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短気であるということは、損ばかりではない! [2020年09月19日(Sat)]

私は短気である!

夏目漱石のようにいうと非常に気が楽になります。
なぜか?

短気な人間は、この社会の中であまり良く思われないからです。
「子どもの変化を一気につくりたい」
「社会の変化を一気につくりたい」

私は、この欲望にいつも かられています。

でも、人は思うように動かない。

若い頃ななんで動かないのか〜〜〜と心の中で絶叫していました。今でも絶叫しています。

変化をすると心地よくなるのに変化をしないのが耐えられません。

朝令暮改でもいいじゃないか?大人たちは、子どもから見れば、イライラしています。
子どもはこのイライラを見ていると、「だから大人は嫌いなんだ〜〜」とドン引きします。

大人は子どもが、どんどん引いていても イライラをやめません。

やめられないんだと思います。

結論から言えば、子どもはイライラする大人を見捨ててください(笑)

いいことは何もありません。

イライラがその人の凶暴性を、前面に引き出しています。
こどもは配慮しないからいい [2020年02月16日(Sun)]

 遊びのプログラムのスタッフとして現場にいた時。どんぐり拾いを3歳の子どもとやっていた。小さな「どんぐり」で、人に踏まれて割れているものもあれば、お尻の部分が取れたものもあった。こどもからすれば不思議である。似ているようで似ていない。皮を剥けるのか?剝けないのかもわからない。
このわからなさを、不思議と言えることこそがとても大切だと私は思う。
 最近は、遊びのプログラムに親がついてくることも多い。親は手を出したがる。子どもと一緒に遊びたがる。しかし、遊ぶには体も固すぎるし?感性も常識的すぎる。不思議だという力が弱すぎて、わかったふりをしてしまう。子どもの教育にとってこのわかったふりほど、頭に悪いものはない。疑問を持つから学び続けるのに、疑問を奪ってしまうから。
 
 先の話に戻ると、私は硬いどんぐりの皮を剥きながら、不思議そうな顔をしている子どもに未来を感じていた。不思議を感じることができるからもっと先が見える。これを読んで「ポエムだ」と言い切る人は、人間の感性を信じていないかもしれない。感性のない人間と、私はあまり楽しく過ごせた記憶がない。
罪悪感の捨て方 [2019年05月06日(Mon)]

 いよいよ、「連休最後」の日です。
自分自身が経験した強烈な休みは、イスラエルでの経験です。金曜日 日没から土曜日の日没まで安息日でした。ユダヤ教では、安息日は大事な聖なる日。1週間に一度お正月があるような具合です。誰もがこの日は家族でともに集い、労働はしません。路面電車もバスも動きません。食料品店も全て閉まって、誠に徹底しています。
 日本人は、労働の前の準備として休む人が多いと思います。勉強の準備。仕事の準備。兼業農家は農作業をします。ユダヤ教に学べということもありませんが。もっと真剣に休んだほうがいいです。休みがあるから働けるのであって、働くために休みがあるわけではありません。
 勤勉な人は、休むことに罪悪感を覚えます。もしくは、休み明けのことを考えて憂鬱になります。学校の先生も休み下手。会社の上司も休み下手。休めない人は、休むと強烈な罪悪感を持ちます。だから一緒に休んで、罪悪感を軽減しようとしているのかもしれません。(俺だけじゃないよ症候群)。ここからが本題です。罪悪感をどう捨てるのか?ということです。休みは、何も考えない。家族や大事な人を思う時間にすることだと思います。部活動も会社の飲み会も共同作業も禁止。もし、休みを食べに来る人があったら無視していい(この法律をつくりたい)
 「休日維持法」
私たちが、徹底的に休むことができたら、この国は思考の転換ができて、「人間本位」の社会に近づきそうな気がします。この日本の中で「休む」ことを責める社会に問題があるというキャンペーンを行いたい。「さあ休もう」そして、「自分を粗末にするような罪悪感を捨てよう」休めば多少の罪悪は罪悪は許されるような社会にしたいです(笑)
 苦しい思いをしている、学生さん。積極的に休んでください! そして、自分を犠牲にしない生き方をまず学んでほしい。自己犠牲なんて、何も生まないですから。自分を大事する。それこそが休みです。さて、私はあしたからが本格的なoffになるようにしようかなあ。個人的なことですが、休みでもなんでも、他人に合わせることが私自身は非常に苦手です。
お父さん!モテる男の子を育てましょう [2017年11月01日(Wed)]

私も例外のないダメなお父さんです。
しかも、不登校の子ども1名、通信制高校に通う子ども1名。私自身も、通信制高校、大検合格で大学入学をしているので、子どもの学歴とか学校の成績には本当に無頓着です。しかし、社会とつながって、楽しい人生をすぐすためにはどうするか?大勢の人とつながる、つながりかたや。学びかたを伝えています。
 家事も一緒に行い、料理や弁当も、子どもは自分でできるようになりました。少なくとも、うちの子どもは、女性の話も聞けるし、家事もできる。なにより、女性に優しく接することができるので、女の子からモテると思います。
 女の子に好かれる男の子を育てるのは、実は家族が円満になるコツだと思っています。なぜなら、母親は息子が彼女ができれば、口を出さなくなりますし、なによりも自立をよろこびます。不登校の問題よりも、モテる男の子にしてゆくことの方が不登校から先の課題を解決しそうな気がします・・・。
 目の前の課題だけを追うのはやめませんか?というご提案も含めて。
学校に行かないを「整理」して考える [2017年10月26日(Thu)]

