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NPO法人宮崎自殺防止センターを応援したい

NPO法人国際ビフレンダーズ 宮崎自殺防止
センターでボランティア活動を始めました。
いろいろと勉強中です。

なお、このブログは、自死等の相談に応じるものではありません。


NPO法人宮崎自殺防止センター
■ TEL 0985(77)9090
■ 毎週 日・水・金曜日
   午後8時から午後11時まで(3時間)


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最新記事
農村の自殺問題/発生防止運動を地域で(日本農業新聞) [2009年06月14日(Sun)]
2009(平成21)年06月14日(日)
日本農業新聞
トップ>論説

農村の自殺問題/発生防止運動を地域で
http://www.nougyou-shimbun.ne.jp/modules/news1/article.php?storyid=936

警察庁が発表した2008年における自殺の概要によると、
総数3万2,249人のうち、農林漁業者は717人だった。
全体の2%程度を占め、例年の水準で推移している。

特に職業としての農林水産業で自殺が多いわけではない。
しかし、主に農村部では高齢者の自殺率の高いことが定説で
あり、減っていないことをうかがわせる。

政府は06年に自殺対策基本法を制定し、防止活動に取り組んで
いる。実効を上げるために、もう一段の強化を望みたい。

同庁の調べでは、1998年に初めて3万人を超えてから
11年連続で3万人台になっている。

職業別では、無職者が約6割を占め、非雇用者が約3割、
自営業者が約1割という構成になる。

自営業者の中に農林漁業者は含まれる。
より一層、対策の強化が必要になっている。

一方、厚生労働省が5年ごとに発表する都道府県別生命表による
と、2005年の死因別死亡確率で、自殺は男女とも
1位は秋田県であり、男性は2位が青森、3位が岩手、
女性は2位が岩手、3位が富山――で、
豪雪県が上位に名を連ねている。

かつて新潟県東頸城地方は
“世界一の高齢者自殺地域”
と言われた。人口10万人対比の自殺率は400を超えていた。

過疎化高齢化が激しい豪雪地域で、
「自分の家を自分で守れなくなったら死ぬしかないと
 考えることは理解できる」
という高齢者の声がある。

だがこの地方は住民や行政が立ち上がり、
10年間で自殺率を100台にまで改善した。

北東北、特に日本海側の農村県・豪雪地帯には自殺に関連する
共通の要因があると考える研究者がいる。
気候的な要因がうつ病的な気分を助長させているのではないか
とする研究もある。
だから秋田県でも青森県でもさまざまな取り組みを進めている。

秋田県の自殺予防対策は、2000年度から本格化した。
県民への啓発から始め、相談窓口の設置など、
心の健康ネットワークづくりを進めてきた。

一方で、市町村の行うきめ細かな対策を重視して支援してきた。
警察庁調査で自殺率が最悪県だったこともあるが、
これらの活動で最悪県を脱した。

国際的に見ると、自殺予防対策でフィンランドが優良事例に
挙げられる。
1980年代に自殺率低下を国家プロジェクトに据え、
約10年で目標の20%削減を達成した。
スウェーデンやオーストラリアなども国策と位置付けて活動して
いる。

自殺という現象をタブー視せず、積極的な対策を打つことの
重要性が内外の事例から分かる。

これまでのところ、わが国の対策は十分とはいえない。
行政の一層の対応を期待すると同時に、
住民自身も対策を考え具体的に活動し、行政を巻き込みつつ、
地域で自殺の発生を防ぐ運動に取り組むべきだ。

日本農業新聞 掲載日:2009-6-14 12:02:00
●自殺電話相談員 養成講座を紹介 14日、宮崎市(宮崎日日新聞) [2009年06月14日(Sun)]
宮崎日日新聞社さま、NPO法人宮崎自殺防止センターの
「電話相談員(ビフレンダー)養成講座」及び
「オープンハウス」(相談員養成講座の公開見学会)
の告知記事の掲載をいただき、たいへんありがとうございました。



