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オリンピック選手は、感動を提供しなければならないのだろうか [2016年08月19日(Fri)]

オリンピックもいよいよ後半戦です。卓球も体操も大人気。おそらく、寝不足でみなさん一喜一憂していることとだと思います。たくさん感動されている人も多いとおもいます。私が気になるのは、選手たちのコメントです。「みなさんの期待に応えられなくて」というコメントをする選手が多くいます。場合によってはその期待は勝手な期待であり、勝手な応援である場合もあります。
 期待通りに生きるなんて、誰もができないことです。なぜなら期待は勝手だから。両親が涙しながら、期待を口にしてゆく。安堵をする。誰かの為の人生を生きることが、どこかでそれが強制されることが、すごく窮屈だと私は感じました。
 オリンピックの季節が終われば、選手たちの活躍も風化してゆきます。選手たちも自分たちの行き方は自分で決めなければならない時期が来るのだと思います。感動を収入にしているという意味では、スポーツ選手もプロだと思います。ただ、成果を求めることは、自分ができないことの代償のこういでもあると、私たちは理解しないと、大変なことを要求される若者やこどもが増えるような気がします。
 
子どもの「罪悪感」と体重が減らない「罪悪感」 [2016年05月16日(Mon)]

本日、病院の健康相談に行ってきました。私は、体重も血圧も基準値オーバーなんです。健康診断をしていただいた病院のステキな看護師さんが、やさしく「生活習慣なので改善計画を立てることができますが、いかがしますか?」この善良なる申し出は決して裏切ってはいけない。
 「是非お願いします」「それでは目標の設定をしてください」「半年間で体重5キロ減なんていかがでしょう」「いいですね。ぜひ、江川さん頑張りましょうね」
それから4ヶ月。なんと、体重は、減るどころか1.3キロオーバー

  あの善良そうな看護師さんに会わせる顔がない。なんだーこの罪悪感は。


あ〜と思っていたら思い出したことがある。これって、学校の成績や勉強時間の改善計画に似ているなと。あ〜思い出してしまった。子どもの頃の罪悪感と、同じものを抱いている自分に気がついたのであった。でも看護師さんは学校の先生のように叱らないです。そこはプロだと思いました。なぜならやる気は常にキープしなければいけませんから。やさしく自覚を与えてくれるのです。
 「きっと状態は改善しますからね。」この優しさは信頼なのか??、次回、また体重を増やしたらこの善良なる看護師さんをさらに裏切ることになるのか?気分は複雑であった。
  おそらく、子どもと親の会話もこのような感じなのかな。

  やっぱライザップか?
スポーツ選手への過剰な期待 [2016年04月10日(Sun)]

私たちが子どものころは、こんなにスポーツ選手がもてはやされただろうか?と思います。かくいう私の妻も、スケートの羽生選手の大ファンで、おっかけをしてアイスリンクでの彼を見に行ってもおります。
 先日、バドミントンの選手(福島県の沿岸部の高校出身)が賭け事をした事が大きなショックとして、スポーツ関係者から報じられました。スポーツをすると、人格や倫理性も磨かれるという思いがあるからだと思います。
 この報道が伝えられた時に、同じ福島県出身でマラソンの円谷幸吉の事を思い出しました。「皆さんの期待に応えられない」と自分を責めて自死した事が昨日の事のようです。円谷選手が出場した東京オリンピックは、私の生まれ年でもあります。あれから、51年後同じような境遇にさらされるスポーツ選手を見ると彼らへの期待が非常に残念でなりません。
 要は、自分のための努力や成果がいつのまにか、地域や国家のものになってゆく事の怖さでもあります。スポーツ選手個人の人生や生き方価値観がもっと尊重されてもいいと思います。スポーツ選手も人間なので、麻雀もすれば、パチンコや競馬にも行くし、ガールズバーに行ってもおかしくないと思うんです。公営ギャンブルは法的にも認められてもいます。
 いわゆる、模範になる=神格化されることの窮屈さを感じます。私たちの中で、公人としてのスポーツ選手という位置付けを勝手におこなているのではないか?という危険さえ感じます。
 私だったら、彼らの周囲に取り巻く人たちのうさんくささとの付き合い方も含めてもっと、別のレクチャーが必要な気がします。自分がどう生きるかが大事であることと、世間の思惑や期待とどう向き合うか?をしっかり学ぶことが大事だと思います。それにしても、皆さんがあまりバッシングするほどの問題ではないような気がしますが・・・。乙武さんはどう思うのかな・・・。
ダメで悪いのかな〜 [2014年12月15日(Mon)]

私たちの日常は、「評価する目線にいつもさらされている」ような気がします。
この事に気づかされたのは、
一人の若者の意見からでした。私のであった若者は、子どもの頃から評価する目線にずっと耐えてきました。どんな言葉を浴びせられても、鈍感に耐えてきました。彼は、本来鈍感な性格ではありません。生きるために、鈍感さを装ってきたのです。心を無にしてどんな屈辱にでも耐えようと。彼は、不登校でも、ひきこもりでもありません。
 自分をふりかえれば、私は天然の鈍感なこどもでした。評価されるのは「いつも背が大きいね。」「色白だね。」姉がいたので、その友達には可愛がられていました。つまりあまり自分を隠したり、虚勢をはる必要はなかった人生です。
 わが子も含め、子どもたちもいつも評価される視線におびえているような気がします。低い評価を受けにように気を使い過ぎています。むしろ、公教育はその怯えの中で、秩序を保っているのかもしれません。私のような鈍感な大人が、子どもや若者を「評価する」視線で見られる事は当事者ににとっては耐えられないのだと思います。この耐えられなさ、視線を避けたいという気持ちは、元ひきこもりの私には十二分に理解できます。
 「自分は評価に値しない人間」だとおもうから必死に努力するのだとしたら、なんとネガティブな努力なんだろうと思います。ひるがえって、自分を見ると、私はそのような視点を最近受ける事が多くなりました。それは、「優秀な若者たち」からです。彼らは、一流と呼ばれる大学を出ています。「このおっさんの仕事のしかたなんだろう〜」という視点をつきささるように感じます。
 「たしかに私の中に、さまざまな論理の飛躍や直感が渦巻いております・・・・。」「そんなに順序良く考えないんだよ」と言いたいです。

 若者たちにつらさは、このような評価なんだろうと思います。

私ぐらいのおっさんになれば、開き直り、ウソをつき、ごまかしまくりますが、若者にはそれができない。

ダメでいいのにな〜。ダメさに味がある大人になって欲しいのに。

 もしかして、世の中の親父たちはダメさをダークスーツで隠しているのかもしれません。

もしかして、それってせっかくのいいキャラクターなのにね。

 若者たちが気になる評価する視線からいかに自由になるか??


これは、うーん。他人の視線を変える事はできないから、自分が変わるしかない。評価をはね返すには、・・・・。みなさんに私にも知恵を下さい。