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何もできない大人たち [2018年09月12日(Wed)]

 私たちは。子どもに対して、日々何もできないという経験を重ねています。ただその子にとっての最高の選択を応援するコトしかできません。自分で考えるコトや他者とのコミュニケーションをいかにとるのか?ぐらいは、提案できるコトがあります。
 関係づくりができる子どもは、へこたれません。関係を丁寧につくってゆきつづけます。そこから想像的なアイディアを出せたら最高に楽しいです。誤解のないようにいえば、一方的に「ハイ」言い続ければ関係がつくられるわけではありません、適切なフィードバックが必要です。
 自分の言うコトに、自信を帯びながら、自分で言えるのであれば特に問題はありません。適切なフィードバックが言えなかったりするから問題なのです。話を受けつづけるコトが適切なわけでもないというコトです。相手のコトを考えた、適切な自己主張が必要です。
 このチカラを身につけるのは、常に自己の権利を理解し、失敗を恐れないで挑戦し続ける子どもにしかできないコトです。
子どもは守られた時に、自由を手に入れる [2018年09月09日(Sun)]

 最近、スポーツ界のパワハラ問題は実に興味深い。日本のスポーツ界は、学校教育と密接な関係にあると思います。学校教育もスポーツも子どもには常に競争が必要と日々勝つために準備や練習をしています。勝つための行き過ぎた指導が、人権侵害や個人の尊厳を無視することにつながっています。
 日本の教育の中には、人権侵害を容認する風潮があります。本人の成長の為、社会の為、親孝行・・・:?とかいろんな理由が言われます。しかし、そのどれもが本質的なものではないと思います。本人の意思が尊重されているのか?そもそもどう生きるのかということは競争するものなの?という大きな疑問もあります。
 自分自身が試合に勝つことは大事ですが、その中からなんらかの実現したいものを見つけて挑戦
するもので、それは自分が二人としていない以上「競争」ではありません。学習も、ただ、入試や就職ということを考えさせられるから、競争だと思わされているだけだと思います。
 スポーツ界でも、海外に拠点を置いている選手も多くいます。彼らは自分との戦いであり、そこに実現する課題を持っています。必ずしも競争ではないので、同じコーチにがライバル選手についていることさえもめずらしくありません。
 教育もスポーツもフェアで挑戦すべきものなのに、権力や当事者以外の思惑が入るのは迷惑千万です。大人たちの思惑で子どもが影響を受けることを良しとはできないですね。

憲法と子ども [2017年05月02日(Tue)]

端午の節句(5月5日)と憲法記念日が近いということは、全くの偶然です。しかし、この偶然によって大事なことを一緒に考えることもできます。子どもの貧困だけではなく、子どもの問題を考えることは、権利の問題抜きには成り立ちません。
 自分の意思で学習をするという、自分の時間を他者に干渉されないということは、子どもにとっては、必須のことです。生きる権利は、どんな子どもでも補償されなければならない。実際、子どもにとって、何が必要な学びかは子ども自身が決めることで、大人が、どうのこうのということでもない。しかし、大人は勝手に学ぶ内容を決めて、それを学ばないと子どもを安易に否定します。否定されるのも嫌ですが、権利について発言しないと守られないのも嫌です。
 そもそも、教育の場では権利について学びません。固有の権利があることを大事にしません。だから、他人の権利も大事にしません。要は権利を踏みにじったほうが「勝ち」のような社会が続いていることも、子どもが学ばない要因です。権利を大事にしない大人は、自分も誰かに大事にされていません、いじめ自殺が後をたたないのもこのせいです。子どもの権利擁護を全力で行う人がいない。子どもは宝であることを実行を通じて証明して欲しいと。今年も思うこの頃です。
宿題をしない冬休み・大人は放っておく勇気が必要 [2016年12月27日(Tue)]

 子どもたちは楽しい楽しい冬休みです。うれしくてしかたがありません。
わかるな〜この気持ち。みなさん、同じ解放された感覚をお持ちになったことがあると思います。しかし、なぜか大人は子どもに対して宿題をたくさん出すことを喜びます。子どもが遊ぶことが嫌いみたいです?どうして・・・・・?なまけているように見えるから?
 大人は親睦と称して、お酒を飲みに行ったり場合によっては、カラオケや異性のいるところでチヤホヤ慰められないと生きてゆけないひともいます。買い物好き。ディズニーランド好き。落語好き。スポーツ好き。大人はこのようなことには非常に寛容なのに、子どもを遊ばせてくれません。
 子どもから言えば一言「ずるい」です。大人はよく遊ぶのがよくて、子どもはよく遊ぶのがなまけなんてヒドイ。遊びから考え学ぶことなんてたくさんあります。むしろ、私なんて遊びからしか学んでいない。冬休み、大人は子どもを放っておく勇気を持ってくださいとお願いしたいです。
 そこからきっと貴重な未来の目が生まれるはずですから。
 
いじめ防止基本方針 [2016年12月26日(Mon)]