宮崎日日新聞及びこのブログをごらんいただいたみなさま、
NPO法人宮崎自殺防止センターでは、ただいま、
電話相談員(ビフレンダー)を募集しています。
ぜひとも多くの方々に仲間に加わっていただければ幸いです。



6月28日(日)から7月26日(日)まで、
第6期生の電話相談員(ビフレンダー)養成講座が始まります。
(毎週日曜日、全5回)
http://www3.ocn.ne.jp/~spcmiya/bosyu06.pdf



電話相談時間の延長及び電話相談日を増やすためには、スタッフ
の増員が欠かせません。しかし、まだまだスタッフが足りません。

興味・関心のある方も、「それって、どうよ」と思われた方も、
ぜひとも6月14日(日)の「オープンハウス」にお越しを
いただければ幸いです。

以下、引用

*******

2009(平成21)年06月07日(日)
宮崎日日新聞 第25面(社会面)

自殺電話相談員 養成講座を紹介
14日、宮崎市

電話相談などで自殺防止に取り組む特定非営利活動法人
(NPO法人)国際ビフレンダーズ宮崎自殺防止センターは
14日(日)午後1時半から、宮崎市の市教育情報研修センター
で電話相談員の養成講座について紹介する「オープンハウス」
を開く。参加無料。

同法人は週3回、相談員が交代で電話相談に応じており、
28日(日)から電話相談員の養成講座を始める。

14日(日)は同法人の活動内容を紹介したり、
電話相談を模擬体験したりする。

参加希望者は、氏名、電話番号を書いてファクスで申し込む。
締め切りは13日(土)で定員は20人。

申し込み、問い合わせは同法人
電  話 080(6403)2291、
ファクス 0985(77)9222。

宮崎日日新聞 2009年06月07日

*******

以上、引用終わり



なかなかしんどいところもあるボランティアですが、
やりがいもあります。

☆ しっかりと話を「聴く」スキルや構えが身に付く
☆ 信頼でき、尊敬できる仲間(広い年齢層と多彩なキャリア)
  が増える
☆ 自分や周りの方々の気持ちに気付きやすくなる

などのメリットもあるのではと、個人的には感じております。

スタッフ一同、ご参加をお待ちしております (^_^)
日曜ひろば:富山ダルク責任者・林敦也さん/富山(毎日新聞) [2009年06月14日(Sun)]
2009(平成21)年06月14日(日)
毎日新聞 地方版
トップ>地域ニュース>富山

日曜ひろば:富山ダルク責任者・林敦也さん/富山
http://mainichi.jp/area/toyama/news/20090614ddlk16040368000c.html

◇薬物の危険性伝える 共同生活で依存症者支え
−−林敦也さん(34)

シンナーや覚せい剤などの薬物依存症者を支える民間リハビリ
施設「富山ダルク」が昨年5月、北陸地方で初めて富山市に
開設された。

若年層への薬物汚染が広がる中、10代、20代からの相談が
多く寄せられている。
「薬を使い続けた先には死か刑務所。それしかない」。

そう話す責任者の林敦也さん(34)も、薬物依存症と闘った
1人。依存症に苦しむ人たちと共同生活を送りながら、
薬物の危険性を伝える林さんに話を聞いた。 【蒔田備憲】

