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集団といじめ [2021年09月18日(Sat)]

個人で多くの人をいじめることはほとんどありません。
大勢の人が 少数の人をいじめます。
理由はいろいろあると思います。安全な場所でいじめたい。いじめる罪悪感を小さくしたい。
自分だけではないと思いたい。

罪悪感が少ないから、なんでもできます。
ひどいことが、自分だけではない問題になります。

この怖さを知る人は、抵抗することをやめます。
どうにでもして欲しい。早く時間が過ぎ去って欲しい。

嫌な記憶は、早く消し去りたい。
いじめの怖さを経験した人は、人の顔色を伺うようになります。

怖いです。
この怖さを、どのように表現することもできません。
ただ黙って応援する人 [2021年08月31日(Tue)]

オリンピック、パラリンピックを観戦させたいという大人の多くは、
「感動を味わってほしい」
「頑張る姿を見てほしい」


この関心の裏側から見れば、

「子どもたちに感動をしてほしい」
「もっと子どもたちに、頑張ってほしい」

こんな意図が見えます。

子どもたちは、頑張って日々を生きています。中途半端に力を抜いて、活動しているわけではない。
誰もが一生懸命です。

それでも、もっと頑張らせたいと大人は思うらしいです。

もっといえば、結果を出すというところまで、大人たちは頑張らせたいのかもしれません。

結果なんか、いつ出るかわからないのが人間です。

もし、私が子どもだったら。ただ黙って応援する人が欲しいと思います。

自分は頑張っていると思っていても、周りからは頑張りが見えない。

それは、もっと頑張らせたいという欲かもしれません。

少なくとも、未完成の子どもの時に何を望むのか?

場合によっては、無駄な焦りを与えているだけのこともたくさんあります。









注意されたり、叱られたり と 人間の気づき [2021年08月24日(Tue)]

昨日久しぶりに注意されました。しかも感情的に注意されたのでいろんなものが沸き起こって来ました。フィットネスクラブでメディアから取材の電話を受けておりました。
不注意にもリラックスするスペースで電話していたものですから「電話やめてくれないかなあ」とやや不機嫌な声で注意されました。

この歳(57歳)で注意されることも少ないので、私はたくさんの気づきをもらえました。
*率直にガマンしないで言っていただいたのはありがたい
 どこかで私は誰かにガマンを強いているかもしれない
*すぐに相手の行動を変えるために、感情的な注意をするのだと思う。ただよく知っている関係だとこれは関係を壊すかもしれないなあ
*自分が気付く(学ぶ)という視点からいえば、相手が気づけるような注意はあるかもしれません

いづれにしても、あっさりとあまり感情的にならずにできないのか?
これは自分の課題です。

子どもたちは、日々注意にさらされています。もっと気がつける注意はないのか?
ここは考えどころだと思います。

親父たちも日々学ぶ!

思考は、不完全なものを口に出すことで進化する [2021年08月16日(Mon)]

私は自分で考えた事を、とにかく話をするようにしている。
どれだけの人が興味を持ってくれるのか?
または、わかりやすいように伝えられているのか?誤解を恐れないが、意図は伝わっているのか?

そんな良い加減な事を言って良いの?

もっと正確で、しっかりと裏付けされた事を言わなければならない。

とは、あまり考えない。論文を書いたり、ジャーナリズムに投稿するなら全く別の話だが・・。

自分の中で、湧き出てくる好奇心や仮説というものを、人に話して検証したいという欲求にはかえられない。

こうなったらどう考えるか?

社会のルールは踏まえながら、そのしくみを最大限活かして目的を達成したいといつも考えている。

もちろん失敗や、検証の結果ダメな仮説は山ほどある。

だから、人に話をしたり、意見表明する事を恐れていては何も自分の思考は広がらない。

要は、不完全であるから検証するのであると言い換えても良い。

どんどん話をする。変な人と思われるかどうか?については、全く関心がない。

ひたすら、話をしながら解決への道筋を考えてゆく。実はこれこそが思考だと思っている。

「考える」ことは口に出してゆく事を大事な要素にしている。

若者たちよ、笑われても良いからどんどん話せば良い。

おそらくその熱意の向こうに、もっと幸せがある気がする!
子どもは大人のいいなりになってはいけない [2021年08月07日(Sat)]

何かをしたからほめる。
何かをしないから叱る。
この場合の基準は、答えが一つであること。
これが教育だと、思われています。


大人になって出会うことは、正解のない問いです。

誰と学ぶのか?

何を仕事にするのか?どこに住むのか?

誰と暮らすのか?

どんな社会を創りたいのか?

どれも正解のない問いです。間違いもありません。

大人は、子どもにこうしてほしいと思います。

仮に「自分の家の仕事」をしてほしいと思ったとします。

大人の知恵で、上手に誘導もします。そんな時に「認める」ことを使います。

人の言うことを聞くとうまくゆくよと  と言う肯定かもしれません。

私は大人として言いたいのは、あまり「人の言うことを聞くな」と言うことです。

大人の言うことを聞いても、自分は幸せになれません。時代を変えてきたのは、時代に従わない人たちです。

大事なのは自分で考えるという行為です。

間違いがないのなら、自分で答えを出すことが大事です。

考えて、考えて納得してゆく。

大事なのは、自分の納得なのだと考えます。



可能性にフタをしないこと [2021年07月31日(Sat)]

不登校だったのに、高校に入学できてよかったね。
不登校を経験しても、立派に働いているのはすごい。

不登校であることは、可能性がないことと同義だと思われています。

学校にゆくかゆかないか?学校でいい成績をとるか取らないか?
子どもたちの可能性にフタをしているのは、誰なんでしょうか?

