい場所も確保できません、大人がその気になれば容易に生殺与奪の権利を手に入れることができます。多くの誤った考え方を持った大人たちは、その権力を乱用し、「教育」と称して子どもをコントロールします。
 もういい加減にこれはやめてほしい、などという私風情の懇願はスクに吹き飛ばされます。まことに辛い。幸いにして子どもは、どんな大人でさえも好意的に受け止めます。また、自分で直感的に理屈を超えて大人から学んで行きます。大人の真似をします。大人が、子どもの本能につけいって、その結果コントロールしようとすることはまさに言語同断であると私は思っています。むしろ、自分の無知さに気がつき、慎み深く、食事と暖かい環境だけを提供してくれる大人の方がどれほどありがたいか?
 あ〜、とにかく子どもをこれ以上傷つけるのはやめにしてほしいと思うのは私だけでしょうか?
(つづく)
 
子どもはいつまで心配される存在なのでしょうか [2018年01月06日(Sat)]

 「子ども」はいつまで子どもなんでしょうか?大人はいくつから大人になるのでしょうか?10代の頃からずっと考えてきました。「早く大人になりたい」と私は思っていたからです。ですから、親の心配や干渉をできるだけ減らしたいと思ってきました。
 しかし、結果的に言えば、自分が自分の人生を本気で決めるようになったのは20代の半ばです。転職や結婚を考えるような年齢です。失敗もたくさんありましたが、今までの人生を後悔したことはありません。失敗したことも含めて自分には必要なことだったからです。
 もし失敗が許されないとしたならば、こんなに怖いことはありません。失敗かどうかわかりませんが、必ずしも予定通りにゆかないことはたくさんあります。それを引き受けて、いかに楽しく生きるかという事が大切です。
 親はいつまで、子どもを心配するのか?いつまで意思決定に干渉するのかに非常に興味あります。子どもの意思決定力を親が補っているのか?子どもの意思決定を信じていないのか?いや、失敗しない生き方の選択をさせているのかもしれません。
 失敗が好きな人はいません。でも、失敗そ避けるには、さまざまな挑戦から学ぶスキルが必要なのではないか?と私は思います。予定通りに行かなくとも、失敗ではありません。予定どおりにゆかない事は失敗ではありません。むしろ完全な失敗は少ないのです。うまくゆかない事をできるだけ、理想に近づける工夫をする。さまざまな試行錯誤が必要なだけです。この力をつけさせるには、親はもう手放してゆく事が必要だと私は思います。
 学校に行かない事も、失敗ではなく、「学校に行く」とは違う選択肢を選んだだけです。それを失敗と決めつけた事のダメージの方が、子どもには大きいです。むしろ、そこから何につながるかを、考えるきっかけにすぎないと思います。
 引きこもりの高齢化が問題になっています。年齢が高くなればなるほど、挑戦ができなくなりますし、試行錯誤の時間的な気持ちの余裕もなくなります。保身になればなるほど、失敗しないには何もしないという選択肢しか残らなくなります。失敗しないには、引きこもる事が一番リスクが少ないのです。しかし、引きこもるという選択肢しか与えられなかった事には親の責任もあると思います。だから失敗も含めて、親の判断を手放す事を早めに行わないと子どもをダメにしてしまうと私は思います。
 
ときどきは休んでも学校に行く [2017年10月22日(Sun)]

学校に無理やりゆかせることがあるのですが・・・・。このままでいいのか?それとも休ませたほうがいいのか??
という相談を受けることがよくあります。
私の基本的な考えは、学校嫌いも、勉強嫌いも、はじめは少し休みたいだけだったのに無理強いされるところからはじまります。親は、1回休めばもっと休みが続くと考える大人は、多いです。でも、私は、勉強というのはダイエットと同じだと思うのです。やめなければいいと。続けるところに価値があります。
 考えることや、議論して考え方をすすめてゆくことができます。

勉強の意味を考えたり、本を読みたくなったりすることはあります。そこを責めてはいけないと思います。休みながらでも通うということで、いいのではないですかね。フリースクールも、毎日通う子どもは実は少ないのです。

時々でも、継続しながら勉強できることが大事なのだと私は思います。
「ちゃんとしない」人を科学する [2017年09月20日(Wed)]

 私は、ちゃんとするのが苦手です。いわゆる、ちゃんとしない人です。ちゃんとしない人は、世の中では嫌われます。なんでちゃんとできないのだ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。という老いた85歳父親の絶叫が聞こえそうです。
 ちゃんとしないことは、何かをサボっているわけではありません。いわゆる予定調和のために努力ができないのです。これを人は欠陥がある人間のようにいいます。たしかに予定通りに終われないという点ではまさに、欠陥だらけの人間だと思われます。でも、楽しい未来、笑いをつくるには、その人が考えたせいかが大事なんだと思います。予定調和の「予定」を楽しく乗り越えて、予想外のことにみんなが喜ぶという調和ですね。
 ちゃんとしない=障がいのように言われればまさに私も障がいだらけの人間です。今まで予定どおりに終われたことがないです。でも楽しい人生を生きたい。私の思いはそこだけです。
何もできない、何もやらない [2017年08月12日(Sat)]