◆富山で活動を始めて1年がたった。

最初は世間にどう見られるのか不安でした。
役所などへあいさつ回りしても
「うちのとこにはいないよ」
「相談も少ない」

と言われましたし。
でも実際は若い子からの電話相談が多く寄せられ、
「やっぱり必要なんだ」
と感じました。

最近は地域からも声をかけられるようになり、海岸清掃に取り
組んだり、和太鼓演奏で地域の祭りに参加したりしています。

◆ダルクでは依存症者が共同生活を送る。
 特徴的なのは毎日行うミーティングだ。

基本的に言いっぱなし、聞きっぱなしです。
依存症の人は、家族や周囲から
「早くやめろ」
「だからダメなんだ」
などと言われ続けています。

だからダルクでは虚勢を張らず、苦しいことを正直に言える
ようにするんです。

「薬を使いたい」
という本音さえ言える。

今の社会が生きづらくて薬を使ってしまった人には、
そういう場が必要なのだと思います。

一方で薬を克服して元気になった人を見て
「私にもできる」
と励まされ、
「もう依存症にはならない」
と決意できるんです。

◆自身も「茨城ダルク」への入寮がきっかけで依存症から
 逃れることができた。

中学2年でシンナーを吸ってから、覚せい剤、大麻、処方される
精神薬と、あらゆる薬に手を出しました。
26歳の時、仕事を続けられず、薬をやりたくて家に逃げ帰って
きた時、荷物がすべて家の外に出されていました。

両親には
「死ぬのも浮浪者になるのも自由」
と。1日、歩き回って迷いました。結論は
「やっぱり生きてみたい」。

それで茨城ダルクに入ったのです。

◆薬が抜けるまでは本当につらかった。

1回17〜18錠飲んでいた睡眠薬を1錠にするんです。
汗、震え、イライラ感……。薬が欲しくてたまらない。
そんな姿を見て、入寮生が
「おれもそうだったよ」
と声をかけてくれた。

それまで
「何でおれだけ苦しい思いをしなきゃいけないんだ」

と思ってた。でもそうじゃないと気づき、孤独感が消えました。
気持ちが通じ合うのって楽なんだって。
数カ月で、薬に頼らなくても暮らせるようになったんです。

◆富山刑務所では薬物依存だった受刑者とミーティングを開く。

刑務所を出ても、行き先がなければまた薬に手を出し、
他人に薬を伝えるという連鎖汚染を防ぐ取り組みです。

「ダメ、ゼッタイ」
だけでは、もう薬物乱用は止まりません。

薬は向こうからやってくる。ほとんどの保護者は
「うちの子に限って」
と思っているでしょうが、それはありえません。

薬物依存は病気。
その理解を広めるためにも、県内でフォーラムを開きたい。
それが今の目標です。

==============

■人物略歴

◇はやし・あつや
1974年生まれ。愛知県瀬戸市出身。
26歳で茨城ダルクに入寮し、依存症を克服して施設スタッフに。
富山ダルク開所とともに責任者として富山に移った。
ダルク(DARC)は、

Drug(薬物)、
Addiction(依存症)、
Rehabilitation(リハビリ)、
Center(施設)

の頭文字を取ったもの。

毎日新聞 2009年06月14日 地方版
現場発・更生のゆくえ:再犯防ぐ「帰る場所」、依然民間頼み(毎日新聞) [2009年06月14日(Sun)]
2009(平成21)年06月14日(日)
毎日新聞 2009年06月14日
トップ>オッショイ! 九州>フォトジャーナル

現場発・更生のゆくえ:再犯防ぐ「帰る場所」、依然民間頼み/全国に102施設「まだまだ足りない」
http://mainichi.jp/seibu/photo/news/20090614sog00m040005000c.html



