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やる気にあふれた大学生ばかりでもない [2020年10月03日(Sat)]

私は、高校1年生で中退したが大学を卒業している。
まさに、たまたま父親が大学に入学する以外の人生を全部否定したので、逃げ道が大学に入ることだった。だから私はやる気にあふれて、大学生をしていたわけではない。

大学生はやる気にあふれ、新入社員はフレッシュである。と言われるがそんな人ばかりでもない。
ただ、私の中で、「何をやってもうまくいかない」という経験もない。あきらめもせず、生き続けてここにいる。

この経験は無駄ではない。

自分ができないことに出会うから、いまの自分に飽き足らず前を向きはじめる。

よくやって当たり前と言われるとハードルが高い。


不登校の子どもたちも辛いのは、学校に行っている子どもと比べられる時である。比べられるだけで。ああ苦しいと思う。

放っておかれると、関心がないのか?とさみしくなる。
でも、変に傷つけられるよりはマシだ。

人間はつけあがるし、打たれ弱い。

でも、生きているだけで価値がある。

やる気にあふれている必要はないと私は思っている。

少しうがった見方をすれば、隠されたやる気を期待している。





できているのに、「できない」と思い込む 悲劇 [2019年12月17日(Tue)]

 夏休みの宿題が大嫌いで、全くやりませんでした。
小学校3年生の夏休みに、みんなの前で「江川は宿題をやってこない、怠け者だ〜」と言われたことを昨日のことのように思い出します。おそらく、先生の意図としては、この宿題をすることで成長するというよりは、宿題をしたという満足感を持たせる方が、はるかに大事なのだと思います。
 ただ、みんなの前で恥ずかしい思いをしたことは覚えています。
宿題をしたよりも、「恥ずかしい」思いをなくすために、それからの私は行動をしはじめます。なぜか暗黙の常識で「恥」は禁物なのです。大人になって、仕事も生活も十分にできているのに、成果を上げていないと思う人に出会います。同時に、できていないのに、人のせいにして逃げ回る人にも出会います。どちらがいいというわけではないですが、できているのに「できない」と思う人は辛いだろうと想像します。(もちろん、言い訳ばかりの大人はもっと悲しいですがね)
 常に自分に言い聞かせなければならない人生ですから。もっと、もっと追い詰めれば詰めるほど人は幸せになるというような錯覚です。私たちは、どこかそんな気持ちに追い立てられています。もっと何かをしないと。休んでいても安住できません。いつも、スマホで、情報を集めます。
 結論からすれば、自分の気持ちの入らないものに夢中になれません。学校の先生が求めるものを拒否する権利は、生徒の側にもあります。もっと、もっとなどと考えなくていい。満足した人生が終わり??などと自分を追い詰める必要もありません。人生の楽しみは、自分の行いに深く満足するところからはじまると思います。自分の仕事を深く見直す。私たちは、決して無力なんかじゃないと思えます。
 「幸せ」はここからやってくるとも考えます。
 
 
感動したい大人が、子どもの生き方を邪魔してないですか? [2019年01月24日(Thu)]

 ここ十年余り、子どものスポーツを追いかける親たちの出来事が話題になっている。「感動」を求めて毎週のように練習や大会の応援差し入れに出かける親たち。お揃いのTシャツや、ウエア。プロスポーツを彷彿とさせる。

 反面、学校の先生たちは、週末の残業に身を粉にして対応している。一番感動しているのは本人?いや、親だと思う。スポーツに一生懸命の子どもはよく育つ?と思っている保護者もいるとか?いないとか。親子がどんどん一体化してゆく様は滑稽(こっけい)だという人もいる。

駅伝や、テニス、バスケットボール、サッカー。どんなスポーツでも、夢中になる人はいる。ようは、自分がやらない、しかし、感動を手に入れることができるからだ。感動したい大人?自分の日常で、感動や思い出をつくることができない人?かもしれない。

 本気で怒られたり、無視されたり。監督やコーチ親から、罵声を浴びせられた理。こんなことを本当に子どもたちは望んでいるのでしょうかね?おそらく、望んでいないと思います。自分がスポーツを通じて楽しみたい。というのではダメなんでしょうか?

 素直に自分で自分のプレーをふり返ることさえ許されないのは、単純に辛いことだと思います。自分の感動のために子どもを追いつめないで欲しい。単純に私はあるがままの子ども時代を続けばいいなあと思います。
不登校だから大丸1大丸1️できました [2017年12月27日(Wed)]

 不登校だから「あれもできない、これもできない」と心のバリアを張り巡らして、不自由な暮らしをされている人はいないでしょうか?一言でいって「それはとてももったいない」と思います。学校に行かない時間は、子どもにとって何をしてもいい時間です。表で遊ぶのはよし、パソコンで映像をつくるのもよし。自由な時間は。正直大人の私にとっても羨ましい時間です。お父さんお母さんも「それどころではないよ。学校に行って欲しい」といわれるかもしれません。
 学校で有意義なj感を過ごす子どももいます、家庭やフリースクールで有意義な時間をすごす子どももいます。大切なのは、その子にとっての「大切な時間」を過ごすことであって、学校か家庭か?フリースクールか?はあまり問題ではないのです。
 私たちは、「忙しい病」という病にかかり「いつも忙しい」を口にしていたり、「何かしなきゃ病」にとりつかれて誰かに追い立てられるように「何かしよう」と努力します。しかし、大事なことは、その人にとってのかけがえのない時間を過ごすことです。とりあえず動き回ることではありません。
 不登校している時間も、とても大事な時間です。自分の思うように過ごしてみることをお勧めしています。
 
大人は、子どもから評価されないでいいのか・・・ [2014年07月16日(Wed)]

通信簿や子どもの活動で大人は子どもを平気で、無遠慮に評価している事に慣れっこになっている。やれ太っている、背が低い、と言いたい放題。「誰々ちゃんは頑張っているのに、あなたは・・」と比較まで行う。スポーツができて、性格が良くてという子は好まれるが、反面、口が悪くて、理屈を言うような「玄人好み」(笑)の子どもは嫌われる。
 その昔、夏目漱石は養子に出されたように、わが子が全て親と相性が言い訳ではありません。同時に親子だから、何でもわかり合えるわけでもありません。
 私たちは、無遠慮に子どもを評価し続けるのだけではなく、子どもを大人を評価しているのだという事を理解した方が良いと思う。もっと子どもの声を真摯に受け止めた方が良い。大人は、スポーツを、勉強を、元気で、快活で、見てくれの良い子ども。を求めているが、子どもは以外と普通の会話を親としたいだけかもしれない。

 子どもにとって大切な存在である学校の先生はいかがだろう??もちろん、子どもから人気のない先生が悪い先生という事ではない。
でも、「もっとこうしてくれれば良いのに」「あの時の言葉はきつかった」などという異議申し立ては、子どもからもあると思う??私は子どもから評価を受ける事のできる大人は、意外と幸せなのではないか?と思っている。それだけ言いやすい、関わりやすいのだから・・。それを誇りにしても良いかもしれない。
 ともあれ、大人がいつまでも子どもにとって、裸の王様で良いはずもない。子どもから評価を受ける事を恐れない、私自身、ゆったりとした腰の据わった大人でいたい。もちろん自分の評価は子ども以上に気になると思うけどね。