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NPO法人宮崎自殺防止センターを応援したい

NPO法人国際ビフレンダーズ 宮崎自殺防止
センターでボランティア活動を始めました。
いろいろと勉強中です。

なお、このブログは、自死等の相談に応じるものではありません。


NPO法人宮崎自殺防止センター
■ TEL 0985(77)9090
■ 毎週 日・水・金曜日
   午後8時から午後11時まで(3時間)


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見えざるものへ― 末木文美士 他人の痛み 分らない(読売新聞) [2010年05月28日(Fri)]
2010(平成22)年05月28日(金)
読売新聞
ホーム>関西発>暮らし 社会>こころのページ

見えざるものへ― 末木文美士 他人の痛み 分らない
http://osaka.yomiuri.co.jp/kokorop/kp100527a.htm



「あくがれ出づる」 写真・大友真志

「他人の痛みの分かる人になれ」
とはよく言われることだが、
それほど簡単に他人の痛みが分かるわけではない。

しばらく前から妻の変形性股(こ)関節症が悪化し、
少し前に片方を手術し、もう片方の手術待ちの状態だ。

そんなわけで、「痛い、痛い」と言うけれども、
どんなに言われても、その痛みは分かりようがない。

周囲の人がどんなにおろおろしても、
痛みはその人だけのもので、共有できない。

けれども、それでは他の人が「痛い」と言ったとき、
その意味が分からないかというと、そういうわけでもない。

子供が頭を打って「痛い」といえば、
「大丈夫、大丈夫」と頭をなでてあげるし、
「おなかが痛い」と言えば、お医者さんに連れて行く。

他人の痛みは分からないはずなのに、
なぜ他人の「痛い」という言葉を理解し、対応できるのか
ということは、哲学の世界ではけっこう難問らしい。



もっとも専門家の議論はともかくとして、
実際にはそれほど複雑に考えなくてもよいだろう。

痛みは、除去しなければ身体機能に危険があるような事態の警告
だから、あえて言えば非常ブザーが鳴っているような状態だ。

だから、その原因を探り、除去しようとすることでは、
本人であっても、他人であっても同じことだ。
他人の痛みそのものは分からなくても、
医師や看護師は適切な処置ができなければならない。

しかし、すぐに除去できる痛みであれば問題ないが、
そうでなく持続するようなものであれば、
本人にとってつらいことになる。
直接的な身体の痛みだけでなく、
精神的な不安や抑うつが伴ってくる。

「プディングの味は食べてみなければ分からない」
と言うが、どんなことでも他人事として理解するのと、
実際に経験するのとでは違っている。

とりわけつらいこと、苦しいことは、
経験した人だけがその切実さを知っている。

一度も自殺を考えたことのない人が、
いくら自殺防止と言っても、
自殺にまで追い詰められる人の心は分かるものではない。



『オルゴール』などの小説でいじめの問題を取り上げている
中園直樹さんと、しばらく前に知り合った。

自分のいじめられた体験から、
少年たちのいじめによる自殺を看過することができない
と言って、小説を通していじめの問題を訴え続けている。

大人たちがどんなにいじめの対策と言っても、
それは当事者たちに届くものではない。

中園さんは、当事者の少年たちに直接届く言葉で
語りかけようとしている。

当事者や経験者は、ある意味で特権を持つ。
当事者たちが動かなければ、社会は変わらない。

犯罪被害者たち自身が声を上げて、
はじめてその苦しみに人々の目が向けられた。

けれども、それでは当事者でない人は排除されてしまうか
というと、そうではない。

もしそうならば、障害者と健常者とは
相容れない対立しかないことになる。



先日、引きこもりの青年がインターネットをめぐるトラブルから
家族を殺傷するという痛ましい事件があった。

青年自身のつらさは家族にも分からないものであっただろうが、
そのような身内を抱えた家族のつらさもまた、
外からはうかがい知られない。

他人の苦しみにどう関わることができるかは、
とりわけ家族や身近な者にとっては切実な問題となる。

共有できない他人の痛みを、それでも受け止められるのか。
その困難な課題に直面するところから、
真の哲学や宗教が始まるのだ。

(すえき・ふみひこ 仏教学者)