「学校にゆかないのは、子どもの可能性を奪うことだ」というフタをつくっているのは、大人の価値観です。そのフタを受け入れて、自分で締めているのは子どもです。自分でフタをしたものを、簡単に外すことはできません。
だから、子どもたちは深く苦しんでしまいます。

逃げることもできません。

大人は、その罪深さを自覚することもしません。

自分たちの知恵を、どんどん集めれば、どんどん成果も出せるのに、子どもたちはどんどん行動を制約されます。エネルギーを奪われた子どもたちは、出せる成果も出せなくなります。

フリースクールでは、お互いの力を集めて挑戦してゆきます。
子どもの可能性を開いてゆきます。

自分の可能性にフタをしないように。

夏休みという天国を大事にしよう [2021年07月29日(Thu)]

学校にゆかない子どもにとって、学校が休みなんて関係がないと思うかもしれません。
どうせ学校にゆかないのだから、休みだろうが、試験をやっていようが関係ないだろうと思うかもしれません。

でも、学校のことは気になるのです。
不登校の子どもは、学校を気にしている。
それくらい学校は、まだまだ不登校の子どもに影響力があると思います。

だって学校は、社会と同じだから。

子どもは日本の社会が怖いんです。

それは、異質なものを受け入れないという怖さです。

積極的に反対もしないけれど受け入れない。

なんと不気味なことか・・・・。

受けれ入れらないと、多くの人はめげます。
不登校の子どもだってめげます。

めげてもいいから、夏休みは思い切り楽しんでほしいなあと思います。

楽しみまで奪われることは、誰も望んでいませんから。
大人に従わなくてもいいんだよ [2021年07月25日(Sun)]

父親になって、意外なことに気がつく。
息子が自分に似ていると言われると、妙にうれしいのだ。この感覚は親になったから感じるのか?
種の保存という観点で言えば、自分に従う子どもがいるだけで安心するのか?

私自身もよくわからない。
要は、自分がこの世に生まれた証としての、子どもの存在を嬉しく感じている「だけ」の問題なのだろう?我が子から言わせれば、我が子というのもおこがましいくらいに、父親に似ていると言われることが気に入らないらしい。


これは、自分もそうだったので良くわかる。

幸いにして、私は父親に似ていない。

本題はここから。

大人に従う必要って本当にあるのですか?
子どもの頃からの悩みでもあります。
お父さん、お母さん、学校の先生のいうことを聞かないと幸せになれないのでしょうか?

結論から言えば、大人に従わない方が社会を変えられる可能性があります。現状の社会に、順応しすぎない方が疑問が生まれます。疑問をたくさん持つ子どもの方が、自分で考える力がつきます。社会への不平不満をいうことは、社会を変えることができない自分を慰めているだけであることに、気がつきます。

本気で社会を変えたかったら、大人に順応しない子どもになることです。

自分で考える、行動する変化をつくる。言語化することの繰り返しです。
間違いを探しと創意工夫 [2021年07月16日(Fri)]

最近誤字が多い。
書きたいことがたくさんあるので、勢い余ってどんどん書いてしまいます。
勢いで書いているので、間違うことも多くあります。
間違うことは悪いことかもしれませんが、人権侵害でもしない限りは多様の誤りは許してもらおうと思っている。私は、間違うことと、できないことと、勇気があるわけでもない。けれども創意工夫は大好きだ。
たくさん工夫をすれば、「それだけ楽しい」自分なりの挑戦がたくさん入っている。
私は、いつももっとたくさんの工夫ができるはずだと信じて疑わない

不登校をしていると、たくさんのことができる時間が山ほどある。

自分の思い通りにしようと、指導する人もいない。このことがとても大事だと思っている。

不登校は、たくさんの間違い探しにさらされながら。
その行為自体を、間違いだ。自殺行為だと否定されながら。

けれどもめげずに、創意工夫をしてゆくことが楽しいし、次につながってゆきます。




多くの人と関われないのは、無価値なのか? [2021年07月07日(Wed)]

子どもが不登校した時に、親が心配するのは人と一生関われないのではないか?

大雑把で、かつ大胆な宣告です。

人と関わって仕事ができないとすれば、仕事を一生できないのではないか?と思う大人は実に多いです。大勢が嫌い、合わせるが嫌い、全員で目的を達成できなくてもいい。

やりたい目標を、自分で達成するだけでもいい。

誰もが個人として、生きたいように生きればいい。

私は、逆に問いを出したいのですが・・・・・。


誰かと協調性があっても、やりたいことのない人はただ流されるだけではないか?

私は変な協調性で、仕事をやっても本当に、本人が誰が満足するのか??疑問です。

みんなが仲良く仕事をしている姿が、好きな人もいるのかもしれません。

仲いいのは大事誰でも、同じ目的があればこそだと私は思います。

ただ仲の良さを、強調されると私は断然少し引きたくなります。


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