 学校に行かない子どもたちと、日々向き合っていますと、「学校に行く」ということを目的にしすぎるから問題が起きていることが見えてきます。そこを整理して考えると、感情論や正しいか正しくないかわからない常識論におおわれて、本質自体が見えにくくなっています。
 学校に行くことは、人生を楽しく生きる、社会で貢献する=対価を得るスキルアップの一手段であって、学校にゆくコト自体が目的にはなりません。ここは冷静に考えると、集団生活ができなくとも、運動会で活躍できなくともそれ自体は問題がないです。
 学校で得ている、理解能力や知識を活かし、むしろ学校では磨かれない対話能力や社会への参加能力を自分なりに磨けばいいのだと思います。プログラムの言語が得意な人も、英語が得意な人もいます。日本人でも、会話が苦手な人もいます。それを問題視するよりも、プログラムが得意な人は、プログラムで活躍してもらえばいいのです。いわゆる、バランスのいい全人教育を手放してみると見えてくるものがあると。
 そこを、各ご家庭で、整理されるコトが大事です。
ソーシャルワークもカウンセリング、課題を整理するコトからしか入れません。やっているコトは専門家でも同じなんですね。
一方的な話は子どもだって苦手 [2017年01月12日(Thu)]

不登校の子どもは何を考えているかわからない。話を聞きたい。話をして欲しいという人の悩みを聞きます。問題は子とコミュニケーションなので、自分が何を考えているのかを伝えなければ。誰も意見など言えません。大人は自分の意見を上からの命令や指示ではなく、伝えるべきだと思います。
 子どもたちも、大人の考えがわかって初めて安心もするし、自分の考えも言えると思います。お互いの、関係性の産物がコミュニケーションだということをしっかりと理解すると、以外と意外な展開も待っていますよ。子どもと思わぬ幸せが会話ができたりとかね。
異なる価値観の人との対話(相手の価値に興味をもちとびこむ) [2017年01月08日(Sun)]

 同じ考えを持っている人と話をしていると実に落ち着きます。自分の考えを変える必要がない。しかし、自分の中に変化もおきません。つまらないことが続きます。私のような、常に変化を創りだしたい人間には、耐えられません。
 でも、実は学校や役所も、その中にはしっかりと組織を動かす価値観や文化があって底流を流れています。私たちは、遠くからそれを批判しています。あれはダメ、これは時代遅れなどと。たしかに、なおさなければいけないこともたくさんありますが、一旦どっぷりつかってみてはいかがかと。これは相手の文化を受け止めるという行為で、民俗学のフィールドワークでは欠かせません。
 その昔、教育委員会に5年所属した私は、その底流に流れる価値観をある程度知っています。ルール重視の原則や話し合いによる課題の解決、情報の共有のあり方。できるだけ、穏やかに処理をしたい。不平不満しか言わない親。自分を省みない親。子育てができない親。などへの冷ややかな視線も知っています。
 多くの先生は、人に関わる教育をつうじて子どもの内面にプラスの変化を起こしたい、と誰もが思っています。しかし、この変化の起こし方で悩んでいるのです。変化を起こすのは、理解を深めてゆく対話しかありません。相手が何にこだわり何を受け止めきれないでいるのか?大切にしている判断の基軸は何か?
 今月の日経新聞では日産のカルロス・ゴーン社長の自叙伝が掲載されています。その底流に流れているのは、異なるものへのしっかりとした理解と経験を積んだものへのリスペクト(尊重)。それを踏まえた変化を起こす力です。
 私たちは、あなたの想いを軽くは見ていない。そこを、保証された安心感があれば人は、変化に同意してゆきます。上からの命令での変化は。離反しか起こしません。変化を受け入れさせる対話を、学んでゆくことも大事だと。こんな勉強を、ぜひ教育課程に入れたいと私なら思ってしまいます。
 
子ども目線 [2016年09月17日(Sat)]

我が家には、不登校の子どもが二人いるので、学校との関係が非常に困難になりがちです。つまり、先生は、子どもが家でどのように過ごしているか気になる。できれば学校に戻って欲しいと思っている。
 子どもたちは、安心して過ごせるなら戻ることも考えるだろうが、当面その気はない。だから私は学校と家庭の行き来をしながら子どもの現状を伝えているのです。これがなかなか苦労しています。「家庭訪問は望んでいません。」「学校のプリントもいりません。」「必要があればこちらから連絡します。」
 昨日家に帰ったら、大量の学習プリントの束が置かれていた。学級通信では、生徒の活躍する様子が、北朝鮮の新聞のように書き出されている。こんなの学校に行かない子どもは興味がない。自分には関係ない世界であるからだ。しかし、教師も一生懸命に学校の様子を伝えてくる。まるでそれが教師としての責務を果たすかのようでもある。
 うーん。何をしたいのかな。本人に学校に行かなきゃという葛藤でも起こさせたいのかな?と思う。静かに毎日楽しく過ごしている子も、この日はつまらない。いわゆる水を差すことこの上ない。
おそらく先生は、善意なのだと疑っていないのだろうな。しかし、子どもに伝わらなかったどんな善意も自分の「思い込み」にしかならない。下手をするとその思い込みを押し付けることが教育行為と言ってはばからなくなる。
 やめて欲しいと言っているのにどうしてプリントを持ってくるのですか?「私も担任ですから、他の子と同様に扱いたいのです」「こちらはいらないのですが」「配慮が足りませんでした」「配慮が足りないというか、こちらで何を伝えても伝わらないような気がしています」「やめてください」
ここからは何を言ったか覚えていないが、最後に、子どもと向き合うということは物理的にも顔を合わせて話をするということだと思います。「この行為がいくら生徒のためを思っていても文書だけ置いていっては何も伝わらないですよ」とくりかえし話をした。なんか一律の対応しか受けていない気がする。少なくとも人として向き合ってもらっている感じはない。困ったなこの言葉の通じなさはなんだろう?何を言っても無駄だと思ってしまう子どもの気持ちがよくわかります。