仮出所し、湧金寮で暮らしたころの男性
=北九州市小倉北区で、野村雄二撮影

ベッドと移動式ロッカー、小型テレビが置かれた個室は、
殺風景だが清潔だった。

北九州市小倉北区鋳物師(いもじ)町の更生保護施設
「湧金(ゆうきん)寮」。

刑務所や少年院を出ても行き場がない人たちが、
午後9時半の門限を守り、アルコールを断って暮らしている。

男性専用で定員は20人。常勤4人、非常勤2人の保護司と
調理員が切り盛りする。

1917(大正6)年、宗教団体や当時の監獄職員らが中心に
なって設立した民間施設だ。

国や自治体から委託費や助成を受けているが、経費は賄えず、
寄付で補っている。

同種の施設は全国に102カ所あり、年間約1万人の「再出発」
を支えている。が、湧金寮の山崎力施設長(64)は
「まだまだ足りない」
と言う。

「全国の満期釈放者の半数は帰る場所がなく、
 それが再犯を生む土壌にもなっている」

湧金寮の平均入所期間は2〜3カ月。
年間約100人が出入りする。

49歳男性もその1人だ。執行猶予中の窃盗事件で服役し、
昨年10月末に刑期を9カ月残して仮出所した。

しかし家族も戻れる古里もなく、寮を頼った。
服役中に就労支援を申し込んだハローワークに通い、
履歴書の書き方や面接の受け方などの助言を受けた。

「担当者は親身に世話してくれた」
と感謝する。

不況のただ中。職探しは厳しかった。
「履歴書の住所欄に湧金寮と書くでしょう。面接では
『どういう施設ですか』
と聞かれる。それが一番嫌だった」。

職を得たのは出所から2カ月半後。
「とにかく更生したい。何があっても刑務所よりマシ。
 楽しいですもん、仕事できることが」

男性は休日を部屋探しに費やした。貯金して寮を出て、
この街で再起する。それが願いだ。

「北九州のこと、結構好きです」。
保証人のめども立ち、先月末に寮を巣立った。

男性の職場近くに
「仮出所者施設 開設反対」
と書かれた看板が立って半年が過ぎた。

前を通るたび、男性は複雑な気持ちになる。

「おれだって近くに犯罪者がいると言われたら嫌だ。
 ただ、今の自分の立場だと『同じ人間なのにな』とも思う」

仮出所者施設とは、法務省の「自立更生促進センター」のことだ。
山崎さんは

「寮生のような人たちに少しでも機会を与えてほしい。
 国営のセンターができれば、1つでも2つでも犯罪が減る
 ということになるじゃないですか」

と期待する。ただ、反対する人も
「再犯を防ぎたい」
という思いは同じだ。



日本の更生保護制度は今一大転機にある。
目指すは民間依存からの脱却>だ。

法務省が29日、北九州市に開設する自立更生促進センターも
その一歩。変わり始めた更生保護の現場から報告する。

◇更生保護施設◇
始まりは静岡県・天竜川の治水で知られる事業家、
金原明善が出所した人が路頭に迷って自殺したという話を聞いて
明治期に設立した「静岡県出獄人保護会社」とされる。

就労支援をするほか、働くことが難しい高齢者を福祉施設に
送り出す役目も担う。

現在の不況で寮生の雇用機会は減り、湧金寮では今年3月まで
50%以上だった就労率が4月に24・7%、5月も28・5%
と悪化している。

毎日新聞 2009年06月14日
絶望と希望 コミカルに 丸亀城西高生が創作劇(毎日新聞/香川) [2009年06月14日(Sun)]
2009(平成21)年06月14日(日)
読売新聞
ホーム>地域>香川

絶望と希望 コミカルに 丸亀城西高生が創作劇
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagawa/news/20090613-OYT8T01070.htm



本番に向けて練習に力が入る部員たち(丸亀城西高で)

リストラされた会社員に、万引きする女子高校生。
県立丸亀城西高校(丸亀市)の演劇部が14日、
現代人の<心の傷>を問う創作劇を、善通寺市で開かれる
県高校演劇作品研究会で上演する。

シリアスなテーマを高校生らしくコメディータッチで描いており、
脚本と監督を担当した部長の2年穐山奈未さん(17)は
「あきらめなければ未来がひらけるというメッセージを込めた」
と話す。

タイトルは
「時給750円。〜今日も商売あがったり〜」。
舞台はコンビニエンスストアで、アルバイトの男子学生が主人公。
悩みを抱えて店を訪れる客との対話で芝居は進行する。