夏休みにようやく突入しました。
ようやくの休みです。今年もたくさんの人と出会いたくさんの仕事をさせていただきました。多くの人が一緒にパートナーとなって仕事をしてもらいとても感謝しております。自分の中で、大人が学び合うという事は、非常に難しい事だと思っております。
 
大人が自分が何を実現したいのか?を語ったりする場がなく、自分がやるべき事に追われしまっています。私もしかり。これでは、教育のコミュニティーというにはあまりに創造性がなさすぎます。余白をつくること。誰もが幸せに生きる事の価値を感じる余白が必要です。

 私は、大した事ができるわけでもありません。

しかし、誰もがやらなければならない事を先頭でやるぐらいの意識は持ち合わせています。ある意味リーダーも役割ですから。15日まではお休みですので、しばらく休日。
人には、伝えたい自分がいる [2017年06月28日(Wed)]

 今日、偶然にも一人で事務所にいると「子ども食堂」について聞きたいんだけどとお客様が来られました。こちらは、お名前も聞かないままに、子ども食堂の話をしていると、「俺は何もできないから」と寄付をいただいた。正直にこんなことがあるのだ〜という誰もが経験することが少ない、人生の奇跡に出会えたような気がした。
 自分のことはあまり話さなかっったですが、海外の子どもの支援を長年続けられたと伺いました。人は何のために働くのでしょうかね。希望がある未来のために働くのではないでしょうか?「自分だけよければいい」とか、「お金が手に入ればいい」などという、個人さえよければいいような生き方には誰も共感をしません。
 私は、子どもや若者が自ら学ぶ上で、できる可能性があるならばそれを追求し、持続したいと思って事業を行っています。政治がダメだ、行政がダメだなどというセリフはもはや聞き飽きております。何も変わらない。夜な夜な酒を飲んで、わかったような話をしても何も変わらない。
 この変わらなさにうんざりしているので、NPOの活動を行っているのです。

先ほどの寄付をいただいた男性のように、生きてきて、なにがしかの思いをつないでゆきたいという人は少なくありません。私たちは、そんな人とともに活動をしてゆきたいと思います。

誰かのせいでもなく、親のせいでもなく、不安な社会が抑圧する [2017年04月25日(Tue)]

 子ども時代に不幸だったのは、あなたのせいです。親に対して子どもが言うことは、特別のことではありません。幸せな親子もいますが、不幸な関係で、親に痛めつけられた子どもが多くいます。私たちにとって、幸せな子ども時代を過ごしていない人は、子どもに対して無条件に関わることができなかったり、お互いに不必要な干渉をすることをよしと思ってしまいます。
 
 私が、不幸なのは、私を不愉快に思わせる人が悪い。そう言い切ってしまう人。他人のせいにしたほうが楽だから、むしろ、自分で判断しない事がその子に必要だから。実際、人を不幸にするような影響力を持った大人はいます。親、教師、裁判官、警察官・・・・・子どもにとっては、権力を持った人たちです。
 子どもは権力の前では、非常に無力です。あらがう事さえ知りません。従うしかないのです。この自分を殺す能力が、人を抑圧する力に転換します。それも教育や正義という言葉の仮面を着ながら。「この子のために」。「将来を考えて」という言葉の多くは、抑圧的な意味を含んでいると。抑圧をする人は、基本は卑怯です。自分の意見で言うのではなくて、誰かの力を借りようとします。
 でも、それしか子どもとコミュニケーションする方法を知らない、不幸を私は感じます。子どもに人生を返す勇気が、大人には必要だという事です
 
子どもは、意見を隠し持っている(関係性) [2017年03月18日(Sat)]

 「最近の子どもは意見を言わないから」という大人がいます。本当ですか??ともう一度聴きたくなります。うちに来ている子どもは、この1年でかなり意見をいいますし、考えてもいます。また、「考えていないふり」をすることもありますが。多くの子どもは意見を隠し持っています。(おっと手裏剣のようだ)
 なぜ隠し持っているかといえば、隠さないと大人に怒られたり、嫌がられたりするからです。問題は、隠すと何かをいう大人の側にあると、私は思っています。子どもも何かを言われたくはありません。否定されたくもありません。だから隠すことを選ぶしかないのだと、私は思います。
 子どもに意見を隠されて、不満を持つ前にしっかり聞いてあげることをしていますか?