廃れることのない芸術のテーマ「死を思え!」(REUTER PRESIDENT)
[2009年04月19日(Sun)]
2009(平成21)年04月19日(日)
プレジデントロイター
トップ>その他・必見連載
廃れることのない芸術のテーマ「死を思え!」
http://president.jp.reuters.com/article/2009/04/19/9297F53C-28DC-11DE-9876-68003F99CD51.php
http://president.jp.reuters.com/article/2009/04/19/9297F53C-28DC-11DE-9876-68003F99CD51-1.php
《V》Vanitas:ビジネスマンのための「現代アートABC」【第23回】
PRESIDENT オリジナル
現代アーティストは、もっと「死」を扱い、決して陰鬱ではない
作品を今こそ、生み出す必要があるのではないでしょうか。
山口裕美=文
西洋美術史的なテーマで、何度も繰り返して登場するものに
英語の「ヴァニタス(vanitas)」、
ラテン語の「メメント・モリ(memento mori)」があります。
しりあがり寿さんのマンガに「オーイ・メメントモリ」という
作品があるのでご存知の方もおられるかもしれません。
ラテン語の「メメント・モリ」を直訳すると、
「死を想え」
「死を忘れるな」
という意味になります。
「死を想え」がそのままタイトルになったり、それがテーマの
絵画は、ルーブル美術館やウィーン美術史美術館にある17世紀
のオランダやフランドル地方などの静物画の作品で、
花瓶にいっぱいの花の傍らに頭蓋骨が置かれたり、
時計が置いてあったりする、若干、憂鬱な絵です。
おそらく一度くらいは見たことがあるでしょう。
正直な話、私自身も西洋美術史の授業を受けていた時、
この不気味な絵は何だろう、どこが面白いのだろうと
素朴に思っていました。
アンジェロ・フェノメノ
幻想的に表現されたオニキスやスワロフスキーで作られた
町並みがドクロの不気味さを際立たせている。
ところが、この
「メメント・モリ」、近代・現代でもある程度時間が経つと、
まるでサイクルでもあるかのように必ず登場してくるのです。
勘の良い方なら
「そういえば、最近のファッションにドクロがたくさん
出てきているわ」
とお思いになるかもしれません。
その傾向が顕著に出たのは、前回、2007年のヴェネチア
ビエンナーレでした。
いろいろなアーティストが作品の中にドクロを使い、
なんだか人間の死がとても簡単で軽くなってしまっている事を、
悔い改めろ、とでもいっているように感じました。
「メメント・モリ」が意味するのは、貧乏人も金持ちも等しく
死神が連れ去るということです。
このフレーズが聖書のイザヤ書の中に登場することもあって、
キリスト教的には、現世での楽しみや贅沢は空しいものだと
解釈されてきました。
時計も現世での時間が減ってゆくことを示唆し、ヨーロッパの
街頭にある時計などには
「temps fugit(光陰矢のごとし)」
と刻まれていることも多いのです。
前述のしりあがり寿さんのマンガ本では
「死に近づくほど生が見えてくる」
あるいは
「死のないところにリアルはない」
というコピーが帯に書かれています。
最近、公募展の審査や若いアーティストの作品を大量に見る機会
があったのですが、彼らの作品の中に登場する「死」は、
非常に美しく、空想的で、リアルな雰囲気とは程遠い感じです。
やはり現代社会の中では「死」は身近ではないのでしょうか。
しかし、ほぼ同時期に公開され、滝田洋二郎監督の映画
「おくりびと」(第81回アカデミー賞外国語映画賞受賞)と
デヴィット・フィンチャー監督の「ベンジャミン・バトン」では
奇しくも「死と永遠」という同じテーマが溢れています。
このことは流行のファッションにドクロが出てくることと
繋がっているとしか私には思えません。
欧米にもアジアにも同じムードがある。
現在の状況には「メメント・モリ」が必要とされている。いえ、
時代の空気がそのムードを推し進めているのかもしれません。
だとしたら、現代アーティストは、もっと「死」を扱い、
決して陰鬱ではない作品を今こそ、生み出す必要があるのでは
ないでしょうか。
前回のヴェネチアビエンナーレにあった作品を
少し紹介しましょう。
美しい青い画面に刺繍されたドクロ。
作品から離れて眺めてみると、スワロフスキーのビーズの輝きが
眩しい作品。
これはアンジェロ・フェロメノの作品で、ある種、西洋美術の
伝統的な構図や色づかいを持った作品です。
また、パオロ・カネバッリの映像作品。
よく見ると子供がスラム街でサッカーに夢中になっている。
そのサッカーボールが頭蓋骨であることに気づき驚く。
ドクロの登場の仕方も最近は、非常にエグイと言っていい
でしょう。
さらに、ドクロではないのですが、28才、アメリカ人の
エミリー・プリンスの作品。イラクへ派兵されたアメリカ軍人の
IDの似顔絵を小さいカードに描き、それをアメリカの地図の上
に配置した作品です。
私達はニュースで
「すでに戦死者の数は4,000人を超えました」
と耳にしているわけですが、この作品ではそれがビジュアル化
