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思考は、不完全なものを口に出すことで進化する [2021年08月16日(Mon)]

私は自分で考えた事を、とにかく話をするようにしている。
どれだけの人が興味を持ってくれるのか?
または、わかりやすいように伝えられているのか?誤解を恐れないが、意図は伝わっているのか?

そんな良い加減な事を言って良いの?

もっと正確で、しっかりと裏付けされた事を言わなければならない。

とは、あまり考えない。論文を書いたり、ジャーナリズムに投稿するなら全く別の話だが・・。

自分の中で、湧き出てくる好奇心や仮説というものを、人に話して検証したいという欲求にはかえられない。

こうなったらどう考えるか?

社会のルールは踏まえながら、そのしくみを最大限活かして目的を達成したいといつも考えている。

もちろん失敗や、検証の結果ダメな仮説は山ほどある。

だから、人に話をしたり、意見表明する事を恐れていては何も自分の思考は広がらない。

要は、不完全であるから検証するのであると言い換えても良い。

どんどん話をする。変な人と思われるかどうか?については、全く関心がない。

ひたすら、話をしながら解決への道筋を考えてゆく。実はこれこそが思考だと思っている。

「考える」ことは口に出してゆく事を大事な要素にしている。

若者たちよ、笑われても良いからどんどん話せば良い。

おそらくその熱意の向こうに、もっと幸せがある気がする!
私たちは何もやっていない [2021年02月15日(Mon)]

仕事をつくるのを起業という。

昔から私は、金もうけしかない人間を、人間のクズだと思っていました。
ここ10年余り。金儲けさえできない人もいることに気がつきました。
よって、お金だけでも回している人は必要です。

かくいう私も、お金を回せない人でした。今は少し回せます。いや、回るように工夫をしています。
社会をカラダ、お金を血液としてを考えると、社会の中でお金を回さずに活動しているのは、まだまだあってもなくてもいい、盲腸のような活動なんです。

無くなっても困らない活動は、ちょっとしたいいことなので、なくてはならない存在にまで、認められていない。良くも悪くも、これは悔しい。もっとたくさんの、お金も人も回る仕組みをつくりたい。同時に課題も解決したい。こんなよく深いことをいつも考えています。

教育は、いろんな可能性を探るための「思考」を学びます。考え方です。はじめは、マネをしながら、進めばいい。子どもたちも、大人も同じです。恥ずかしげもなく、質問し、答えを引き出す。これは、その人との学び合いです。恥さえ捨てればいいんです。

多くの人間の、大きな粗大ゴミは「恥」なんです。

よって自分が、恥ずかしいと思う人は何も聞けず、何も挑戦せず時間を過ごします。これがもったいないです。捨てればいいものを捨てずにいる辛さです。
56歳にして、私の脳みそはようやく何割かは、動いていますがまだまだです。

私は何もやっていない。
これは、今の私の事実です。

森さんと同じ考えの人へ!少数派が大事な世の中なんです。 [2021年02月11日(Thu)]

「女性はおしゃべりで、参加すると会議が長くなる。」
女性を役員として、参画させることへの間接的な批判です。
こんなことを言う人がいるのか?おかしい!と言う人もいます。しかし、いくら進歩的な人も、トランジェンダーや、黒人やアジア人には偏見があるかもしれません。シングルマザーや独身の人に偏見を持つ人もいます。
障がいを持った人への差別もあります。

なぜマイノリティー(少数派が)大事なんですか?

それは、少数の人の意見を取り入れた社会が、少数派が尊重されている社会が豊かな社会、平和を実現する社会であると我々が知っているからです。不登校という少数の人たちの持つ苦しみを私たちはどれだけ理解しているのでしょう。

 履歴書に空白がある人の苦しみを知っていますか?
 人に合わせられない人間を、協調性のない人間として、平気で仲間はずれする社会のおかしさ。
 学校にゆかない人間を、知識のない人間として扱うおかしさを知っていますか?
 学校にゆかないと告白するときの、ドキドキを皆さん知っていますか?