いじめ防止法、3年目の見直し時期に来ております。いじめ発見の件数は増加しているにもかかわらず、調査や再発防止策は、あまり進んでいません。10代の子どもが年間約300人自死しているにもかかわらず子どもの生存、学習に関する権利侵害にあまりに無頓着な大人が多い。
 子どもが苦しくとも頑張る姿。勉強やスポーツに汗を流す姿を美しいと思いすぎてはいないか?時に親にさえもいじめにあっている事を言えない子どもと出会うたびに苦しくなります。我が子も中学1年生でいじめに遭いました。今年中学3年になりますが、未だに彼が学ぶ権利について学校側は権利侵害がそこに起きている事に無頓着です。
 子どもは学校も教師も選ぶ事ができないという事実に大人が甘え過ぎている結果だと私は考えます。すべての子どもが学校に満足して通っているわけではない。辛い思いをしている子どもがそこにいるという事。一人でも権利侵害の状態があれば、それを解決しなければならないという責任が教育行政にはあります。私たちは、この制度に無関心であっていいはずはありません。あなたの市町村でのいじめ防止策をぜひご覧になってください。一人ひとりがもっと関心を持ってください。
生活と営み、学ぶのは、子どもの責任ではない [2016年09月07日(Wed)]

大人として自分だけではない。子どもが学ぶことを社会はどのようにとらえているのか?社会の責任をが問われている。未来の大人への責任と言い換えてもいい。子どもが「貧困」や「虐待」、「いじめ」や「犯罪」にまきこまれるのに、社会として無関心であってはならないと私たちは考えています。
 企業も社会福祉法人も行政もできることは、相互に活動を積み重ねて行かなければならないと。貧困にある子どもが、居場所を、緊急時のシェルターを必要としている。今ある施設や事業の幅を広げられないかを考えるのは大人の責任だと。しかし、横につながれなくて、予算がないからを言い訳ばかりして課題解決に向き合おうとしない大人が多すぎるのは非常に残念なことだと思う。
 要は繋がることで解決してゆく課題を先に解決しなければと。私自身が深く考えている。あらゆるタブーを排しながら考えなければと。
子どもの権利〜2〜子どもの権利はどこで学ばれているのか〜 [2016年05月03日(Tue)]

1989年「子どもの権利条約」は国連で採択され、1990年国際条約として発効しました。日本では1994年4月22日に批准し、1994年5月22日に発効しました。すでに20年以上にわたって日本にも深く関わる子どもの権利に関わる条約について、当事者の子どもは、いつどこでこれを学んでいるのでしょうか?いや、そもそも学ぶにいたらないにしても、学校の教科書のどこに書いてあるのでしょう?
 子どもの権利の擁護すべき教師、親を含めた大人は、子どもの権利について一体どこで学ぶのでしょうか?子どもの多くは「子どもの権利条約」を知る機会がない。子どもの自身の権利を子どもは身につけられない。つまり、子どもは、自分が権利を持つ主体であるということに気づかされずに、大人になっているというのが事態である。
 非常に残念なのは、与野党問わず教育行政も含めて、子どもは生まれながらにして権利の主体であり、親であってもそれをおかすことができないという事を教えない。虐待も含めた子どもへの権利侵害に対して非常に無頓着な実態を放置している事が非常に残念である。
 2000年に神奈川県の川崎市で子どもの権利に関する条例が定められて以来、各自治体では、子どもの権利擁護の動きが広がっている。
子どもの権利〜1〜 [2016年05月02日(Mon)]

明日は憲法記念日、まもなく子どもの日になる。
内閣府発行昨年の「子ども・若者白書」によれば、自分自身に満足していない子どもの割合は日本では45.8%、韓国が71.5%、アメリカが86.0%、スウエーデンが74.4%である。日本の子どもや若者は、自分のことが好きになれないのが現状だ。家族の中での、社会への不安がある。しかし、私が一番気にしているのは、日本の学校、家庭では子どもの権利についての教育を行わないことだ。
 自分の権利について、日本の子どもたちは学ぶ機会が全くと言っていいほどない。子どもも、大人も「権利」について全く知識がない。私は、権利というのは平たくいえば、自分を攻撃してくるものに立ち向かう武器だと思っている。自己を肯定する基礎だと思っている。
 自分を守る術(すべ)のないものが、不安を感じるのは当たり前だと思う。自分がなぜ自分のことを好きになれたのか?それは、憲法があったからだ。私は、偶然に近い動機で大学は法学部に入学した。このことが、私を少しづつ変えていった。
 私が大学1年の一般教養で憲法を学んだ時の先生は小林直樹先生であった。先生は、平たくいえば日本国憲法はその成立についてさまざま議論があるが、いまだに意外とまともだということを自覚した。憲法26条第1項には教育を受ける権利について書いてある。「国民はその能力に応じて、均しく教育を受ける権利を有する」この権利を行使するのはまさに子ども自身だということが、教育を支える法的な根拠である。
この権利を理解し行動することで、自分を社会を変えてゆくことが可能になる。この続きは、また明日以降書いてゆく。