続「買ってくる」木材ではなく [2007年01月27日(Sat)]
ビオフォルム 山田です。
12月に「買ってくる」木材ではなく、というタイトルで、価格競争にさらされる林業、木材市場とその裏でないがしろにされる、木材のもつ大切な意味、みたいなことを書きました。 木材もこの経済社会のなかにあって、「商品」である以上、市場というもののなかで左右される、というのはある程度仕方のないことかもしれません。 しかしながら、こうした市場と流通、ということが過度に発達した現在、何か大事なものを置き忘れていることも事実です。 平田さんが模式図で書かれたように、木材の流通過程にはたくさんのプロスセが関わっています。(農文協刊 木の家に住むことを勉強する本 にもわかりやすく書かれています) そのシステムはかつてはそれなりの意味と意義があったわけで、それぞれがキチンの仕事を果たしていたのだろうと思います。 しかし、それがいつしか流通業となり、材を「商品」として右から左に流すようなことになってきたのだと思います。 流通させること、それが目的化してしまうと、そこにある評価はかなり単一化した評価に陥るような気がします。端的には例えば「いかに安いか」 その結果、大量の外材が日本に入り込み、これだけ日本には森林資源があるのに、国産材が使われている割合は全体の2割以下です。 かつて、どの町にも八百屋さんがあって、そこでは「このきゅうりはいいねえ、」とか「悪い」とかのやりとりと会話があって、商売がなりたっていました。それが時代とともに合理化ということでスーパーとなり、今や各地の郊外には車でないと行けないようなメガストアがたくさんあります。 つまり商売相手は「町の住人」ではなく、広く「一般大衆」になってしまったわけです。 そうなると、商品のラインアップは一般大衆に対してアピールするものしか陳列できない。 つまり、平均的な答えしか返ってこない。 そこにはもはや血の通った経済、というようなものはなくなってしまったかのようです。 さて、木材も同じ。 いつもいつも木の家の仕事をしている大工さんにとっては、微妙にその違いを認識、把握できる。「こんな木が欲しいのだけれども、」という会話が成り立つ。 いつもつきあっている材木屋さん、製材所さんと「今回のこの仕事はこの程度の木」とかの会話を交わしながら仕事をしていると、コストに応じて、「今回はこんな木を出しましょう」とかそうしたやりとりができる。 それがひとたび「市場」から買ってくるとなると、杉、といえば秋田杉しかイメージできないような人ともおつきあいをせざるを得なくなるかもしれない。 どんな商売もそうかもしれませんが、もっと血の通った経済というものが求められている時代になってきているのだと思います。 それはマスの市場を相手にするのではなく、人と人が顔をつきあわせて成り立つもの。それが結果的に「三方よし」(売り手、買い手、社会がハッピー)につながるのでしょう。大きな市場で大きな利益を上げる企業があったとしても、その利益はその会社に全てもっていかれてしまいます。 顔をつきあわせて多様な評価をしながら、家を造る。それはまず木材を調達するところからはじまります。いや、もっと前の木を伐るところの理解からはじまるのかもしれません。 東京の木で家を造る会 での木の伐採現場の見学 |