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可能性にフタをしないこと [2021年07月31日(Sat)]

不登校だったのに、高校に入学できてよかったね。
不登校を経験しても、立派に働いているのはすごい。

不登校であることは、可能性がないことと同義だと思われています。

学校にゆくかゆかないか?学校でいい成績をとるか取らないか?
子どもたちの可能性にフタをしているのは、誰なんでしょうか?

「学校にゆかないのは、子どもの可能性を奪うことだ」というフタをつくっているのは、大人の価値観です。そのフタを受け入れて、自分で締めているのは子どもです。自分でフタをしたものを、簡単に外すことはできません。
だから、子どもたちは深く苦しんでしまいます。

逃げることもできません。

大人は、その罪深さを自覚することもしません。

自分たちの知恵を、どんどん集めれば、どんどん成果も出せるのに、子どもたちはどんどん行動を制約されます。エネルギーを奪われた子どもたちは、出せる成果も出せなくなります。

フリースクールでは、お互いの力を集めて挑戦してゆきます。
子どもの可能性を開いてゆきます。

自分の可能性にフタをしないように。

私は、みんなになじめません [2018年04月10日(Tue)]

 春がはじまり、うちのフリースクールでも新しい学期がはじまりました。今日は初めての日、みんなが緊張してやってきました。自己紹介や団体のミッションの確認をする中で、多くのこどもたちは、少しづつ慣れてゆきます。
 「みんな違っていい」といっても、なかなかみんな違っているようには見えません。同じ意見を持たないで、バラバラであることになれない人もいます。「なじめない」という感覚は実は大事なのです。違和感、違うという感覚こそ人を人に育ててゆきます。
 なんか違う

これでいいんです。同じ人なんて誰もいない。これでいいんです。
強い子は、盆栽のようには育たない。旅のすすめ。 [2017年04月10日(Mon)]

 教育という、人生を生きる手段の出口は一体なんだろうか?などと馬鹿な抽象的なことを考えています。私のような高校を途中でやめちゃって、ある意味「公教育から避難」した人間には、何かを覚えたり、試験をしたりという中からいい経験をすることはあまりありませんでした。
 自分を育ててきたのは、「旅」だと思います。今でも、そうですが、違う自分を発見できたり、異なる価値観の中で、何が課題の解決かを考えるのは非常に勉強になるのです。ある意味違う環境では、自分は、赤子のように何もできないし、もがいても、その社会の中での解決をする手段を知りません。だから、嫌な人間にも聞くし、変に意地を張らないほうがいい。
 多くの親は、子どもの成長、学校の学習の成績を気にして心配します。少しでも何かしてあげたいと、運動クラブ活動の応援に行きます。それもいいです。しかし、それだけでは子どもは、自分自身が本当に社会の役に立てる存在なのか?という自己効力感が高まりません。学校の成績もクラブ活動も非常に限定された条件の中の出来事ですから、限られた中だけで自分に気がつくことができないのです。
 私は、人間も一度フォーマットが出来たら、それを壊して自分なりにカスタマイズする必要があると思います。日本の公教育が苦手なのは、出来上がったものを壊しながら自分の「仕様」にしてゆくことです。実は、英語の学習もそうですが、自分なりの話し方を手に入れるということは、正しい文法にこだわる話し方から、意志をいかに伝えるか?という話し方に変わらなければ、意図が伝わりません。
 あなたは何をしたいの?OKという返事ではわからなくて、YES,なのかNOなのか?をしっかり伝えなければ、相手はきれいな発音を求めているわけではないのに、自分の発音のせいかと落ち込んだりします。壊すことも学びだということがわかると、自分の価値観がが壊れてゆくことさえも、楽しめるようにんります。親は、「壊れたらどうしよう」と心配ばかりします。
 大人が伝えなければならないのは、本当違う自分に出会うことは非常にエキサイティングな楽しいいことなんだと、いうことではないでしょうか?と心の中で思っています。
 今日も楽しんで、いきますか。
困っているから人にたより、頼られるからその人に役割が生まれる [2015年07月18日(Sat)]

不登校、ニートの若者を頼る人はあまりいません。みなさん、彼らはケアやお世話をする対象でしかないと思っているので誰も彼らをあてにしようとしない。極端な話、無能力な若者であるという烙印を押されてしまっています。
 でもね、本当に、彼らは何もできない存在なのでしょうか?頼んでも答えられない人たちの集団なのでしょうか?私からみれば、全く違います。常に社会に関心を持ちながら、でも自分では何をしていいのかわからない、もどかしさを抱えて生きています。だから私たちは、彼らができない事を責めたり、なじったりすることをもうやめて、彼らの出番をつくる事が大事です。
 政治家も宗教家も教育者もある意味出番がなければ「ただの人」です。彼らは自分たちの出番がないと怒りだすようなやっかいな人たちなので、優しくていねいに周りがお膳立てしてあげます。同じように、不登校やニートの若者にも優しく丁寧に出番を用意してあげる事が非常に大事だと思います。それは何も政治家のようにあいさつをさせろという事ではありません。社会に出てゆくきっかけや機会をしっかり与えてあげるという事です。どんな小さな仕事でも役割を提供するという事です。
 出番さえあれば、変な期待をせずにじっくり待ってあげる事。そこで人は成長します。相手が障がいを持っていても、お年寄りでも、子どもでも、しっかりと出番をつくってあげる。これが大人がやるべき事ではないでしょうか?機会があれば人は成長できますから。
 私たち、おとなはじめから決めつけない事が非常に大切です。