レジに縄を差し出した男性会社員はリストラに遭い、
自殺志願だと明かす。
「僕が死んでも悲しむ人はいませんよ」。

絶望の淵に沈む男性に主人公は問う。
「心が寂しいまま、逃げていいんですか」。

化粧品を万引きした女子高校生が恋人の浮気を打ち明けると、
こう諭す。
「心の叫びを彼氏に直接伝えたらいいじゃないか」

同部は2005年度、県総合文化祭で優良賞を受賞。
しかし、昨年度の文化祭で既存の脚本を上演したところ、
審査員に「邪道だ」と酷評された。

「日常生活の中で感じたことを演劇で表現しなければ」。
そう感じた穐山さんはニュースで流れる「リストラ」や同級生
との会話に着目し、構想に1か月を費やして脚本を書き上げた。

登場人物はバイト学生との会話で立ち直る。
「生きることの意味、希薄になった人間関係を問い直したい。
 笑わせつつ、大切なことを伝えたい」
と意気込む。

セットも手作りで、店内に並べるペットボトルは、
部員が校内のごみ箱から回収したものを使用。
初心者ながら主役に抜てきされた1年西岡潤平さん(15)は

「緊張でわくわくしています」
と初舞台に胸を膨らませ、顧問の海老野貴子教諭(40)は

「生徒たちは自由な発想で演じ、日々成長している」
と成果に期待する。

会場は四国学院大ノトススタジオで、当日は10校が参加し、
午前9時15分から1校30分の持ち時間で上演する。入場無料。

読売新聞 2009年06月14日
今週の本棚:太宰治 生誕100年特集(その2止) 池内紀・評(毎日新聞) [2009年06月14日(Sun)]
2009(平成21)年6月14日(日)
毎日新聞 東京朝刊
トップ>エンターテインメント>毎日の本棚

今週の本棚:太宰治 生誕100年特集(その2止) 池内紀・評
http://mainichi.jp/enta/book/news/20090614ddm015070003000c.html

◇器用なペンに身悶えた不器用な語り部−−池内紀(おさむ)

太宰 治が世を去って60年あまりになる。
こんなに読まれ、こんなに愛され、これほどの時がたつと、
ふつう人と作品はしだいに古典化していくものだ。
落ち着きと安定をもち、おのずと古色をおびていく。

そのなかで太宰 治はきわだった例外である。その人と作品は
いぜんとして新しく、つい昨日に咲き出た花のように初々しい。
若い世代に絶大な人気があるのも、もっともだ。
若さは何よりも古色に敏感であって、嗅(か)ぎとると
即座に背を向ける。

ハチャメチャの人生だった。太宰 治は2度自殺未遂を起こし、
3度心中を図った。心中の1度目は一方が死に、2度目は
双方が生き残り、3度目は両者とも死んだ。

古今をとわず心中沙汰(ざた)は数多くあったが、男女2人に
よる3通りの終わり方を、くまなく体験した人物は珍しい。

そのような生き方が、どれほど作品に影響したか。
第1創作集は『晩年』のタイトルをもっていた。
心中の片われ、悲しい生き残り、こころならずもおめおめと
この世にいることの生きざま。

「私はこの本1冊を創(つく)るためのみに生まれた。
 きょうよりのちの私は全くの死骸(しがい)である。
 私は餘生(よせい)を送っていく」

だが「この本1冊」で終わらず、その後に多くの傑作の生まれた
ことを、読者はむろん知っている。
それに「晩年」はただタイトルにのみあるだけで、『魚服記』を
はじめとする短篇(たんぺん)集は息をのむほど美しく、若々しい。
出だし、語りのテンポ、しめくくりのあざやかさときたら、
とても20代半ばの作とは思えない。