されていて、なおかつ1人1人の似顔絵を見、描かれた紙の色は
それぞれの肌の色を示していることに気づかされます。
このような作品は、死そのものを作品化していて、
遠く離れた死であっても、具体的な情報であるために、
見ている人も口数が少なくなるし、笑顔も消えてしまっています。
エミリー・プリンス
イラクへの派兵で戦死した人々は、それぞれに家庭があり
友人があったことがわかる。その死亡年齢の若さには絶句。
一方、江戸時代の日本の絵画にも、ドクロは登場しています。
例えば、有名な川鍋暁斎の「地獄太夫」。
誘拐された女性があまりに美しかったために、遊女に売られ、
その名も「地獄太夫」と呼ばれた室町時代の実在の人物をモデル
にしています。
この絵には、一休和尚が登場しますが、彼はドクロが弾く三味線
の音をバックに踊っている姿で描かれます。
それは、自分の身を嘆き
「これも前世の不信心ゆえ」
であると懺悔の心を込めて自ら「地獄」を名乗った太夫を、
一休禅師が慰めたという逸話の絵画ですが、
腹を括った太夫の周辺で、三味線を弾き、踊るドクロの姿は、
まさに「メメント・モリ」を訴えているかのようです。
それにしても、日本人アーティストのセンスには驚くとともに、
300年も前に、こうしたある意味、ポップで深い絵画が
描かれたことに感動します。
今の時代は、平和であり、有難いことに長く平和が続いている
日本人は、時々「平和ボケ」と自ら呼んだりします。
しかし今日と同じ日は二度とないのです。
また、アーティストが死をそのテーマに扱う時こそ、自分が毎日、
どう生きているか、が問われると思います。
「死」を考えることは「生きる」ことを考えること。
そしてドクロの流行は、毎日、真剣に生ききるために、
「死」を身近に置くことが必要になっていることの現れなのです。
◇
プロフィール
山口 裕美
Yumi Yamaguchi
●アートプロデューサー&アートジャーナリスト。
アーティストをもっとも近くから応援するその活動から
「現代アートのチアリーダー」の異名を持つ。
ウェブサイト、トウキョウトラッシュを主宰。
アート系NPO法人芸術振興市民の会(CLA)理事。
エレクトロニックアートの祭典「eAT金沢99」の
総合プロデューサー、2004年ARS ELECTRONICA ネットビジョン
審査員。
著書に
「TOKYO TRASH web the book」(美術出版社)、
「現代アート入門の入門」(光文社新書)、
「COOL JAPAN-疾走する日本現代アート」(BNN新社)、
「芸術のグランドデザイン」(弘文堂)、
「Warriors of Art」(講談社インターナショナル)、
最新刊「The Power of Japanese Contemporary Art」(アスキー)がある。
プレジデントロイター 2009年 04月19日
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http://president.jp.reuters.com/article/2009/04/19/9297F53C-28DC-11DE-9876-68003F99CD51-1.php
《V》Vanitas:ビジネスマンのための「現代アートABC」【第23回】
PRESIDENT オリジナル
現代アーティストは、もっと「死」を扱い、決して陰鬱ではない
作品を今こそ、生み出す必要があるのではないでしょうか。
山口裕美=文
西洋美術史的なテーマで、何度も繰り返して登場するものに
英語の「ヴァニタス(vanitas)」、
ラテン語の「メメント・モリ(memento mori)」があります。
しりあがり寿さんのマンガに「オーイ・メメントモリ」という
作品があるのでご存知の方もおられるかもしれません。
ラテン語の「メメント・モリ」を直訳すると、
「死を想え」
「死を忘れるな」
という意味になります。
「死を想え」がそのままタイトルになったり、それがテーマの
絵画は、ルーブル美術館やウィーン美術史美術館にある17世紀
のオランダやフランドル地方などの静物画の作品で、
花瓶にいっぱいの花の傍らに頭蓋骨が置かれたり、
時計が置いてあったりする、若干、憂鬱な絵です。
おそらく一度くらいは見たことがあるでしょう。
正直な話、私自身も西洋美術史の授業を受けていた時、
この不気味な絵は何だろう、どこが面白いのだろうと
素朴に思っていました。
アンジェロ・フェノメノ
幻想的に表現されたオニキスやスワロフスキーで作られた
町並みがドクロの不気味さを際立たせている。
ところが、この
「メメント・モリ」、近代・現代でもある程度時間が経つと、
まるでサイクルでもあるかのように必ず登場してくるのです。
勘の良い方なら
「そういえば、最近のファッションにドクロがたくさん
出てきているわ」
とお思いになるかもしれません。
その傾向が顕著に出たのは、前回、2007年のヴェネチア
ビエンナーレでした。
いろいろなアーティストが作品の中にドクロを使い、
なんだか人間の死がとても簡単で軽くなってしまっている事を、
悔い改めろ、とでもいっているように感じました。
「メメント・モリ」が意味するのは、貧乏人も金持ちも等しく
死神が連れ去るということです。
このフレーズが聖書のイザヤ書の中に登場することもあって、
