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コミュニティーの中で学ぶ、育つ [2022年04月18日(Mon)]

 不登校の子どもたちが、地域の中で学ぶということはとても大事なことです。地域の皆さんに支えられながら、生きてゆく。たくさんの学びや経験を積み重ねてゆく。これは地域の人にとっても大切なことです。
 ボランティアやスタッフにとっても、地域で子どもたちと学びをつくることは、とても大事なことです。自分がふだん考えないことに出会い、気持ちが揺さぶられ、心が動くから。私たちは、子どもたちに特別なことをしているわけではありません。
 現実をふまえて考える。長期的な子どもの成長を図ることのくり返しです。

しかし、子どもたちは、ボランティアやスタッフと関わりながら成長してゆきます。

長期的な視点を身につけながら。子どもの成長を図ってゆきます。





 
小さな勝利主義 [2022年04月17日(Sun)]

小学生の陸上競技大会、相撲大会、作文コンクール。
指導者、教師、保護者が、ついついエスカレートしてしまうと勝つための戦略をいろいろと考えます。指導者が、「こども」のために勝つための練習をくりかえしている中で、こどもが目先の利益で動いてしまっているところで、長期的なこどもの成長を図れないところもあります。
 短期成果と長期的な成長と、どっち本当に大事なんだろう?と考えます。

多くの人は長期的な子どもの成長が大事だと言います。

でもね・・・・・・

不安だから、小さなミニテストでもいい点数をとってもらえると安心するんです。と言います。

私は、こどもたちの成長を信じきれず、小さな大会やテストにさえ、いい点数や成果を求めてしまいます。そういうことってありますよね。

でもね
自分のことではなく、子どもを自分の不安でふりまわしていることも事実なんです。

子どもは親の不安に寄り添う存在ではありません。不安という妖怪は、確実なものが見つかるまで人をふりまわす、やっかいな存在です。私たちは、その厄介さとしっかり向き合う必要があるのです。
学校には行きはじめましたが [2022年03月19日(Sat)]


 不登校の親が子どもが学校に合わない時にどうすればいいのか?と悩みます。「合わない」ことが一時的ではなくずーっと続くことが不安なのだと思います。一時的に学校に合わないということも、ずーっと学校に合わないということも、親からすれば実はあまり変わりがないかもしれません。
 
 人と同じでないと不安な人にとっては、同じ場所に通えないだけで不安なのだと思います。


学校には行きはじめましたが、これはずーっと続くのでしょうか?質問が寄せられます。

私たちは、占いもできないし、予測もさほど正確にできないので、「なんとも言えません」と正直に答えます。子どもが決めて行動することに対して、誰であってもコントロールはできません。親からすれば、コントロールできないものが、不安なのだと思います。

 神のみぞ知ることもたくさんあるはずなのに、親は自分が一番不安なので、安心させてほしいというのが、言い分なのでしょう。

 学校にゆくも、行かないのも自分のため。

社会に出るのも自分のためだと思えば、自分で考えて出てゆきます。自分で考え、行動することを、信用してあげれればいいことです。学校にはゆきはじめましたが、いつまた不登校になるのか不安でしょうがない人もいます。自分はなぜ不安を感じるのか?ぜひ、向き合っていただきたい。実は、親自身が、自分を震央していないのかもしれません。









善良な人たちが子どもの命を守れないのはなぜか? [2022年02月06日(Sun)]

1月30日に大川小学校(石巻市)2011年の3月11日そこには108人の命があり、74名が死亡もしくは、行方不明になりました。子どもたちの命は、救えない命だったのか?高台に逃げる事はできなかったのか?
 答えは、逃げる時間も、行動する体力もあったのになぜ、救える命が救えなかったのか?
問題は、大人の判断です。

どうするのがいいのか?