2度目の心中未遂については、『姥捨(うばすて)』と題して
当人がくわしく書いている。

「いいの。あたしは、きちんと仕末(しまつ)いたします」
そんな女の呟(つぶや)きのような声で始まり、

「それはいけない」
と一応は男が差しとめ、ついでこうなる。

「死のうか。一緒に死のう。神さまだってゆるして呉(く)れる」。

つづいて仲よく手をたずさえた心中行が軽妙に語られていく。
久しぶりにふところのうるおった若い夫婦が、
念願の温泉旅行に出かけたぐあいだ。

2人して露天風呂に入り、女の「丸くふとった」からだを
ながめたときの男の反応。
「今夜死ぬる物とは、どうしても、思えなかった」。

ついで雪のある白い山腹を顎(あご)でしゃくって言った。
「あの辺かな?」

心中失敗の顛末(てんまつ)を、こんなにたのしく語れるとは
どういうことか?
当の作者は自虐めいた笑いを意図したわけではないのである。
ごく自然に振舞った男の立場で述べている。

大量の催眠剤を一気にのんで、2人ならんで寝ころんだ。
「じゃあ、おわかれだ。生き残ったやつは、つよく生きるんだぞ」

その死に方の強烈な印象から、人は作品を太宰 治の人生から
読みとりがちだが、その人生は太宰作品に毫(ごう)も影響を
及ぼさなかった。

彼はデビューのときから存分に語りの技法を心得た
天成の語り部だった。

それが証拠に、この津軽の大地主の6男坊は、およそ故郷に
顔向けのできない放蕩(ほうとう)息子でありながら、ひとたび
郷里を語るとなると、『津軽』の名のもとに2つとない幻景じみた、
まこと日本人の故里というべきものを生み出した。

空襲におびえ、発表の場を統制されていた戦争末期、
もっとも書きにくい状況にあって、ひとり太宰 治はおそろしく
冴(さ)えていた。

旺盛な創作活動を展開し、その中から『お伽(とぎ)草紙』や
『新釈諸国噺(ばなし)』などの秀作を生み出した。

それに太宰自身も自分の特異な才能をはっきりと意識していた。
『斜陽』のなかに、そっとしのびこませている。
「僕は、どんなにでも巧(うま)く書けます」

構成あやまたず、適度の滑稽と悲哀をまじえて、粛然として
襟を正させる叙述もお手のもの。
「完璧(かんぺき)のお小説、朗々音読すれば、これすなわち、
 スクリンの説明か、はずかしくって、書けるかっていうんだ」

どう書いてもうまくなってしまう。イヤな才能である。
不器用な太宰 治は自分のペンの器用さに身もだえした。

はずかしくてたまらない−−つまり、このような語り部である。
どうして好きにならずにいられよう。愛さずにいられようか。
古典などにまつり上げてたまるものか。

生誕100年に際し、あらためて考えてみたい1点があると
すれば、彼が終始もっていた死への衝動だろう。
伝記類には自殺未遂、心中沙汰それぞれに、しかるべき理由が
いわれているが、『姥捨』が示しているとおり、当事者は
みずからに手をくだす際の全行動をはっきりと意識していた。

遺作となった『グッド・バイ』は、アイロニカルなタイトルを
通しても、太宰治が自分のなかの死への衝動を書いておこうと
したことがうかがえる。
とびきりの語り巧者にも、そればかりは手にあまった。

太宰の妻 美知子は、夫がよその女と、わが家のすぐ近くで死ぬ
のを見送った。いわば屈辱的な妻の立場にありながら、
『回想の太宰治』(講談社文芸文庫)
に見てとれるように、執筆の細部にわたって正確に理解し、
大切な資料をきちんと整理し保存した。

自死の想念を抱きつづけていた人の尊厳と人間性を、
最もよく見ていたせいではなかろうか。

毎日新聞 2009年6月14日 東京朝刊
さわとん(澤登和夫)さん『ありがトン』 等(MSN産経ニュース、東京新聞) [2009年06月14日(Sun)]
2009(平成21)年06月14日(日)
東京新聞
トップ>社説・コラム>筆洗

【コラム】
筆洗
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2009061402000108.html

たった一言で人生が変わることがある。
マザー・テレサの言葉を借りれば
<やさしい言葉は、たとえ簡単な言葉でも、
 ずっとずっと 心にこだまする>
からに違いない。