キリスト教的には、現世での楽しみや贅沢は空しいものだと
解釈されてきました。
時計も現世での時間が減ってゆくことを示唆し、ヨーロッパの
街頭にある時計などには
「temps fugit(光陰矢のごとし)」
と刻まれていることも多いのです。
前述のしりあがり寿さんのマンガ本では
「死に近づくほど生が見えてくる」
あるいは
「死のないところにリアルはない」
というコピーが帯に書かれています。
最近、公募展の審査や若いアーティストの作品を大量に見る機会
があったのですが、彼らの作品の中に登場する「死」は、
非常に美しく、空想的で、リアルな雰囲気とは程遠い感じです。
やはり現代社会の中では「死」は身近ではないのでしょうか。
しかし、ほぼ同時期に公開され、滝田洋二郎監督の映画
「おくりびと」(第81回アカデミー賞外国語映画賞受賞)と
デヴィット・フィンチャー監督の「ベンジャミン・バトン」では
奇しくも「死と永遠」という同じテーマが溢れています。
このことは流行のファッションにドクロが出てくることと
繋がっているとしか私には思えません。
欧米にもアジアにも同じムードがある。
現在の状況には「メメント・モリ」が必要とされている。いえ、
時代の空気がそのムードを推し進めているのかもしれません。
だとしたら、現代アーティストは、もっと「死」を扱い、
決して陰鬱ではない作品を今こそ、生み出す必要があるのでは
ないでしょうか。
前回のヴェネチアビエンナーレにあった作品を
少し紹介しましょう。
美しい青い画面に刺繍されたドクロ。
作品から離れて眺めてみると、スワロフスキーのビーズの輝きが
眩しい作品。
これはアンジェロ・フェロメノの作品で、ある種、西洋美術の
伝統的な構図や色づかいを持った作品です。
また、パオロ・カネバッリの映像作品。
よく見ると子供がスラム街でサッカーに夢中になっている。
そのサッカーボールが頭蓋骨であることに気づき驚く。
ドクロの登場の仕方も最近は、非常にエグイと言っていい
でしょう。
さらに、ドクロではないのですが、28才、アメリカ人の
エミリー・プリンスの作品。イラクへ派兵されたアメリカ軍人の
IDの似顔絵を小さいカードに描き、それをアメリカの地図の上
に配置した作品です。
私達はニュースで
「すでに戦死者の数は4,000人を超えました」
と耳にしているわけですが、この作品ではそれがビジュアル化
されていて、なおかつ1人1人の似顔絵を見、描かれた紙の色は
それぞれの肌の色を示していることに気づかされます。
このような作品は、死そのものを作品化していて、
遠く離れた死であっても、具体的な情報であるために、
見ている人も口数が少なくなるし、笑顔も消えてしまっています。
エミリー・プリンス
イラクへの派兵で戦死した人々は、それぞれに家庭があり
友人があったことがわかる。その死亡年齢の若さには絶句。
一方、江戸時代の日本の絵画にも、ドクロは登場しています。
例えば、有名な川鍋暁斎の「地獄太夫」。
誘拐された女性があまりに美しかったために、遊女に売られ、
その名も「地獄太夫」と呼ばれた室町時代の実在の人物をモデル
にしています。
この絵には、一休和尚が登場しますが、彼はドクロが弾く三味線
の音をバックに踊っている姿で描かれます。
それは、自分の身を嘆き
「これも前世の不信心ゆえ」
であると懺悔の心を込めて自ら「地獄」を名乗った太夫を、
一休禅師が慰めたという逸話の絵画ですが、
腹を括った太夫の周辺で、三味線を弾き、踊るドクロの姿は、
まさに「メメント・モリ」を訴えているかのようです。
それにしても、日本人アーティストのセンスには驚くとともに、
300年も前に、こうしたある意味、ポップで深い絵画が
描かれたことに感動します。
今の時代は、平和であり、有難いことに長く平和が続いている
日本人は、時々「平和ボケ」と自ら呼んだりします。
しかし今日と同じ日は二度とないのです。
また、アーティストが死をそのテーマに扱う時こそ、自分が毎日、
どう生きているか、が問われると思います。
「死」を考えることは「生きる」ことを考えること。
そしてドクロの流行は、毎日、真剣に生ききるために、
「死」を身近に置くことが必要になっていることの現れなのです。
◇
プロフィール
山口 裕美
Yumi Yamaguchi
●アートプロデューサー&アートジャーナリスト。
アーティストをもっとも近くから応援するその活動から
「現代アートのチアリーダー」の異名を持つ。
ウェブサイト、トウキョウトラッシュを主宰。
アート系NPO法人芸術振興市民の会(CLA)理事。
エレクトロニックアートの祭典「eAT金沢99」の
総合プロデューサー、2004年ARS ELECTRONICA ネットビジョン
審査員。
著書に
「TOKYO TRASH web the book」(美術出版社)、
「現代アート入門の入門」(光文社新書)、
「COOL JAPAN-疾走する日本現代アート」(BNN新社)、
「芸術のグランドデザイン」(弘文堂)、
「Warriors of Art」(講談社インターナショナル)、
最新刊「The Power of Japanese Contemporary Art」(アスキー)がある。
プレジデントロイター 2009年 04月19日