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自分が好きなことが、価値が低いといわれるショック [2017年07月03日(Mon)]

「フリースクールに行ったら自分が本当の不登校になってしまうから」

という発言がAERAをめぐる記事で行われていました。この意見は多いと思います

この内容を私なりに解題すると、
@学校に行って、テストで良い成績をとる。部活で成果を残すのが「望ましい」
Aフリースクールは社会から評価されないし、周りの人も低い評価しかしてくれない
Bこの保護者さん自体が、周りの価値観や序列化を受け入れている。よって、不登校の子どもも評価しない


たしかに、フリースクールは最後の手段でも良いですが、子どもが辛さを受け入れながら学校にゆく困難、つらさを、誰も触りたがっていない気がします。学校で学ぶというよりは価値は、学校がもっている制度化されたものを受け入れる価値観を疑う人は少ないです。子どもの序列化を受け入れる価値観こそが本人を追い詰めているのだと気づけない。
 行政というよりは、保護者が自分自身の葛藤を引き受けていただくか、社会に出て行く手段としてのフリースクールを機能的に受け入れていただくか?不登校の親の会が行っているのは、親の内面的な価値観の変容を、ピアカウンセリングのような形でうながしています。

話は変わりますが先日、陸上の末續さんが、自分は好きで毎日走っているのに、学校にゆくと「おまえ罰だから校庭走ってこいと」と先生にいわれ、生徒もイヤイヤながら走る。走るのが苦行になっていると。
 ある人にとってとても楽しい「走る」という行為でも、違う視点からは「罰」にもされることの価値観のあり方に注目したほうが良いです。罰としての走りを強調されれば、走ることが好きになれない生徒は多くでます。だって罰なんですから、同じように学校に行けないからフリースクールというのもどこか、オプションというよりは罰のような感じもします。


違う意見を持つ人との会話が必要なのだと思います。フリースクールを価値のないところという人に対して、そこに楽しんで行っている人がいて、学べて、考えられて、いろんな意味で大人になれる環境と機会があるということがわかれば良いだけです。それを貶めている大人がいれば、放っておけば良いのです。自分たちが丁寧に説明する努力は忘れてはいけません。
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