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雨だったり、晴れだったり、楽しかったり、苦しかったり [2021年06月19日(Sat)]

最近、我が家では猫を飼うとか飼わないとかで、だいぶ盛り上がっています。
猫ほど正直な生き物はいないと、妻は言います。猫は爪を研ぐから家が壊されると、年寄りは気遣います。
単純に可愛い。
いるだけで癒される。

猫はそれでいいんです。お金を稼ぐこととか、経済的な自立なんてほとんど求められてもいません。

この期待のされない感覚がいいなあ。


誰も期待してくれるな。


傷つけてくれるな。

多くの子どもから、そんな言葉を受け取ります。


ふんわりと猫のように、我がことも付き合っていただければ嬉しいです!!

修正力が大事 [2020年12月16日(Wed)]

失敗しないように準備する。
できることよりも、できていないことに注目する。

どれだけ、私たちは失敗が怖いのだろう?と思わされる。
問題は、何度も何度も失敗しても挑戦することの方がはるかに大事なことで、修正する力に力をおいた方が課題解決も進むにもかかわらず、失敗だけを恐れている
修正する力が伸びずに、不安だけを肥大させている。

不登校が問題ではないと言い続けているのは、単純な不登校は、何も失敗していません。あえて言えば、学校にゆかないことを気にしています。ここで周りが不安にするのではなく、本人の選択を応援いただければ十分に本人は元気になれます。前向きにもなれます。

実は、不登校を怖がっているのは大人なんです。修正できないものだと思っているからです。修正はいつでもできる。これが私たちの基本的な立場です。どんどん、いい方へ変えて行ければそれでいいんです。子どもは失敗からも学べれば、怖いものが一つ減ります。
違いを見つめる視点 [2020年10月29日(Thu)]

 日本学術会議の委員選出の問題で、内閣総理大臣が任命しなかった理由が「同じ大学に偏っている」「年配の人が多い」等々という理由を言ってきて一見もっともらしいなあ。こういうところで多様性と使うのかと思いました。
 それであれば、政府の職員の皆さんも、外国籍の人や不登校経験者、女性、採用年齢基準の引き上げ。副業の容認等々、バランスよく採用がされているのか?と問いたくなります。おそらく、自らを顧みない、発言である可能性が高いでしょう。
 違いを容認するというのは、本質的に異質を受け入れるという覚悟が必要なんだと思います。自分の意見に対立するかどうかも含めて、異質を受け入れる覚悟がなければ、多様さを引き受けるなどとは発言しないほうがいいのに、首相もそれを受け入れてしまうところに、「言い訳」を感じますダメだ〜。
民主的教育は多様であった方がいい [2020年10月05日(Mon)]

必ず投票は1票じゃないといけないのか?
学校の入試は、複数回のテストの合計の偏差値で、複数校に願書を出してはいけないのか?

仕事は、なぜ毎日同じ場所にゆかなければならないのか?

子育てを時々人に頼む仕組みを作ることはできないのか?

小学校や、中学校は選べないのか?

大人は、高校で勉強してはいけないのか?

受験以外の勉強をもっとできないだろうか?

教育の多様性は、制度や利用する人の多様性と連動して初めて意味を持つのだと思う。
どんどん異質の人が参加して、そこで変化を楽しめればいいのであって凹んだ人を作るのが目的ではありません。











気がつけば3ヶ月・・・・ [2020年09月18日(Fri)]

あっという間に夏が終わり秋に・・・・
朝5時はセミの鳴き声から、薄暗い夜明けに変わる

季節はこのように、日々同じ日はない。

われわれに流れる時間も同様に、同じ日は1日たりとてない。

とても素敵なことだと思う。

苦しみも。悲しみも同じ日はない。


わたしは教育の専門家ではない。しかし、20年も同じ仕事をしていると、専門家になる。不登校への知識や法律も身につく。教員とも、そこそこわかったような話もできる。よほどの怠け者でも、20年やって何も学ばないのは、かなり至難の技だと思う。要は、その仕事をある程度積み重ねれば専門性を持って生きてゆけるということである。

