相手を柔軟に受け入れてゆく、自分も変わってゆく [2017年01月09日(Mon)]
私は、80年代に学生時代をおくっているので、学生運動や原理的な政治・社会運動を知りません。ただ、左翼的な政治運動に関わる人は、私の目から見て(いまもそうですが)善良な人が多いことに気がついていました。まじめで、困った人への配慮さえも欠かしません。自分の時間、お金をいくらつぎ込んでも惜しまない勇気には感動さえもします。
しかし、その妥協を許さない、相違点を見つけては相手に打撃を加えるだけの論法には、同調はできませんでした。意見が違う人たちを遠くへ追いやるだけだし、時には分裂さえも辞さないからです。自分たちを守っているだけではないか?と思うことさえありました。私たちは、困難を抱えた人が生きやすいような変化をおこしつづけて、社会が変わっていった時に仕事をしたと実感します。 町のおばちゃん。建設業の人たち。日雇いの人。風俗のお姉さん。私は誰とでも話をさせていただきます。その人を知らなければ、その人が抱えている困難もわからないからです。困難さは、その人にとって絶対的です。そこを理解されないと誰も心を開きません。 同情は絶対何も生まないと思います。そんな安っぽものではない。ただ相手を受け入れること大切です。 私たちは、戦後の民主主義の経験を70年以上積んでいるはずですが、実は、人の気持ちのやりとりが見えていないのではないか?とふと気がつきます。そこが本当に大切なのにと。昨年、日米首脳が広島とパールハーバーを訪れました。この不戦の誓いを、現実に変えててゆくには、受け入れることが必要であると。 トランプも安倍さんも受け入れることを続ければ社会は変わるのだと実証して欲しいです。 そして私たちの、身近かな他者も受け入れあえば変化はきっと、相手の方に生まれると信じています。 |