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小さな勝利主義 [2022年04月17日(Sun)]

小学生の陸上競技大会、相撲大会、作文コンクール。
指導者、教師、保護者が、ついついエスカレートしてしまうと勝つための戦略をいろいろと考えます。指導者が、「こども」のために勝つための練習をくりかえしている中で、こどもが目先の利益で動いてしまっているところで、長期的なこどもの成長を図れないところもあります。
 短期成果と長期的な成長と、どっち本当に大事なんだろう?と考えます。

多くの人は長期的な子どもの成長が大事だと言います。

でもね・・・・・・

不安だから、小さなミニテストでもいい点数をとってもらえると安心するんです。と言います。

私は、こどもたちの成長を信じきれず、小さな大会やテストにさえ、いい点数や成果を求めてしまいます。そういうことってありますよね。

でもね
自分のことではなく、子どもを自分の不安でふりまわしていることも事実なんです。

子どもは親の不安に寄り添う存在ではありません。不安という妖怪は、確実なものが見つかるまで人をふりまわす、やっかいな存在です。私たちは、その厄介さとしっかり向き合う必要があるのです。
善良な人たちが子どもの命を守れないのはなぜか? [2022年02月06日(Sun)]

1月30日に大川小学校(石巻市)2011年の3月11日そこには108人の命があり、74名が死亡もしくは、行方不明になりました。子どもたちの命は、救えない命だったのか?高台に逃げる事はできなかったのか?
 答えは、逃げる時間も、行動する体力もあったのになぜ、救える命が救えなかったのか?
問題は、大人の判断です。

どうするのがいいのか?

大人たちが、右往左往しています。先生方の日ごろの人間関係や信頼関係までが問題にされます。

子どもを命を大切に思わない教師は、誰もいません。命を大事にしたいと思いながら、守れない。

いくら善良な人がたくさんいても、こどもの命を守るための適切な判断をして行動しなければ、命は守れません。教育現場にあるいじめ問題も同じ事です。誰もがいじめお無くしたいと思いながらも、行動しなければいじめは隠されるだけです。

「判断」は見えません。

きめる責任を負っているのは、大人である。という事。
忘れてはいけません。


教えない教育は、自分で表現しながら考える [2021年12月30日(Thu)]

なぜか、私たちは周りが休みにならないと始終呼び出されます。ようやく、年末ギリギリで休みになったかなあという感じです。

不登校の子どもも、引きこもられては大変だ(笑)と危機感を持った人たちに、いつも声かけされて大変だと思います。「放っておいてほしい」と思う時と「適当に声かけしてほしい」という思いが交錯している状況なのかと推察しています。

さて今日は、学びの話です。

多くの人は、知識が少ないから社会経験を積まなければ?本を読んで知識を増やさなければと思い込んでいます。不登校の子どもにもこのような、知識集積主義?の影響がはかりしれなく影響をしています。
生きる充実感が少ないという問題と、知識を増やすということは、全く別物と言っていいくらいに違うことだと私は考えています。いまある自分を、大きな視点で理解できないと、人はいつまでも自分は足りていないから、ダメだと烙印を押し続ける存在になります。

いまある自分でも十分に、挑戦も可能性も開けるのに、あえてそれをしないのはなぜか。

自分の中のリミッター(限界をつくる自分)を超えることができないからだと思います。

フリースクールは、どんな教え方をしているのですか?と聞かれて、「特に何も教えていないですよ」というのは、知識の量ではなく、思考の型や基本形さえ手に入れれば、どんどん自分が表現してゆけばいいと思っているからです。知識の量で表現力が向上するわけではありません。
どんどん表現して、大失敗しながら、笑われながら手に入れるものが表現力なんだと思います。

それでいいんです。どうせそれをバカにする人間は、特に仲良くならなくてもいいです。まして、その人のいうことを聞く必要もないのです。
子どもたちにとっての「良い教育」を! [2021年12月29日(Wed)]