不登校の子どもたちに、よく将来何をするのか?と聞く人がいるが、この子どもたちも大人になって20年も仕事をしていれば、そこそこの専門家になれる。

積み重ねをしない日など1日も存在しない。

私たちは、時間というものを甘くみている。

親子のわだかまりも、憎しみも時間によって変化するのだということを忘れている。



NPOは地域社会をつないで、活性化できます [2019年12月03日(Tue)]

 NPOという組織形態で、フリースクール、環境教育、子ども食堂を行なっています。「地域の中で必要な活動です。」という思いを理解してくれる人はたくさんいます。でもこの団体が、活動が地域の中で応援されるだけの存在なのか?地域の中で介在的な問題も含めて貢献できる存在なのか?といえば、応援だけしてくださいというお願いだけで、変化がつくれるとは思っていない。
 われわれにできるのは、地域課題を解決しながら、地域を横につなげてゆく。地域の人たちが前向きになれることだと思っている。貧困のこどもたちが、意欲を持って地域社会に参加できるだけで、未来の社会は大きく変わります。お互いにつながるだけで、不登校の問題を、課題を抱えた子どもへの見方が変わります。自分にこだわる子どもと見るか? 多くの人が、彼らのことを応援してもらえるかどうかで地域が変わります。
 多様な主体が担い手になることは地域の財産です。多様な人を排除して、地域が成り立つことが多様性を失った、非寛容な社会になります。多様性を失った社会で、人がどれだけ不安と孤独に苦しまなければならないか、と考えると、私たちが、学校にゆかないだけで孤独や不安に思う人をつなげている意味は大きい。直接的につながる人がいるだけではなく、私たちを通じて、経済や関係性も改善してゆくことができる。地域には、困難を抱えた人たちさえも活動すればするほど、変化をつくれる。これだけで希望が生まれる。誰もが合わせるだけに、汲々とする必要がなくなるから。
 周りを見て合わせるだけの社会の、「閉塞性」こそ排除されるべきもの。私たちは、自らの活動を通じて、闘わずして「教官」と「信頼」で人をつなぎながら地域を変えることができると実証したいと考えている。
 
大人の疲労と、子どものあきらめ [2019年08月22日(Thu)]

大人は、疲れるとお酒を飲んで寝たりする。ちなみに、私も子どもの頃は何で、あんな風に眠れるんかなあ。疲れるって、どんなことなんだろうかなあと思っていました。
 大人になって、疲労を感じています。どんな時に感じるか?これはなんか絶対伝わらないなあ、という絶望を感じてしますのです。言語は同じ、日本語は伝わっていますのにねえ。「君の話を聞く気がないよ」というオーラをすごく感じます。自分が言いたいこと。説得したい気持ちが満載なので、聞くことに意味を感じていない。
 これは全くもって、時間の無駄です。同じ言語としても共通しない。共通体験はないのか?記憶の中の言葉を呼び起こしても、伝わらない。絶望と同時に疲労を感じます。疲労は、想像を壊す。未来を壊す。挑戦を壊す。
人は、縦割りでは切ることができませんので横につながってもらえませんか [2018年02月28日(Wed)]