大人たちが、右往左往しています。先生方の日ごろの人間関係や信頼関係までが問題にされます。

子どもを命を大切に思わない教師は、誰もいません。命を大事にしたいと思いながら、守れない。

いくら善良な人がたくさんいても、こどもの命を守るための適切な判断をして行動しなければ、命は守れません。教育現場にあるいじめ問題も同じ事です。誰もがいじめお無くしたいと思いながらも、行動しなければいじめは隠されるだけです。

「判断」は見えません。

きめる責任を負っているのは、大人である。という事。
忘れてはいけません。


ただいま息子は大学入試真っ盛り [2022年02月02日(Wed)]

昨日から東京におります。
息子は今日からと今日での受験を3連戦おこないます。
全て都内の大学です。地下鉄を使って歩いているのですが、結局頼りになるのは親よりもGoogleマップなのです。いくら私が、昔東京に住んでいたとはいえ、もはや街並みは変わっているので、息子は昨日の段階で、父親の直感的行動に強い疑問を感じていました?(これは全く正常)
よって、二人ともグーグル先生の指し示すままに、今日は行動しました。おかげで予定より20分も早く入試会場に到着しました。
その昔、地図を片手に大学を探したなどという人間はもはやどこにもおりません。

話を巻き直します。

不登校でも高校中退でも、受験資格の要件さえ合えば、大学入試は可能です。息子は通信制高校の卒業見込みです。高卒認定試験の合格でもいいいです。その二つの「合わせ技」でも可能です。要件さえ満たせば、その子がどんな子でも大学に入れます。いわゆる高校の成績(内申書)などというものは大学入試にはほとんど関係ありません。いや全く関係ないと思います。
不登校の子どもは、集団学習は苦手で、自分が興味のない学習もほとんど手付かずですが、自分が興味があれば、勉強します。うちの息子も歴史に興味があったので、西洋史や政治史の勉強をすると言っておりました。

 不登校の子どもは社会が苦手でも、勉強が嫌いでもありません。学校に行っている子どもの中にも、勉強嫌いはいるので、学校にゆかない子どもにも、それと同じ比率ぐらいに勉強がどうしても合わない子どももいます。
 この受験真っ盛りの中で、誰もが試験を受けます。その子がどこの高校出身か?などということは制服を着ている子どもしかわかりません。よって、大学入試では、一切過去のことは関係なくなります。ある意味、これは素敵なことなんです。ルールの前には全員公平に判断されます。
 そして、大学生になればまた、楽しく自分の勉強の世界に入ればいいだけです。残念ながら、親の不安だけはグーグル先生も消すことができません。
教えない教育は、自分で表現しながら考える [2021年12月30日(Thu)]

なぜか、私たちは周りが休みにならないと始終呼び出されます。ようやく、年末ギリギリで休みになったかなあという感じです。

不登校の子どもも、引きこもられては大変だ(笑)と危機感を持った人たちに、いつも声かけされて大変だと思います。「放っておいてほしい」と思う時と「適当に声かけしてほしい」という思いが交錯している状況なのかと推察しています。

さて今日は、学びの話です。

多くの人は、知識が少ないから社会経験を積まなければ?本を読んで知識を増やさなければと思い込んでいます。不登校の子どもにもこのような、知識集積主義?の影響がはかりしれなく影響をしています。
生きる充実感が少ないという問題と、知識を増やすということは、全く別物と言っていいくらいに違うことだと私は考えています。いまある自分を、大きな視点で理解できないと、人はいつまでも自分は足りていないから、ダメだと烙印を押し続ける存在になります。

いまある自分でも十分に、挑戦も可能性も開けるのに、あえてそれをしないのはなぜか。

自分の中のリミッター(限界をつくる自分)を超えることができないからだと思います。

フリースクールは、どんな教え方をしているのですか?と聞かれて、「特に何も教えていないですよ」というのは、知識の量ではなく、思考の型や基本形さえ手に入れれば、どんどん自分が表現してゆけばいいと思っているからです。知識の量で表現力が向上するわけではありません。
どんどん表現して、大失敗しながら、笑われながら手に入れるものが表現力なんだと思います。

それでいいんです。どうせそれをバカにする人間は、特に仲良くならなくてもいいです。まして、その人のいうことを聞く必要もないのです。
子どもたちにとっての「良い教育」を! [2021年12月29日(Wed)]