良い教育とは何か?
ここ数年の、「こども庁」の議論を見ていると。子ども中心というよりは、「大人の思い」中心の教育論が、優勢である。「こどもに教育を選ぶことなどできるかねえ」「学校にゆかなくてもいいとか、学校にゆかない権利を守る」ということは認められないと政治家も官僚も言います。私は、戦後教育がつくってきた教育の独立や、国民の中での多様な意見の尊重が意図的に消されてゆくようで、がっかりさせられます。まさに、一言で言えば、制度中心の教育論が復活してきています。選択肢を与えるから子どもがゲームや遊びに夢中になって、社会のことを考えなくなるという論理がまかり通るようになってきました。
 子どもたちは、自分の頭で考えるように意思決定や思考プロセスをつくったり、対話を通じたゆっくりと自分の言葉を紡ぎ出すような学びが、学校教育制度の中で認められたとしたら、社会はもっと変化してゆく可能性があります。制度の中での自由や選択を全く否定しているわけではありません。
 もちろん制度内での改革も大事ですが、どうしても制度に合わないこどももいます。彼らを制度から自由にしたら、もっと能動的に学ぶこどもが増えると思います。良い教育は、こどもが制限されない中で思考や意見を伸ばすところから生まれるからです。
 こどもにとっての自由や選択肢の限定、制約を大人たちはあまりに無自覚にかけすぎているのではないでしょうか?家庭がしっかりすればこどもは育つ?という家庭中心主義の発想が、こどもを生きにくくしているという、「大人の側」からの主体的な反省は、いったいどこに消えたのでしょう?こどもや親の辛さは誰が聞いてくれるのでしょう?
「決まりきったことをなぞること」のつまらなさについて [2021年12月04日(Sat)]

 当団体、高校生ボランティアに、自分たちの活動の発表をしてもらった時に、学校では決まりきったことしかしていなくてつまらなかったけれど、方丈舎の活動ではいつも答えがないから、楽しいということに喜びを感じます。
答えはいつも決められていません。正しいことも間違ったこともありません。でも、そこに関わる人の学びになることが、私たちにとってとても大事なことだと思っています。なぞることをやめた時に、「ふと自分が見える」ように。
私たちは、みなさんと経験を共にしたいと考えています。
ただ黙って応援する人 [2021年08月31日(Tue)]

オリンピック、パラリンピックを観戦させたいという大人の多くは、
「感動を味わってほしい」
「頑張る姿を見てほしい」


この関心の裏側から見れば、

「子どもたちに感動をしてほしい」
「もっと子どもたちに、頑張ってほしい」

こんな意図が見えます。

子どもたちは、頑張って日々を生きています。中途半端に力を抜いて、活動しているわけではない。
誰もが一生懸命です。

それでも、もっと頑張らせたいと大人は思うらしいです。

もっといえば、結果を出すというところまで、大人たちは頑張らせたいのかもしれません。

結果なんか、いつ出るかわからないのが人間です。

もし、私が子どもだったら。ただ黙って応援する人が欲しいと思います。

自分は頑張っていると思っていても、周りからは頑張りが見えない。

それは、もっと頑張らせたいという欲かもしれません。

少なくとも、未完成の子どもの時に何を望むのか?

場合によっては、無駄な焦りを与えているだけのこともたくさんあります。









子どもは大人のいいなりになってはいけない [2021年08月07日(Sat)]

何かをしたからほめる。
何かをしないから叱る。
この場合の基準は、答えが一つであること。
これが教育だと、思われています。


大人になって出会うことは、正解のない問いです。

誰と学ぶのか?

何を仕事にするのか?どこに住むのか?

誰と暮らすのか?

どんな社会を創りたいのか?