こんな苦しみを、和らげるために学校を出た皆さんはどんな工夫をしていますか?
私たちは、フリースクールという場で様々な工夫をしています。この試行錯誤を私たちは、楽しみながらやっています。なぜ楽しいか?自分が豊かになるから楽しいんです。幸せになるから楽しいんです。

学校にゆかなくとも、できることはたくさんあります。学校にゆかないという感性を面白がる人もいます。このワイワイ、ガヤガヤ感がとても豊かなんだと私は思います。

多数派が少数派を抑圧する社会は、ガマンを強要させる社会です。

おそらく森さんと同じ考えの人はたくさんいます。

この人たちは、豊かさを実感しないままに生きてきているのだと思います。
伝えられない残念さが心に残ります。  悔しいなあ。
不登校は「負登校」であり、フリースクールは敗者の集団ですか? [2020年06月02日(Tue)]

仏教とビジネス異色コンビが実務家教員をそろえて起業家を育成この記事はアントレプレナーシップ学部を設立する武蔵大学での試みだ。
 武蔵野大学はしわせの実現をブランドステートメントに掲げている。起業をする上で、一番厄介なのは人間の心の中の恐れる気持ち。幸せを形にしてゆくには、困難に立ち向かう自分のマインド必要だから仏教と組み合わせた。(ここは面白い)
 ここからが本題(笑)不登校は、幸せを実現する状態にはないと思われている。彼らには社会的な評価も地位もない。失うものはない。不幸そう。大変そう。学校も嫌だけれど不登校にもなれない。
*自分の評価(自分の価値)を自分がつくるチャンス
*誰かに合わせる視点から、一緒に目的実現をする視点に変えることができる
*何より子どもの頃に、社会の中でアウトサイダーの経験を積んでいるということこそが財産。自分を相対化して、新しいものをどんどん取り込むことが可能になる

このプラス面を多くの大人は見逃している。私は、この価値を十分に伝えることができていない(これから積み重ねます)
幸せを実現するのはフリースクールも同じこと。お互いの関心を集めて、どんどん楽しいことをやってゆく。いや、楽しいことしかやらない。恐れを吹き飛ばして前にしか進まない。これでいいんだ思っている。
我々を敗者の集団と思っている人たちは、「成功」の形を一部のイメージに限定して、そこを実現する事に囚われている人たち。その人に合わせることもなければ、大多数だと思う必要もない。多くの人は、挑戦も失敗もできず、何がいいのか迷いながら生きている。私たちは、誰か敵をつくり、見返してやろうなどとも思わない。無駄なコンプレックスや偏狭な心は、自分を縛るだけだから。
 フリースクールは、幸せを実現する学びを行うところだ。だから、はじまりはどんなに不幸でも、出口は幸せであればいい。むしろ、はじまりの不幸感が強いほど、フリースクールでの学びは深くなる。
学校休校を子どもの側から考える [2020年03月10日(Tue)]

先週から、コロナ対策で学校は休校になっています。
突然の休校要請からはや10日あまり。日本社会はこの急激な変化を、おおむね静かに受け入れています。受け入れることが悪いとも思いません。
 問題は、ただ「言われたことを疑問もなく」受け入れるだけの受け身の社会になっているのではないだろうか?という危惧があります。私たちの社会は多様な価値で成り立っているとすれば、休校要請を受けない自治体があってもいいし。独自の学習ツールで学びを展開してゆく自治体や団体があってもいいと思います。
 もし、自分では、何も言わず「どうしていいのか教えてくれない」という対応をされている方もいると思います。今、問われているのは?「自分で考える」ということです。自分で考えない限り「どうすればいい」という道筋が見えません。自分で考えることもありません。このことが非常に危機的な問題になっていると思います。
 仕事を教えてくれない、与えてくれない。答えを教えてくれない。という社会になりつつあることを危機的に感じています。「自分で考える」を放棄したところに自由はありません。コロナウイルスは、結核やペストのように思われています。
 もちろんなくなる人もいますが、極端に恐れる事が不安に怯える人をつくりだしていると思います。オープンな議論が欲しいです。
 
常識のフィルターが壊れてゆく [2019年12月19日(Thu)]

「子どもってもっとたくさん、肯定されていいよねえ。」本日のスタッフミーティングの話題でした。折しもクリスマス。私たちの団体でも、クリスマスカードを子どもと親向けに書きました。まさに、あなたのための感謝です。
 カードを受け取った子どもたちは、驚きました。とても、ビックリされました。お祝い、感謝。お礼。贈り物ではなく言葉で伝えることが、もっとたくさんあっていいと思います。人間は、感謝されていい。大人が子どもに感謝する??と驚かれるかもしれないです。
 子どもたちは、未熟なのでもっと教育されなければいけないと思われています。我々が熟成しているとも思いません。大人も未熟です。共に学び合えることが感謝されていいと思います。自分たちが、子どもに感謝すればするほど、常識が壊れてゆきます。この楽しさは何にも変えられないことです。
正しいことやりすぎると、やる気が失われる [2019年04月26日(Fri)]