良い教育とは何か?
ここ数年の、「こども庁」の議論を見ていると。子ども中心というよりは、「大人の思い」中心の教育論が、優勢である。「こどもに教育を選ぶことなどできるかねえ」「学校にゆかなくてもいいとか、学校にゆかない権利を守る」ということは認められないと政治家も官僚も言います。私は、戦後教育がつくってきた教育の独立や、国民の中での多様な意見の尊重が意図的に消されてゆくようで、がっかりさせられます。まさに、一言で言えば、制度中心の教育論が復活してきています。選択肢を与えるから子どもがゲームや遊びに夢中になって、社会のことを考えなくなるという論理がまかり通るようになってきました。
 子どもたちは、自分の頭で考えるように意思決定や思考プロセスをつくったり、対話を通じたゆっくりと自分の言葉を紡ぎ出すような学びが、学校教育制度の中で認められたとしたら、社会はもっと変化してゆく可能性があります。制度の中での自由や選択を全く否定しているわけではありません。
 もちろん制度内での改革も大事ですが、どうしても制度に合わないこどももいます。彼らを制度から自由にしたら、もっと能動的に学ぶこどもが増えると思います。良い教育は、こどもが制限されない中で思考や意見を伸ばすところから生まれるからです。
 こどもにとっての自由や選択肢の限定、制約を大人たちはあまりに無自覚にかけすぎているのではないでしょうか?家庭がしっかりすればこどもは育つ?という家庭中心主義の発想が、こどもを生きにくくしているという、「大人の側」からの主体的な反省は、いったいどこに消えたのでしょう?こどもや親の辛さは誰が聞いてくれるのでしょう?
「決まりきったことをなぞること」のつまらなさについて [2021年12月04日(Sat)]

 当団体、高校生ボランティアに、自分たちの活動の発表をしてもらった時に、学校では決まりきったことしかしていなくてつまらなかったけれど、方丈舎の活動ではいつも答えがないから、楽しいということに喜びを感じます。
答えはいつも決められていません。正しいことも間違ったこともありません。でも、そこに関わる人の学びになることが、私たちにとってとても大事なことだと思っています。なぞることをやめた時に、「ふと自分が見える」ように。
私たちは、みなさんと経験を共にしたいと考えています。
私は、子どもに困らされている [2021年11月07日(Sun)]

「この子が私を困らせるんです」
「この子どもさえ学校にゆけば、私たち家族は幸せになれるのに」

うつむく子ども。ヒステリックに話をする親。誰もが祝福されているようには見えない。この状況がつくられているのは誰のせいなのか?
ひどく、落ち込んだ状況をつくった犯人は誰なのか?

親を困らせようとして、不登校になっている子どもがいるのかなあ。
親を困らせようと思って生まれてきた子どももいないのではないのかなあ。

「親がつらい」と思っているだけなのですが、その辛さは子どもが作為的につくりあげたものだと感じている人がいるとということはわかります。親がつらいのはわかります。
誰かのせいにしたいのもわかります。

できればそれは、自分の子ども以外を悪者にしていただきたいものです。
でも、人間は自分の自由にできるものが周りにしかないので、自分の一番身近で、本当は一番大好きな子どもを悪者にしてしまうのです。

つらいなあ。

結果大人はその不幸を子どものせいにします。子どもからすればやりきれないなあ。

犯人は誰もいない。

犯人は、親を苦しめている社会であるし、会社であり地域なのかもしれません。しかし、具体的に名前が出ない。それが苦しくてやりきれない。


2020年の不登校は19万千人余り [2021年10月16日(Sat)]

 2020年の義務教育年齢の不登校が19万6千人余り、毎年増え続けています。理由は学校基本調査にあるような「無気力や不安」だけではありません。教師からのハラスメント、生徒同士のトラブルやいじめなどが占めています。
学校にある緊張感や評価の視点。知識を覚えるだけの学びの退屈さ。これらを言っても学校が変わる訳ではありません。学校にある教師の不安や多忙化、視野を広げられない超過勤務を言ってもすぐに改善できるわけでもありません。
政府は、学校で学ばない子どもにも学びの機会を保証しようと、「教育機会の確保法」(2016年)という法律をつくり、学校外で学ぶことも全く学ばないよりもましでしょう。という見解を示しました。私はもっと先に進んで欲しいと思っています。自分で学ぶ子どもを応援してください。学校に合わない子どもをもっと暖かく、送り出してくださいということです。
不登校の理由の4割を、学校の先生は無気力や不安だと思っています。そこまでやむを得ない状態にある子どもたちが、いかに復活してゆくのか?学びへの興味を復活さえてゆくのか?この道のりは容易ではありません。だから応援して欲しいのです。
不登校は、自分で考えて生きる第一歩ですから!
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