読売新聞 2010年05月28日(金)
【映画評】「あの夏の子供たち」(仏) 等(読売新聞) [2010年05月28日(Fri)]
2010(平成22)年05月28日(金)
読売新聞
総合トップ>エンタメ>映画>映画評

「あの夏の子供たち」(仏)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/creview/20100528-OYT8T00684.htm

父の自殺と家族の再生

原題は「私の子供たちの父」。
仕事熱心だった父の自殺で家族はどう再生の道を歩んだのか。
人間の死と生についての一考察である。



父(ルイ=ドー・ド・ランクザン=写真右から2人目)の
職業は映画プロデューサー。
早朝から夜遅くまで企画を練り資金繰りに走り回る毎日。

が、死後多額の借金と未完成の映画が残される。
なぜ彼は命を絶ったのか。

仕事の傍ら共に多くの時間を過ごした母
(キアラ・カゼッリ=同左端)と3人の娘は
父の死をどう受け止めたのか。

ここで重要なのは映画だけでなく
家族にも深い愛を注いだ父の生き方である。

女性監督ミア・ハンセン・ラブは、父のモデルとなった
プロデューサーへの哀惜を込めて脚本を書いたという。
その父の度量の大きさ、ひたむきさ。

それなのにというべきか、だからこそというべきか、
過剰な生の輝きが突然死へと落下しても不思議はない。

それは苦境を逃れるための死ではなく、
燃え上がる生と隣り合わせの死、
日常にぽっかり空いた虚無の穴のような死だったのかもしれない。

しかし自殺の真相はともかく、残された家族の人生は続く。
母は残務整理に追われ、長女は父の知られざる足跡をたどる。

が、公私にわたる悪戦苦闘の人生をさらけ出しても
2人が父の遺志を受け継ごうとするのは映画への愛ゆえか。

思えば映画は人生のように続き、また人生も映画のように続く。
映画は人生そのもの。
終幕に流れる懐かしい名画の主題歌「ケ・セラ・セラ」
の旋律が身に染みる。

1時間50分。恵比寿ガーデンシネマ。

(映画評論家・土屋好生)

読売新聞 2010年05月28日(金)

◇ ◆ ◇ ◆ ◇

2010(平成22)年05月14日(金)
読売新聞
総合トップ>エンタメ>映画>映画ニュース

「あの夏の子供たち」ハンセン・ラブ監督
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/cnews/20100514-OYT8T00455.htm

試練はね返す強さ

ある映画プロデューサーの死という現実の出来事を題材にした
フランス映画「あの夏の子供たち」が
29日から、恵比寿ガーデンシネマで公開される。



ミア・ハンセン・ラブ監督=写真= 2作目の長編だ。

物語の中心はある家族。
パリを拠点に映画の仕事と家族に愛情を注ぐ父親が、
不況の波の中、多額の借金と未完成作をのこして自殺。

妻と3人の娘は、厳しい現実の中、
再出発へ向けて踏み出していく。

父親のモデルは、インデペンデント映画製作者として活躍し、
2005年に自殺したアンベール・バルザン。

ハンセン・ラブ監督の初長編「すべてが許される」(07年)
も、バルザンの死の前は彼の製作で作られることが
ほぼ決まっていた。

「私にとって、初めて機会を与えてくれた
 素晴らしいプロデューサーでした」。

この作品の題材に彼を選んだのは、
「映画、そして子供へと引き継がれる
 彼の『魂』を描き出したかった」
からだ。

厳しい現実を描くが、過剰に劇的な描写は一切ない。

「『題材が題材なだけに、メロドラマかと思ったら
 まったく違う』

 という言葉をたくさんいただきました。

 もちろん、悲劇は存在します。
 でも、人は苦しみや試練をはね返す強さも持っている。
 そうした現実もきちんと表現したかった」

生前、バルザンは
「映画は日常生活から遊離するものではない」
と言っていたという。

「彼にとって、映画は生きるために不可欠なものでした。
 その感覚は、私も共有しています」

読売新聞 2010年05月14日(金)
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