どれも正解のない問いです。間違いもありません。

大人は、子どもにこうしてほしいと思います。

仮に「自分の家の仕事」をしてほしいと思ったとします。

大人の知恵で、上手に誘導もします。そんな時に「認める」ことを使います。

人の言うことを聞くとうまくゆくよと  と言う肯定かもしれません。

私は大人として言いたいのは、あまり「人の言うことを聞くな」と言うことです。

大人の言うことを聞いても、自分は幸せになれません。時代を変えてきたのは、時代に従わない人たちです。

大事なのは自分で考えるという行為です。

間違いがないのなら、自分で答えを出すことが大事です。

考えて、考えて納得してゆく。

大事なのは、自分の納得なのだと考えます。



不登校は「宇宙人」か? [2021年06月21日(Mon)]

不登校ってなかなか理解できないよねえ〜。
かつてよく大人たちに言われたことです。特別に何も悪いことをしているとか?
人に迷惑をおかけるわけでもないのですが、理解がされない。

要するに何を考えているかわからない人?社会に貢献しない人??と言われたりもします。

私たちは、目的や意図がわからない人を警戒します。時には「不審者と言います。

その意味で、私は不審者かもしれない。(笑)

お金をたくさん稼ぎたい。

いい車に乗りたい。

家を建てたい。

誰かと比べて、自分が優れていると満足したい。

わかりやすい欲望ですが、不登校の子どもたちは、概ねこのような欲望からは無縁です。

わかりやすい欲望や、願望がない人を理解するのが困難なのは、大人たちが欲望と煩悩にまみれているからだと思っています。大人が不登校の子どもを理解できないのは、「煩悩から解放されているから」ということもできます。

理解不明な不登校子どもたち。

しかし、ただの宇宙人ではありません。


私は、自分の生きかたを素直に見つめたい子どもを、未来への希望だと思っています。
生きやすく〜学びやすく〜 [2021年06月12日(Sat)]

不登校であっても、学校に行っていても

子どもたちは、学びやすく、生きやすい方がいいと思っています。
誰もが楽しく生きるを考えてサポートし合えば、問題はなくなるような気がします。問題がなくならない、もしくは深刻になるのは、本人の意思を何らかの理由で無視されるからだと思います。本人の意思を無視するときの常套句は、「お前のためを思って」というセリフです。
このセリフはありきたりですが、良くつかわれます。

自分が悪者にはなりたくないと、誰もが思いますが、いい人か?悪者かの前に。

自分以外の他人は、だいたい思い通りにならないものです。

思いどおりにならないから、あきらめるのではなく。

他者を受け入れることなのだと思います。人を変えることはできません。

受け入れることしかできません。

だから、誰もが理解して欲しいのです。学校にゆかないことを、そのままに。いいでもなく、悪いでもなく受け止めて欲しいのです。

生きやすさとは、受け止める人が増えることです。

誰もが心地よく生きる社会は、誰おも受け止め合う社会なのだと思います。

不都合なことは、たくさんあっても、それを受け止める力がないと誰も救われないのです。

学校にゆかないことを認めないという苦しさ、誰もが思いながらもこの苦しさを減らせないということ。この虚しさに意味はないのですがね。
正義は勝っても負けても、人の幸せとはあまり関係ないけれど [2021年06月05日(Sat)]

不登校の子どもたちは、「朝おきれない」病気なんだよ。と言われたことがあります。
「朝おきたくない」という方が正確かと思います。
これを病気と言われると自分では肯定も否定もできません。

全くあの人のパチンコが良いにも困ったものだ。病気みたいなものだ。

という表現に近いからです。

病気と言われれば病気かもしれない。でも、病名はつかないだろうと思っています。

ですから不登校の子どもが、朝起きれれなくとも病名はつきません。

学校にゆかない子どもの中によくあるのは「正論のジレンマ」だと思っています。
本当はこうした方がいいのに・・・・。
できれば、こうした方がいい・・・・・。大人が勝手な願望をぶつけます。それをしたから人格が良くなるわけでも、人から好かれるわけでもありません。

要は正義だと思い込んでいるだけなんです。

水戸黄門が印籠を出して、悪代官を懲らしめるとよく眠れる。という話に近いかもしれません。
うまくいってくれた方が、心地いいんです。

ただそれだけ。



子どもが学校にゆくと、機嫌がいいお母さんも、ほぼ同様に、お母さんにとっての当たり前をやってくれた方が心地いいだけなんです。なぜ、その当たり前に子どもは協力する必要があるのか?

協力しなくとも。幸せが少なくなり、不幸になるわけでもありません。

大人の機嫌が悪くなる程度です。ほんとに。
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