 今日は、学校の元先生たちの前で講演をさせていただきました。先生たちは、総会で議案書が間違っているとか、年齢がちがうとか一生懸命に議論していました。この一生懸命さが実は怖かったりします。
 間違いを怖がって、何もできなくなっている子どもにたくさん出会って来たからです。間違いは誰にもあります。間違わないで何かをなしたことはありません。うまくゆかないことなど、しょっちゅうです。もっと平たく言えば、私はうまくいかせようと、あまり思っていません。
 うまくいったことよりも、目的がしっかりと共有されて、いるかどうかの方がはるかに大事なことだと思います。人生は楽しく。
自死を防げない社会 [2019年04月15日(Mon)]

 「どうせ大人に話してもしようがない」こんな極端な例はさすがに少ないですが、こどもが自分のことを、大人に話しをしてもしようがないと思うことはたくさんあります、ある意味大人に対する諦めや、自分で判断する領域が増えたことも理由にあります。
 10代の自死がなかなか減らないなかで、大人自身がどのように子どもを育んでゆくのか?という問題の方がはるかに大きい。大人は子どに勇気やチャンスを与えられているのか?残念ながら、こどものやる気を削いでいる大人が多い。子どもに変えられる領域を増やそうとしないとこが問われている気がします。大人が手放すということになるかなあ。
 「子どもの自死を子どもが防ぐ」ぐらいの極端なプログラムづくりについて自分で挑戦してゆくことが大事だと思う。

集団で学ぶことは必要なのだろうか? [2019年03月26日(Tue)]

民間で、学びの場を行なっていて気になるのは、参加人数の規模の問題である。個別対応がいいですか?少人数がいいですか?20人程度までがいいですか?
 私たちは、ある程度の集団で学び合うことが大事だと思っています。自分では自分に気がつけません。おおむね、多くの教員も管理責任者も「裸の王様」です。つまり、自分だけが自分に気づいていないことの方が多いのです。一緒に学び合う子ども、働く仲間の方が私の方を知っていたりします。
 自分を教えてもらうには、周りの人の力を借りるしかありません。だから集団で学び合うことが必要です。私たち自身も、子どもからたくさんの意見をもらうことが必要です。教育は一方通行でしかないと思っている人もいます。教える側は、学ぶ必要なんかなんだと。周りが合わせくれるまで待っている人もいます。それでは、学び合いは行われません。
 ここまで書いておわかりなように、集団で学ぶ1番の利益は、子どもと関わる大人の側に来ています。せっかくの学びを生かす大人が少ないことが子どもにとっては、大きな問題。ただ、自分自身は学んでゆかないと子どもにとって迷惑な大人にしかなれません。
 また、子ども同士も相互に学び合うには、ある程度の人数が必要だと思っています。私たちは無力であることを理解して、はじめて教育に携われると思います。(ここは大きなポイント)あるがままの自分を大事にしながら。
 
子どもは大人を問うたほうがいい?? [2019年03月25日(Mon)]

私たち大人は、「こどものため」になっていると簡単に思い込んで行動する癖(クセ)があると思います。学校の送り迎え。塾に通わせる。スポーツクラブに通わせる。大会の応援にゆく。全部こどものためと言ってしまいますが。実は大人の満足のためじゃないの?こどもは本当に自分のためになっているとおもっているのか?誰も検証しません。
 これは大人の自己満足ではないか??と思います。
 つまり、私たち大人は簡単に自己満足してしまいます。

これって誰のためなの?と子どもに問われてはじめて大人は気がつきます。いじめの報告書は誰のため。教育委員会が記者会見で謝るのは誰のため?
親が、入学式に夫婦で参加するのは誰のため?

あまりに目的のない自己満足な行為に多くの子どもはあきらめ、呆れます。大人はそんなものです。とも自分の口からは言えない。だから子どもはもっと、自分の視点で大人を問うていいです。それが、大人のためでもあります。
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