うつ専門のカウンセラー沢登(さわと)和夫さん(35)の場合、
2年4カ月ほど前にかけられた感謝の言葉で人生が変わった。
難病の治療で大腸を全摘出する手術を受けて退院した日、
電車で自宅に戻る途中の出来事である。



混んでいる中で座れてほっとしていると、目の前に80歳くらい
に見える女性が立った。腰が曲がり、杖(つえ)をついている。
2、3秒、席を譲るかどうか、迷った。
自分も体調が悪いのだから当然だろう。



頑張って「どうぞ」と声をかけると、下車するまでの約20分で
30回以上は「ありがとう」と言われた。
1回ごとにほんの少しずつだが、孤独感、無力感から
解き放たれていく気がしたという。



実は沢登さんは当時、うつ病でも苦しんでいたのだ。
この日を境に回復に向かい、今では病気になる前よりも
楽しく生活できていると言い切る。
だからこそ、あの日の女性の言葉を広めて、世の中まで変えたい
と願っている。



ただし「ありがとう」ではなく「ありがトン」である。
同じ題のコミックエッセーも出版した。

なぜ「トン」なのかと尋ねると
「楽しそうで、言いやすくありませんか」
と笑顔での答え。照れくさいけど口に出してみよう。

東京新聞 2009年06月14日

◇ ◆ ◇ ◆ ◇

2009(平成21)年06月07日(日)
MSN産経ニュース
ニューストップ>文化>ブックス

【著者に聞きたい】
さわとん(澤登和夫)さん『ありがトン』
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090607/bks0906070847001-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090607/bks0906070847001-n2.htm



さわとん(澤登和夫さん)

本著は、さわとん=本名・澤登和夫さん=さんという愛称の
うつ専門カウンセラーが、自らのうつ病体験を、漫画
(絵・アウチ!)を織り交ぜて明るく書いたコミックエッセー。

さわとんさんは大学卒業後に大手船会社に就職。
出向した会社では、朝は同僚より1時間早く出社し、
帰宅は終電かタクシー帰り。
「ほかの人よりもっと頑張ろうとやっていました」

過労とストレスがたたり、うつ病に。ひどいときには
「風景の色が消えてしまった」
そうだ。病気は5年半にも及び、自殺未遂や入院もし、
仕事も辞めた。

「孤独感と無力感で何もできず寝てばかり。トイレに行くのも
 面倒でした。一時は毎日10種類の薬を飲んでいました」

うつが回復に向かっていた矢先、病が襲いかかった。
潰瘍(かいよう)性大腸炎で大腸をすべて摘出。
退院して電車に乗った際、老女が前に立った。席をゆずると
「ありがとう」
と感謝された。

「こんなぼくでも人の役に立ったんだと思えました。
 それがきっかけで回復に向かっていきました」

どん底を経験した体験から、
「つらい思いをしている人たちの力になろう」
と、昨年3月、うつ病のカウンセリングルームを東京・池袋に開設
した。病院だと診察時間が短いが、90分間は話を聞くそうだ。

「悩んでいるので話を聞いてあげることが大事なんです」。
外出できない人も多いので出張カウンセリングも。



昨年9月、うつになり回復するまでを知人の漫画家、アウチ!
さんに4コマ漫画に描いてもらい、自身のホームページで公開
した。

反響があったため4コマ漫画の小冊子を昨年末、自費出版した
ところ、今年5月までに3,000冊が売れた。

本書は小冊子の体裁を改め、エッセーをふんだんに盛り込み
仕上げた。発売は13日。

「うつの人のほかに、生きづらさを感じている人にも
 読んでほしい」

(サンマーク出版・1365円)

渋沢和彦



【プロフィル】
澤登和夫 さわと・かずお
昭和49年、千葉県生まれ。早大政経学部卒。
企業のメンタルサポーターや講演などでも活躍。

MSN産経ニュース 2009年06月07日 08:45
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