
先日入居してきたNさんに、採れたてのブラックベリーをもってごあいさつ。
おそらく来年からは食べきれないほどのブラックベリーが収穫できるので、もらったお得感は今年だけかもしれません。ブラックベリーの次なるアイテムを探さなければ・・・。
都市部のアパートやマンションでは、こういった何気ないあいさつ+αがほとんどなくなっています。花園荘の周辺も例外ではありませんが、
「ブラックベリーが採れたけど食べますか?」
と声をかけられて、応えない人は多くはありません(顔見知りでない方には、さすがに声かけしませんが)。
住居という「個」は充実していて、交通手段や買い物をする便利さである「公」も充実しているのですが、隣人同士で作る「共」が欠落しているように感じます。
先日お越しいただいた方も
「子どもが生まれてはじめてわかったけれど、家と外の間に子どもを連れて行く空間がない」
とおっしゃっていました。
家の中じゃなくて、公園じゃなくて、子どもがちょっとぐずったときに、家着でパッと出られる、わたし「たち」の場所。
この「共」というものは、コミュニティであったり、居場所であったり、つながりであったり、様々な表現がされていますが、この「共」が希薄になっていることは、私たちの生活を身軽にしている一方で、過酷にしているようにも思います。
山あり谷ありの人生の中で、自分に力があり、身軽なときは、自分に有利な環境に身を置くことができますが、精神的に落ち込んだり、事故に遭ったり、不遇が重なって力が弱まったり、身動きが取れなくなる時期も必ずあります。また、先ほどの親子のように、小さい子どもがいたり、家族が病気になるなどすれば、自分は身軽でも、結局動けなくなることもあります。
そういう時に、声をかけたり、話を聞いてもらったり、息抜きをしたり、支え合うような仲間や空間がないというのは、力のありつづける自分、身軽であり続ける自分でなければならず、とってもしんどいように思うのです。
社会的包摂といいますが、なにか困ったことがあったときに、もしくは困ったことが何もなかったとしても、自己責任と公的機関の支援の間に、仲間や地域で支え合うという選択肢を、もっと意識的に作っていく必要が、これからの社会にはあると思います。
そんなこと、当たり前だと思われるかもしれません。けれども実際に建てられるアパートやマンションには相互交流を促すデザインがなく、お年寄りが腰掛けるような空間が路地裏にはなく、ふらっとやってくる人をもてなす文化もなく、仲間や地域で支え合う力、自治の力はどんどんと私たちのまちから失われているように思います。これだけ実態が課題と逆方向に進んでいる状況からすると、社会としての課題認識がされていないのかもしれません。
私と私の間にある「わたしたち」という関係性が生み出すパワーや安心感や可能性を、私たちの社会は認識し、実効性ある政策や事業に落とし込めるときは来るのでしょうか。
ブラックベリー占いでは、甘酸っぱい感じなりそう、というよくわからない結果になりました。