 私たちは、さまざまな課題を持った存在です。でも、行政は課題別に対応します。不登校は文科省。医療、学童保育、保育所は厚生労働省。子どもの権利条約、若者支援は内閣府。と、まあこんな具合です。これを横断的に捉えると、子どもの権利に基づいた保育、学童保育。小児医療における不登校児童生徒の考え方?などとなってしまうと。横のつながりが全くないので混乱を起こします。そもそも、医療で不登校は心理の問題にされますが、ただ学校に行かないだけの問題です。
 不登校が、学校を30日以上欠席した生徒のことを指すと言うことを知っている医療関係者は少ないです。また、児童精神科医が、地方にはほとんどいないということも学校の先生は知りません。知識のない一般精神科医が、本人や親の希望で投薬を試みることも未だに行われています。
 精神的に異常な状たい=不登校と単純に言えない、これをイコールで結びつける根拠がないことを知っている教師もどれだけるかわかりません。もっと、不登校や学校外の学びの経験。不登校後の医療との関わり、家族の関係づくりによっては進学どころか統合失調症で障がい者になる場合さえもあることの危険性をいう人も少ないです。
 要は、これまでの不登校の子どもの経験はこの数10年のデータベースさえもつくられていません。追跡調査もあいまいです。なんとかしなければ、大人が闇雲に動くことの犠牲者が増えるだけです。
子どもたちは、生まれながらに感性が鋭いのに [2017年10月13日(Fri)]

「子どもたちの感性が育つ教育」というキャッチフレーズを見たときに、「子どもたちは、生まれながらにして感性が鋭いのに何を言おうとしているのだろう?と疑問に思いました。私たち大人は、かってに、感性は後からに育つものだと思い込んでいないでしょうか?私たちは、むしろ大人になるにつれて、感動したり、喜んだりという感性を失っているといったほうがいいと思います。何かをあきらめながら生きているのだと思います。
 一旦あきらめた感性は、なかなか元に戻りません。むしろ、諦めているということさえもわからなくなります。大人たちは、子どもを疲れさせることが大事だと勝手に思っています。そうでしょうかね。疲れさせられた子どもは、意欲的に行動できていると、思っているだけではないでしょうか?
 スポーツや学校の勉強以外で、子どもが認められる機会が増えることが大事だと私は感じています。生まれながらの感性が自分も、周りも素直に認められるように
自分が好きなことが、価値が低いといわれるショック [2017年07月03日(Mon)]

「フリースクールに行ったら自分が本当の不登校になってしまうから」

という発言がAERAをめぐる記事で行われていました。この意見は多いと思います

この内容を私なりに解題すると、
@学校に行って、テストで良い成績をとる。部活で成果を残すのが「望ましい」
Aフリースクールは社会から評価されないし、周りの人も低い評価しかしてくれない
Bこの保護者さん自体が、周りの価値観や序列化を受け入れている。よって、不登校の子どもも評価しない


たしかに、フリースクールは最後の手段でも良いですが、子どもが辛さを受け入れながら学校にゆく困難、つらさを、誰も触りたがっていない気がします。学校で学ぶというよりは価値は、学校がもっている制度化されたものを受け入れる価値観を疑う人は少ないです。子どもの序列化を受け入れる価値観こそが本人を追い詰めているのだと気づけない。
 行政というよりは、保護者が自分自身の葛藤を引き受けていただくか、社会に出て行く手段としてのフリースクールを機能的に受け入れていただくか?不登校の親の会が行っているのは、親の内面的な価値観の変容を、ピアカウンセリングのような形でうながしています。

話は変わりますが先日、陸上の末續さんが、自分は好きで毎日走っているのに、学校にゆくと「おまえ罰だから校庭走ってこいと」と先生にいわれ、生徒もイヤイヤながら走る。走るのが苦行になっていると。
 ある人にとってとても楽しい「走る」という行為でも、違う視点からは「罰」にもされることの価値観のあり方に注目したほうが良いです。罰としての走りを強調されれば、走ることが好きになれない生徒は多くでます。だって罰なんですから、同じように学校に行けないからフリースクールというのもどこか、オプションというよりは罰のような感じもします。


違う意見を持つ人との会話が必要なのだと思います。フリースクールを価値のないところという人に対して、そこに楽しんで行っている人がいて、学べて、考えられて、いろんな意味で大人になれる環境と機会があるということがわかれば良いだけです。それを貶めている大人がいれば、放っておけば良いのです。自分たちが丁寧に説明する努力は忘れてはいけません。
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